女神エルーシャは今日も地球を覗き見て
女神エシャールは、まだ新米だった。
神々は自然に生まれる存在ではない。
神の子として生み出され、幾百年、幾千年もの時間をかけて修行し、十分な力を蓄えた者だけが、自らの星を作ることを許される。
それは、神にとって成人の儀式のようなものだった。
世界を創り、生命を宿し、文明を芽吹かせ、その行く末を見守る。
星を持つことは、大きな栄誉であり、祝福でもある。
星は、それを創った神の人格を映す。
優しい神の星は穏やかになり、苛烈な神の星は争いが絶えない。
だからこそ、初めて星を作る若い神々は、先達の神に教えを請う。
エシャールも例外ではなかった。
いくつもの星を巡り、様々な世界を見せてもらう中で、彼女は何度も同じ言葉を聞いた。
――地球を見なさい。
地球は、神々の間でも有名な星だった。
繁栄と衰退を繰り返し、争いの中で技術を急速に発展させながら、自ら生み出したものによって滅びへ近づいていく。
美しい文化を生み出す一方で、それを踏みにじる残酷さも持ち合わせた、矛盾に満ちた星だった。
生命とは何なのか。
文明とは何か。幸福とは何か。
答えの見つからない問いを抱えたエシャールは、兄や姉のもとを訪ねた。
最初に会ったのは、屈強な身体を持つ兄だった。
気性は荒いが、困っている者を放っておけない男神だ。
兄は地球を眺めながら腕を組んだ。
「地球は参考になるぞ、エシャール。技術が発展するたびに争い、同じ過ちを繰り返している」
「それは、どうしてですか?」
「技術は生活を便利にするが、同時に欲望も増幅させる。欲望が争いを招き、その争いが滅亡を早める。だから俺の星では、技術の発展を途中で止めている」
「それなら、争いも減ったのですか?」
「いや、争いは止めていない。生き残るためには、互いに競い合うことも必要だ」
兄が指し示した先には、地球の戦場が映っていた。
炎に包まれた街を人々が逃げ惑い、銃声と爆音が響いている。
「争いが、すべて悪いとは限らない。競争は文明を育てる。痛みを知るから守ろうとし、失ったことを知るから手に入れようとする。そうして生き物は前へ進むんだ」
兄の星は平和ではない。
けれど、住人たちが滅びないように調整されていた。
そこには、兄なりの考えがあった。
次に訪ねたのは、優雅な衣を纏った姉のもとだった。
姉は地球を覗くと、興味深そうに目を細めた。
「地球は、文化や芸術が素晴らしいわ」
姉の指先が空をなぞると、音楽や踊り、絵画、彫刻、演劇が次々と映し出された。
「人間は壊れやすいのに、こんなにも美しいものを生み出せるの。それすら争いに利用してしまうこともあるけれどね」
「姉様の星は、平和なのですか?」
「いいえ。私の星には魔王がいるわ。文化を壊す魔王と、それを守る人々に分けたの。発展のために危機が必要でも、人間同士で起こす必要はないでしょう?」
姉の星では、争いの原因を外敵にすることで、文化が内側から失われないようにしていた。
兄とは異なる考え方だったが、そこにも合理性があった。
エシャールは、長い時を生きた老神にも会った。
星の光さえ吸い込みそうな暗い瞳を持つ神だった。
「平和だけでは、世界は死ぬ」
老神は静かな声で告げた。
「かつて私は、嫉妬も憎悪も嫌悪も取り除いた。戦争も飢餓も競争もない、幸福だけの世界を作った」
「それなら、素晴らしい星になったのですか?」
老神は首を横に振った。
「生き物は幸福にも慣れる。刺激を失った住人たちは、より強い幸福を求めて狂った。最後には、死ねば永遠の幸福を得られると信じ、世界から誰もいなくなった」
エシャールは小さく身震いした。
苦しみを取り除くだけでは、幸福な世界にはならない。
過ぎた安らぎは停滞を生み、ときには住人を狂気へ導く。
兄と姉、老神の言葉を胸に、エシャールは考え続けた。
幾度も迷いながら自分なりの答えを見つけ、初めての星を作った。
星の名は、クラウディス。
クラウディスには、喜びだけでなく悲しみもあり、正義と悪もある。
人が増えすぎて世界が疲弊しないよう、様々な種族と魔物を生み、生存競争によって互いの数が調整されるようにした。
科学技術の発展には制限を設け、その代わりにスキルを与えた。
剣を振るう者には剣の技を、傷ついた者を救いたいと望む者には治癒の力を。
人間、獣人、妖精、竜人、ドワーフ、エルフ。
外見も価値観も異なる者たちが混ざり合えば、文化や芸術も豊かになるはずだった。
争いがあるから、守りたいものが生まれる。
守りたいものがあるから歌が生まれ、その思いが絵や物語へ姿を変えていく。
エシャールは、自分の作ったクラウディスが好きだった。
好きだったのだが――。
ある日、エシャールは天上宮殿の窓からクラウディスを覗き込み、首を傾げた。
「……どうしてでしょう?」
眼下の市場には、肉や野菜、香草、魚が並び、魔物の素材まで食べられるように加工されて売られている。
地球にはない食材も多く、種類だけなら地球より豊富かもしれない。
それなのに、食文化だけが発展しなかった。
塩を振って焼いただけの肉に、硬いパン。
肉や野菜を塩味で煮込んだスープ。
数百年が経っても、料理はほとんど変わっていない。
「科学を制限したからでしょうか。それとも、魔物の脅威があるから……?」
スキルを使えば塩や砂糖を作ることができ、火を操れば温度の調整も難しくない。
料理を発展させる環境は整っているはずだった。
答えを見つけられずに悩んでいると、背後から姉の声が届いた。
「どうしたの、エシャール?」
「姉様。クラウディスの食文化が発展しないのです。食材もスキルもあるのに、何百年も同じような料理ばかりで……」
姉は納得したように微笑んだ。
「食文化は、技術だけでは育たないのよ。必要なのは、食に対する執念と、それを楽しめるだけの余裕ね」
「余裕……ですか?」
「常に命を脅かされていたら、料理は楽しみではなく、生きるために栄養を取るだけの作業になるでしょう?」
姉が指先を振ると、地球の日本が映し出された。
白米と味噌汁、焼き魚、漬物。
さらに寿司や天ぷら、ラーメン、洋菓子、和菓子へと映像が切り替わっていく。
湯気の向こうに並ぶ色とりどりの料理を見つめるうちに、エシャールの目は自然と輝いていた。
「あの国の人々は、外から入ってきた料理を自分たちなりに作り変えてきたの。作ることにも食べることにも熱心だから、参考にするといいわ」
「ですが、どうすればクラウディスへ伝えられるのでしょう?」
「良い人を見つけたら、自分の星へ招けばいいのよ。地球の人間は、転生や魔法、異世界を物語として知っているから、理解も早いわ」
けれど、人を招くことは、その運命へ介入することでもある。
異なる世界の魂を迎える以上、その後にも責任を負わなければならない。
だからこそ、慎重に選ぶ必要があった。
それからエシャールは、数十年をかけて地球の人間を探した。
料理人、研究者、旅人、軍人、主婦、学生。
この人ならと思っても、すでに別の神が目をつけていることがあった。
先に異世界へ招かれた者が、力を求めて暴走する姿を目にしたこともある。
欲しいのは、過激な改革を起こす者ではない。
暮らしの中へ緩やかな変化をもたらしてくれる者。
すぐに花を咲かせなくても、最初の種を蒔いてくれるだけでよかった。
そうして探し続けたある日、エシャールは一組の夫婦を見つけた。
地球の小さな家。
台所では、一人の女性が湯気の立つ鍋を混ぜていた。
その背後には、仕事から帰ったばかりの男性が立っている。
「瑛太さん、お仕事お疲れさま。今日も大変だったね」
「ああ。少し疲れた。今日の夕飯は?」
「味噌汁と生姜焼きだよ」
真由さんが鍋を混ぜていると、瑛太さんが背後からその腰へ腕を回した。
真由さんは困ったように笑いながらも、追い払おうとはしない。
「仲の良いご夫婦ですね」
真由さんは物語やゲームが好きで、料理を作ることも食べることも好きだった。
瑛太さんは動物や自然を好み、物を作ることにも関心を持っている。
感情を大きく表には出さないが、歳の離れた真由さんを何より大切にしていた。
二人なら、クラウディスでも支え合って生きていけるかもしれない。
真由さんは見知らぬ食材を前にしても、どうすれば美味しく食べられるのかを考えるだろう。
瑛太さんも、必要な道具がなければ、自分の手で作ろうとするはずだ。
急激な変化を求めず、一つずつ暮らしを整えていく二人なら、クラウディスへ新しい風を運んでくれるかもしれない。
「お二人の人生が終わるときに、声をかけてみましょう」
受け入れてくれたなら嬉しい。
断られたときは、静かに見送る。
どれほど気に入っても、無理やり連れていくことだけはしない。
そう心に決め、エシャールは今日も地球を覗き見る。
同じ食卓で食事をし、ときに意見を違えながらも、互いの隣で日々を重ねていく二人。
その暮らしの中には、確かな幸福があった。
エシャールは願った。
いつの日か二人が、クラウディスへ新しい風を運んでくれますように。
このときのエシャールは、まだ知らなかった。
食文化とは、ただ美味しいものを作ることではない。
誰かを思って料理を作り、同じ食卓を囲みながら日々を重ねていくこと。
それは、生きる意味を積み重ねることでもある。
そして、ときには戦争や魔王よりも強く、世界を変えていく。
食文化とは、偉大なものなのだ。
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