玉子焼きと、食卓へ続く道具
瑛太さんに抱きついて、耳の後ろ――付け根の辺りへそっと顔を寄せる。
すん、と息を吸う。
昔から好きな、落ち着く香りがした。
錬金と調合で使い続けた頭の熱が、少しずつほどけていく。
棚に並んだフラスコを、もう一度見渡す。
黒板に書き込んだ記録がランタンの光に照らされて並び、棚の端に置いた玉子焼き機が光を受けていた。
今日一日で私と瑛太さんが積み上げたものが、全部ここにある。
「さて、ぼちぼち夕飯の準備を始めてくるね」
「あぁ。俺はもう少し復習してくる」
軽くキスを交わして体を離すと、一緒に部屋を出た。
廊下の分かれ道で、瑛太さんは鍛冶場の方へ歩いていった。
私はキッチンへ向かう。
夕方になると、差し込む光の角度が変わる。
木の温もりを感じる廊下は、柔らかな橙色に染まっていた。
廊下を掃除していたヴァルドに一声かけて、キッチンの扉を開ける。
リナがロッキングチェアの定位置に座って待っていた。
「リナ、今夜は新しい調理器具ができたので、新しい料理を作ろうと思うんです。手伝って下さい」
少し高めの声でそう言うと、リナは一瞬だけ目を丸くした。
私の機嫌の良さが伝わったのだろう。
「かしこまりました」
押され気味に頷きながらも、リナはすぐに立ち上がった。
リナを連れてパントリーへ移動する。
玉子焼きには甘いものと出汁を利かせたものがあるが、私と瑛太さんは出汁巻き派だ。
今日はそのだし巻き玉子を作る。
棚から乾燥ミルダ茸と乾燥ラディアを取り出して、キッチンへ戻った。
それぞれ別のボウルに入れ、浸るくらいのぬるま湯を注ぐ。
乾燥ミルダ茸の方には、砂糖も少し加えた。
こうすると短い時間でも柔らかく戻ってくれる。
「ねえ、リナ。パントリーの乾物って、誰が補充しているんですか?」
「私は補充しておりませんが、何かありましたか?」
リナが不思議そうにこちらを向く。
リナが補充していないなら、どうして毎日の夕飯作りでパントリーに来るたびに、見覚えのない食材が増えているのだろう。
乾燥野菜に豆類、香辛料らしき小瓶も、以前より確実に増えている。
私はパントリーの棚を思い出しながら首を傾げた。
「昨日の夜には見覚えのない材料が、翌日になると増えているんです。てっきりリナが補充しているのかと思っていたんですが……誰が管理しているんですか?」
するとリナが納得したように頷いて、パントリーとフリージルームについて教えてくれた。
この二つはエシャール様が管理しているらしい。
私たちの生活に必要なものや、地球で使っていた食材や調味料なども、状況に合わせて追加してくれているそうだ。
見たことのない食材が増えていても、誰かが運び込むところを見たことがなかったのは、そういうことだったか。
私は小さく頷いて、ボウルの中の乾物に目を戻した。
しばらく置いておけば旨みが出てくる。
その間に、試してみたいものがあった。
インベントリからスライム膜を取り出す。
薄く透き通った膜が、手のひらの上でゆっくりと広がった。
「リナ、これ見たことありますか?」
リナが覗き込んだ。
「……何ですか、これは?」
「スライムの死骸から錬金で取り出した膜なんです。食材に被せて保存するのに使えないかなと思って」
リナの表情が、わずかに止まった。
「保存用の膜、ということでしょうか?」
「そうです。やっぱり元がスライムだと、少し気になりますか?」
リナがもう一度、膜へ視線を落とした。
しばらく間があった。
「……見た目は、きれいでございます」
正直な答えだった。
ボウルのひとつに膜を被せて、端を軽く押さえる。
ぴたりと張り付いて、持ち上げてもずれない。
水を含んだ乾物の香りが、膜の下に閉じ込められた。
「食材に被せて保存できるかどうか確かめたくて。触れた食材に変化が出ないかも見ておきたいんです」
リナが膜を静かに見ている。
指先で端をそっと触れて、離す。
「伸びます」
「そうなんです。伸びるので、器の形に合わせやすいんですよ」
リナがもう一度、膜を見た。
「スライムから、こういうものが取れるとは思いませんでした」
「私も最初は驚いたんです。スライム液が取れると思っていたのに、出てきたのは膜だったので」
しばらく時間を置いてから、膜を外して食材の状態を確かめる。
乾物に変質はなく、戻し汁の色もそのままだった。
「問題なさそうですね。あとはフリージルームで冷やしたときにどうなるかと、常温でどれくらい保つか知りたいんです。実際に使ってみて、何か変化があったら教えて下さい。時間停止がかかっているので変わらないかもしれませんけど、それも含めて確認しておきたくて。時々鑑定してもらえると助かります」
「かしこまりました」
リナが小さく頷いた。
それからもう一度、手の中の膜に目を落とした。
「……元がスライムでも、使えるなら、使わない理由はないと思います」
割り切りが早い。
リナらしい答えだった。
さて、気になっていたことも聞けたし、調理の続きを再開しよう。
スライム膜はリナに預け、クルミアを引き寄せる。
薄い輪切りにしてから、塩を振って手で揉む。
「リナ、二~三分揉んで水が出てきたら絞って下さい。そのあとリモナの皮を削って、果汁を絞って混ぜるだけです」
「皮も使うのですか?」
「皮の方が香りが強く出るので。果汁だけだと少し物足りなくなるんです。さっぱりした食べ応えになりますし、リモナの香りがふわっと鼻に抜けるので美味しいですよ」
リナが頷いて、クルミアを受け取った。
手のひらで丁寧に揉み始める。
少し力を込めて、また戻す。
水が染み出してくるのを確かめながら、リナが手を動かし続けた。
しばらくして、リナが両手でクルミアをぎゅっと絞った。
緑色の水分が、じわりと滲み出てきた。
「どうですか? しっかり絞れましたか?」
「はい。これくらいでしょうか」
手のひらの上のクルミアを確かめる。
十分に水が抜けていた。
「そうです。そのくらいで大丈夫ですよ。次はリモナの皮を削って下さい」
リナがリモナを手に取り、皮を削り始める。
細かな粒が作業台に散った瞬間、甘酸っぱい香りがふわりと広がる。
「いい香りです」
「私もリモナの香り、好きなんです。リナ、果汁も絞ってクルミアと一緒に混ぜて下さい」
リナがリモナを半分に割って絞ると、果汁がクルミアの上に落ちた。
皮ごと手でざっくり混ぜて、小皿に盛り付ける。
薄い緑のクルミアの上に、削ったリモナの皮が散らばっている。
見た目も悪くない。
「一口、食べてみますか?」
リナが少し躊躇してから、箸を伸ばした。
一口。
少し間があった。
「……さっぱりしています。塩とリモナだけなのに、物足りなくないですね」
「クルミアの水分をしっかり抜いたおかげです。青臭さが残ると、リモナの香りがぼやけてしまうので」
リナがもう一度、小皿を見た。
塩とリモナだけ。
けれど、ちゃんと一品の料理になっている。
その事実を確かめるような目だった。
副菜が完成したので、次はスープを作る。
小皿を脇に置いて、ボウルの乾物に手を伸ばす。
十分に戻った乾燥ミルダ茸と乾燥ラディアが、ぷっくりと膨らんでいた。
戻し汁をそれぞれ別の器に移してから、二つをひとつに合わせた。
「この戻し汁、全部スープに使うんですか?」
「半分はだし巻き玉子に使うので、取り分けておいて下さい」
リナが器を二つ用意して、丁寧に等分した。
戻した乾燥ミルダ茸を取り出して、薄切りに。
乾燥ラディアは水気を軽く絞ってから、食べやすい長さに刻んだ。
次に鶏肉を取り出す。
一口大に切り分けてから、フライパンを火にかけた。
「焼いてから入れるのですか? 直接鍋で煮ないのですか?」
「焼き目をつけると香ばしさが出るんです。煮込むだけだと出ない香りがあるので」
リナが黙って見ている。
鶏肉をフライパンに並べる。
じゅわっと音が弾けて、たちまち香ばしい香りが立ち上った。
表面が白く変わり始める。
焼けた脂がぱちぱちと小さく跳ね、そのたびに鶏の旨みを含んだ香りがキッチンへ広がっていく。
ひっくり返すと、薄く色付いた焼き目が現れた。
香ばしさに、肉の甘い香りが重なる。
両面に軽く焼き色が付いたところで火を止めた。
鍋に焼いた鶏肉を移して、刻んだ乾燥ミルダ茸と乾燥ラディアを加える。
合わせた戻し汁を注ぐ。
じわりと湯気が立ち始める。
最初に広がったのは、乾燥ミルダ茸の深い香りだった。
そこへ焼いた鶏の香ばしさが重なり、別々だった香りがゆっくりとひとつになっていく。
「香りが変わりました」
リナが鍋を覗き込んだ。
「焼いた鶏と戻し汁が合わさったからです。これを少し煮込めば、もっと馴染んできますよ」
中火で煮込む。
鶏肉に火が通るにつれて、干し椎茸の深い香りと鶏の旨みがひとつに混ざっていく。
リナがおたまで一口すくって、静かに口に運んだ。
少し間があった。
「……鶏の旨みと椎茸の香りが、別々じゃないですね」
「煮込むと混ざり合うんです。最後に塩を足して整えます」
塩をひとつまみ加えて、もう一度味を確かめる。
香りの輪郭が少しだけはっきりした。
十分だ。
「できました」
リナがもう一度おたまで鍋の中をゆっくりとかき混ぜた。
湯気が静かに立ち上る。
鶏と干し椎茸の香りが、ふわりと鼻先をくすぐった。
リナはもう一度、香りを確かめるように湯気へ顔を向けた。
いつの間にか、さっきより少しだけ鍋に近いところへ立っていた。
「さて、最後にメインの玉子焼きを作りましょう!」
玉子焼き機を火にかける前に、まず卵液を作る。
「今日は練習もありますし、卵は10個使いますね」
リナが目を丸くした。
「10個、でございますか?」
「練習もありますし、玉子焼きって意外と卵を使うんですよ」
リナがもう一度、器を見た。
10個という数字をまだ飲み込めていない顔だった。
卵を一個ずつ割り入れていく。
菜箸の先をボウルの底に付けたまま、卵白を切るように横へ動かす。
持ち上げず、泡立てず、ただ白身と黄身を均一に混ぜていく。
「こうして混ぜると、焼いたときに気泡が入りにくいんです。表面もきれいに仕上がりますよ」
リナが手元を見ている。
菜箸の動きを追いながら、静かに観察していた。
塩をひとつまみと、取り分けておいた戻し汁を加えて、もう一度軽く混ぜる。
卵の甘い香りの奥に、干し椎茸と鶏の旨みを含んだ戻し汁の香りが混ざった。
それだけで、焼き上がりが少し楽しみになる。
「次にこれで漉します」
ざるを器の上に置いて、卵液を流し込んだ。
とろりとした卵液が静かに落ちていく。
ざるの上には白身の塊だけが残り、下の器にはなめらかな黄金色の卵液が溜まっていった。
もう一度繰り返す。
表面はつややかで、均一だ。
焼けばきっと綺麗な玉子焼きになる。
「二回漉すんですか?」
「一回だと白身の固まりが残ることがあるんです。二回通すと口当たりがなめらかになりますよ」
リナが漉した卵液を覗き込んだ。
さっきより、つやのある均一な卵液になっている。
「なるほど。そのためなのですね」
玉子焼き機を火にかける。
銅の表面に手のひらを近づけると、均一な熱がじんわりと伝わってきた。
端だけが先に熱くなるような偏りがない。
リナが玉子焼き機を見た。
長方形の、見慣れない形を、何かを確かめるように静かに見ていた。
「旦那様が、作られたのですか?」
「そうです。ハルグリムに手順を教えてもらいながら作ったんですよ」
滑面処理が付与されているので、油は要らない。
食用油が手に入ったら使うようにしようと頭の隅に置きながら、卵液を玉子焼き機へ流し込んだ。
じゅっと小気味の良い音が響く。
黄金色の卵液が銅の表面へ広がり、ふわりと出汁の香りが立ち上った。
「あ、」
リナが小さく声を漏らした。
端が白く固まり始めるのを待って、箸を動かす。
端から手前へ、折り重ねるように巻いていく。
二度目の卵液を流し込む。
じゅっと音がして、出汁の香りがふわりと立ち上った。
巻いた玉子の下にも卵液を広げて、もう一度巻く。
三度目の卵液を流し込む。
表面が曇ったところで箸を入れ、さらに巻き重ねた。
焼き上がるにつれて、淡い黄金色の層が少しずつ厚みを増していく。
巻いた塊を奥から手前へ押し返して、形を整えた。
まな板に取り出して、六等分に切り分ける。
包丁を入れるたびに、薄い層が断面に現れた。
几帳面に重なった縞が、きれいに並んでいる。
湯気と一緒に、出汁と卵の甘い香りが立ち上った。
「これが玉子焼きです。リナもやってみますか?」
リナが少し間を置いてから、頷いた。
---
一回目。
卵液を流し込んで、すぐに箸を動かした。
表面がまだ生のまま動かそうとして、ぐずぐずと崩れた。
リナが崩れた玉子焼き機の中を静かに見た。
手を一度、膝のあたりで軽く握る。
「表面が少し曇ってから動かすんです。そこが合図です」
二回目。
今度はタイミングを待って、待ちすぎた。
固まりすぎた卵に箸を入れた瞬間、割れた。
リナの手が玉子焼き機の上で止まる。
視線が落ちて、また上がる。
自分の手のひらを一度確かめるように見てから、顔を上げた。
「もう一度、お願いします」
自分から言った。
三回目。
卵液を流し込んで、表面が曇るのを待つ。
箸を入れて、端から巻き始める。
手の動きが、さっきとわずかに違った。
迷いが、少し薄い。
一巻き。
二巻き。
卵液が破れることなく重なっていく。
三巻きで形が整って、まな板に取り出した。
リナは切り分ける前に、少し見た。
崩れていない。
それを確かめるように小さく息を吐いてから、丁寧に六等分にする。
包丁を入れるたびに、薄い層が断面に現れた。
二回目までとは、違う断面だった。
「一口、食べてみますか?」
リナが箸を伸ばした。
一口。
少し間があった。
「……出汁の香りがします。味付けは薄いのに、物足りなくありません」
「卵に戻し汁を入れているので、焼いてもちゃんと香りが残るんですよ」
リナがもう一度、自分の手を見た。
「そういえば、リナは料理スキルいくつなんですか?」
「10です」
思わず、少し間が空いた。
10。
思っていたよりずっと高かった。
ここへ来る前から、長い間料理をしてきたのかもしれない。
でも、わざわざ聞かなくてもいい。
話したければ、いつか話してくれるはずだ。
「だからリナの料理は美味しいんですね」
リナが少し間を置いた。
「……ありがとうございます」
短く、それだけ返した。
それ以上でも、それ以下でもない言葉だった。
玉子焼き、スープ、クルミアのリモナ和え。
出汁の香りとリモナの爽やかな香りが混ざり合う。
三品が揃った。
「ヴァルドに配膳をお願いしておいて下さい。私は少し寄り道をしてから向かいます」
「かしこまりました」
リナが盆に料理を移し始める。
いつもと同じ手際のはずなのに、どこか楽しそうに見えた。
スープを注いで、玉子焼きとクルミアのリモナ和えを小皿に添える。
シルバートレイにまとめて、キッチンを出た。
礼拝堂の扉を開けると、いつもの静かな空気が迎えた。
祭壇の前にトレイを置いて、軽く頭を下げようとして、手が止まった。
朝にはなかった手紙が、祭壇の脇に置かれていた。
手に取って、封を開ける。
丁寧な文字が、羊皮紙の上に並んでいた。
書かれていたのは一行だけだった。
街に着いたら、教会に顔を出すように。
読み終えて、もう一度祭壇を見た。
「教会には、ちゃんと顔を出します」
手紙を折り畳んでインベントリへ収める。
改めて祭壇へ向き直り、軽く頭を下げた。
扉を閉めて、廊下を歩く。
食堂の方から、かすかに出汁の香りが漂ってきた。
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