積み重ねた日々と、それぞれの明日
食堂の方から、出汁の香りが漂ってくる。
卵と出汁が混ざり合った、懐かしい香りだ。
廊下を進み、食堂へ向かう。
ヴァルドが扉を押し開けると、すでに瑛太さんが席についていた。
テーブルの上には玉子焼き、スープ、クルミアのリモナ和えが並んでいた。
出汁の香りとリモナの爽やかな香りが食欲を誘う。
「待たせた?」
「いや」
向かいに腰を下ろして、テーブルを見る。
切り分けた玉子焼きが皿の上に並び、出汁の香りがふわりと漂っていた。
「「いただきます」」
二人で手を合わせてから、箸を取る。
玉子焼きに箸を入れると、断面がほろりと崩れた。
口に入れた瞬間、出汁の香りがじんわりと広がる。
噛むと玉子の層がほろりとほどけて、閉じ込められていた出汁が滲み出た。
柔らかな食感の奥に、乾燥ミルダ茸と乾燥ラディアの旨みが残っている。
リナはもう、玉子焼きの作り方を覚えてしまったようだ。
「旨い」
それだけ言って、次の一切れへ箸を伸ばす。
「これ、瑛太さんとハルグリムが玉子焼き機を作ってくれたからできた料理なんだよ。ありがとう」
瑛太さんが箸を止める。
「そうか」
短く返して、また玉子焼きへ箸を伸ばした。
短い言葉だったが、こちらを見ずに次の一切れへ箸を伸ばす姿に、どこか嬉しそうなものが見えた。
私も、もう一切れ玉子焼きを口へ運ぶ。
出汁の香りを楽しみながら飲み込んでから、スープを一口飲む。
鶏の旨みとミルダ茸の香り、ラディアの甘みが舌の上でゆっくりと重なった。
「スープも美味しい。鶏とミルダ茸の旨みがちゃんと出てて、塩加減もちょうど良い感じ」
「そうだな」
しばらく二人で食事を続ける。
リナの作った玉子焼きを見ながら、ふと気になったことを口にした。
「そう言えば、リナの料理スキル10だったんだって。あれだけの数字になるまでに、どれだけ料理してきたんだろうって思って」
瑛太さんが静かに頷いた。
「……積み上げてきたんだろうな」
たぶん、その通りなのだろう。
長い時間をかけて積み上げてきたものが、あの手際になっている。
包丁を握る手も、鍋を扱う動きも、全部その積み重ねの先にある。
私も頷いて、クルミアのリモナ和えを箸で取る。
塩気とリモナの酸味が口の中をさっぱりとさせた。
スープの後に食べるとちょうどいい。
食事が半分ほど進んだあたりで、扉にノックが三度響いた。
「入っていいか?」
「どうぞ」
扉が開いた。
ガイルが顔を出して、テーブルを一度見てから中へ入ってくる。
食事中だと分かっているが、それより用件の方が先だという顔だった。
「食事中に悪い、手短に話す。明日の話だ」
瑛太さんが箸を置いた。
私も玉子焼きを飲み込んでから、ガイルへ向き直る。
「明日は体を整える日にする。身体強化系の訓練はなしだ」
少し意外だった。
てっきり最後まで走らされるものだと思っていた。
「分かりました」
ガイルが頷く。
「魔力操作は通常通りやれ。そこは欠かすなよ」
走る訓練は休みでも、魔力操作は別らしい。
毎日続けろと言われていた理由があるのだろう。
「はい」
食堂に一瞬静けさが落ちる。
湯気を立てるスープの香りだけが漂っていた。
「昼になっても筋肉痛が残ってたら、ヒールのスペルジェムで治せ。普段は駄目だが、明後日は大切な日だ。影響を残すな」
普段は駄目というのは、体を育てるためだ。
今回は例外。
それだけ明後日の街行きを大事に考えてくれているのだろう。
「分かりました」
ガイルは腕を組んだまま小さく息を吐く。
「街は訓練場じゃねぇ。歩くだけでも疲れるし、人も多い。余計な疲労を抱えたまま行くもんじゃない」
そう言われると少し実感が湧く。
この世界へ来てから、まだ街へは一度も行っていない。
瑛太さんが静かに頷いた。
「あぁ」
「よし」
そこでようやくガイルの表情が少し緩んだ。
用件は終わったらしい。
ガイルが食堂の扉へ向かう。
私は慌てて声を上げた。
「ちょっと待ってください。私からも伝達事項があるんです」
「なんだ」
「礼拝堂に、エシャール様からの手紙が届いていたんです。街に着いたら教会に顔を出すように、と。一行だけでした」
ガイルが少し間を置いた。
何かを確かめるような、短い間だった。
「……まじか、把握した」
小さく呟いて額を掻く。
それだけ言って、食堂を出て行った。
扉が閉まり、廊下を歩く足音が遠ざかっていく。
瑛太さんが箸を取り直した。
私も食事を再開する。
「ガイル、ちょっと変な反応してたね」
「そうだな」
瑛太さんはスープを一口飲んだ。
「何か知ってるんだろう」
「やっぱりそう思う?」
「ああ」
それ以上は分からない。
教会へ行けば、何か分かるのかもしれない。
けれど今は考えても仕方がなかった。
食事を続ける。
気が付けば食器は空になり、窓の外はすっかり暗くなっていた。
ヴァルドが食器を下げ、代わりにリュネ草コーヒーを二つ置いていった。
カップを両手で包んで、一口飲む。
焙煎の香りが静かに広がった。
今日一日、本当によく動いた。
訓練場で走って、箱庭で魔力を絞って、鍛冶場に行って、錬金して、調合して、キッチンで玉子焼きを焼いた。
疲れているはずなのに、不思議と気分は悪くない。
一日をちゃんと使い切ったような気がした。
リュネ草コーヒーが空になった頃、明日のことが頭に浮かんだ。
今日作ったのはHPポーションだけで、MPポーションはまだ手をつけていない。
明後日出るなら、明日のうちに仕込んでおく必要がある。
「私、明日はまだ作れてないMPポーションを作ろうと思ってるけど、瑛太さんは?」
「そうだな……」
瑛太さんが少し間を置いた。
「鍛冶以外にも気になるスキルがいくつかあるから、図書室で調べようと思っている」
それぞれ午前中は別々になりそうだった。
朝食の時間だけ合わせておけば十分だろう。
「じゃあ朝はここで会うまで別行動だね」
「そうだな」
カップをテーブルに置いて、椅子の背に少し体を預けた。
脚だけじゃなく、腕も肩もじんわりと重い。
今日一日の疲れが、ようやく表に出てきたようだった。
「少し早いけど、今日はもう寝ようかな」
「無理はするな」
瑛太さんが先に立ち上がった。
私も椅子を引いて立ち上がる。
筋肉痛の脚が、じんわりと主張した。
ヴァルドに一礼して、食堂を出た。
先を歩くヴァルドの後に続いて廊下を進む。
足音だけが、木の廊下に静かに続いていった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
主人たちが部屋へ戻った後、食堂には再び静けさが戻っていた。
リナが料理を並べ終える頃、ガイルとハルグリムが姿を見せる。
最後に席へ着いたヴァルドが全員を見回し、小さく頷いた。
今夜の食卓には玉子焼き、鶏とミルダ茸のスープ、クルミアのリモナ和えが並んでいる。
ガイルは席へ着くなり玉子焼きへ箸を伸ばした。
一口食べて咀嚼する。
それから断面を見直すように皿へ視線を落とした。
「……これ、卵だけじゃねぇな」
「出汁には乾燥ミルダ茸と乾燥ラディアの戻し汁を使っております。奥様がお作りになりました」
ヴァルドの説明を聞きながら、ガイルはもう一切れ口へ運ぶ。
今度はゆっくりと味を確かめるように噛んだ。
「なるほどな。香りが残ってる」
隣ではハルグリムが黙々と食べていた。
玉子焼きを箸で持ち上げ、断面を眺める。
「綺麗に巻けてるな」
リナが少しだけ目を伏せた。
「……奥様にご指導いただきましたので」
ハルグリムが鼻を鳴らす。
「道具は問題なく使えたみてぇだな」
視線の先には、壁際へ立て掛けられた玉子焼き機がある。
「ええ。滑面処理も十分だったそうです」
「旦那様も喜んでおられたようでした」
その言葉に、ハルグリムの口元がわずかに緩んだ。
「初めてにしちゃ上出来だ」
そう言ってスープを口へ運ぶ。
しばらくは食事の時間だった。
クルミアのリモナ和えを食べたガイルが眉を上げる。
「これ、さっぱりしてるな」
「塩とリモナだけですよ」
リナが答える。
ガイルはもう一口食べてから頷いた。
「訓練後なら、こういうのも悪くねぇ」
その言葉にリナが小さく安堵したようだった。
食事が一段落したところで、ヴァルドがカップを置く。
「本日のご報告を伺いましょう」
リナはカップへ手を添えた。
「奥様が錬金で取り出したスライム膜ですが、保存試験を始めております」
ハルグリムの手が止まる。
「スライムから膜か……」
リナは小さく苦笑した。
「私も驚きました。ですが保水性と伸縮性があり、今のところ食材への変質も確認されておりません」
ガイルが腕を組んだ。
「忌避感はねぇのか?」
「元がスライムでも、使えるなら問題ないかと」
リナの返答に、ハルグリムが肩を揺らす。
「実にリナらしい答えだな」
笑われても気にした様子はない。
リナは静かにお茶へ手を伸ばした。
今度はガイルが報告を引き継ぐ。
残っていたスープを飲み干し、器を置いた。
「俺はスペルジェムを使った戦闘訓練を見た」
腕を組み、椅子の背にもたれる。
「まだ経験不足だが、街へ出す分には問題ねぇ。言ったことはちゃんと身に付けてる」
ヴァルドが静かに頷いた。
「順調ということでございますね」
「ああ」
ガイルは眉間を揉んだ。
その仕草だけで、次の話題が面倒なものだと分かる。
「それともう一つだ」
食卓の空気がわずかに引き締まった。
「教会の件ですね」
ヴァルドは特に驚いた様子もなく言った。
ガイルが面倒そうに息を吐く。
「礼拝堂に手紙が届いたらしい。街に着いたら教会へ顔を出せ、だとよ」
ハルグリムが眉をひそめた。
ヴァルドは変わらず静かだ。
事情を知らないリナだけが、不思議そうに二人を見比べる。
「何か問題があるのでしょうか?」
「問題ってほどじゃねぇ」
そう言いながらも、ガイルの顔は少し苦かった。
「ただ、面倒な話にならなきゃいいがな」
誰もすぐには口を開かなかった。
ガイルが残っていたクルミアを口へ運ぶ。
ハルグリムは黙ったままスープを飲んだ。
食器の触れ合う音だけが食堂に残る。
やがてヴァルドがカップを置いた。
「エシャール様からのお言葉であれば、無視はできません」
「分かってる」
ガイルは短く返した。
だが、それ以上は語らなかった。
やがて食事を終えたヴァルドが立ち上がる。
「では、街へ出る準備も最終段階でございますね」
誰も異論はなかった。
食堂の灯りが落ちる頃には、それぞれが翌日に備えて部屋へ戻っていった。
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