甘い香りと、月明かり
礼拝堂を出ると、廊下の空気がわずかに冷えていた。
昼間より灯りの数も減り、足元の石畳がほんのり暗い。
もう、夜が近いらしい。
食堂の扉を開けると、ヴァルドが定位置に控えていた。
テーブルの上には食器が二人分、きちんと整えられている。
向かい側の椅子には、瑛太さんが先に座っていた。
「待たせた?」
「いや」
短く返って、こちらへ視線を向ける。
椅子を引いて腰を下ろした。
テーブルの中央には黒パンとサラダ。
それぞれの前には、まだ湯気の立ったスープ皿が置かれている。
淡い黄金色のスープが、灯りを受けて静かに揺れていた。
昼からずっと火加減を見ながら取った清湯スープだ。
その香りが、食堂の空気にゆっくり溶けている。
「いただきます」
二人で手を合わせ、スプーンを取った。
口に含むと、旨みが静かに広がった。
鶏ガラだけじゃなく、ベルネやオルニア、ジェルナの香りも一緒に溶け込んでいて、舌の上で重なっていく。
仕上げのサルディア塩が、全体をちょうどいいところへ収めていた。
「……うまい」
瑛太さんが短く言う。
私も一口飲んで、ほっと息をつく。
「ちゃんと引けてる」
煮出す時間を丁寧に取った甲斐はあった。
下処理から始めて、灰汁を取り続けて、漉して、また火にかけて。
リナと一緒に手を動かした時間が、この一杯に入っている。
「次にリナが一人で作るときも、ここだけは丁寧にって伝えておかないと」
「教えたのか?」
「手順は全部、一緒にやりましたよ。ああいうの、見てるだけじゃ分かりにくいですし」
「それはいいな」
瑛太さんがスープを一口飲み、少し間を置く。
向かいから見ていると、ゆっくり味を確かめているのが分かった。
文句も、追加の感想もない。
けれど、手は止まらない。
それで十分だった。
しばらく、食べることだけに集中した。
スープを飲み、サラダを取り、黒パンをちぎる。
言葉が少なくても、沈黙が重くないのは昔からそうだった。
食べるものがあって、向かいに人がいる。
それだけで、食卓として成立する。
黒パンをちぎりながら、ふと口を開く。
「書斎はどうでした?」
「ハルグリムに勧められた本を三冊読んだ。鍛冶場で鉱石の標本を手に取りながら確認していたら、鑑定で出てくる情報が変わっていた。本を読む前は名前と硬度くらいしか出なかったのが、ランクまで出るようになった」
少し間があった。
「鑑定を自分に使ったら、鍛冶が二になっていた」
読んだことが、そのままスキルに繋がったということだろう。
私は思わず手を止めた。
「へぇ……そこまで分かるようになるんだ」
「ああ。鉱石は品質で用途が変わるからかもしれない。鍛冶は純度や硬度で結果も変わるだろうしな」
「言われてみれば、調合素材はランクって出ないよね」
「薬草は効能や状態を見てる感じだな。用途そのものが違うんだろ」
なるほど、と小さく頷く。
確かに、私が見るのはいつも、"どんな効果があるか""食べられるか""調合に使えるか"、そういう情報ばかりだった。
同じ鑑定でも、見ている方向が違うらしい。
「私も今日、錬金と調合と鑑定、全部二になったよ」
「……地道にやり続けた結果だろ」
それだけ言って、瑛太さんがサラダに手を伸ばす。
さっぱりした味が、スープの後によく合う。
私もサラダを取りながら、明日の段取りを頭の片隅で整理した。
ポーションを作る前に、まずは素材の精製から始めないといけない。
固形果実甘露に、精製スライム液、メル草の粉末。
頭の中で手順を並べながら、もう一度スープへ視線を落とした。
淡い黄金色の表面から、湯気が静かに立ち上っている。
鶏の旨みと野菜の香りが、食後の空気の中にゆっくり残っていた。
スープ皿を傾けて、最後の一口を取る。
底まで飲んでしまいたかった。
食べ終わったところで、ヴァルドが静かに近づいてきた。
「デザートをお持ちしてもよろしいでしょうか」
「リュネ草コーヒーも一緒にお願いします」
「かしこまりました」
ヴァルドが一度下がる。
空いた皿を引き、フォークとナイフを片付けていく手際は、相変わらず静かで無駄がない。
少しして、ポットとカップ、小皿が二つテーブルへ並べられた。
甘い香りが、ふわりと広がる。
タルトタタン。
フリージルームで冷やしていたものを、切り分けた一切れだ。
キャラメルソースが薄く固まり、リンナの断面が艶やかに光っている。
改めて見ると、なかなか悪くない仕上がりだった。
瑛太さんがそれをじっと見てから、フォークを入れた。
「……甘い」
「生地とキャラメルとリンナ、全部に甘みがあるからね。リュネ草コーヒーと合わせると、苦みがちょうど合うと思うよ」
私もフォークを入れる。
しっとりした生地の奥で、焼いたリンナがほろりと崩れた。
キャラメルの甘みが広がって、最後にタルト生地の香ばしさが残る。
今日作ったものが、ちゃんと美味しい。
それだけで、少し疲れが引いていく気がした。
カップを両手で包む。
温め直したリュネ草コーヒーから、焙煎した香りがふわりと立ち上った。
一口飲む。
苦みの中に、どこか丸みがある。
タルトタタンの後に飲むと、口の中が静かに整っていった。
「……苦いな」
「ブラックだからね。砂糖入れる?」
「いや、これでいい」
瑛太さんがもう一口飲む。
カップを持つ手が落ち着いていて、嫌がっているわけではないのが分かった。
「地球のコーヒーとは違うが、悪くない」
「タンポポの根っこから作ってるから、香りが少し違うんだよ。豆があれば本物のコーヒーも飲めるんだろうけど、まだ見つかってないから。でもリュネ草コーヒーはこれはこれで好き。朝に飲みたくなる味」
「明日の朝も出るか?」
「作り方は教えたから、お願いしたら出してくれると思うよ」
「そうか」
デザートの間、会話はそれきりになった。
フォークの音と、カップを置く小さな音だけが静かに続く。
同じものを食べて、同じものを飲んでいる。
それだけのことが、不思議と落ち着いた。
瑛太さんがカップを置いたのと、私がほぼ同じタイミングで皿を空にする。
窓の外はすっかり暗くなっていて、食堂に灯るランプの光だけが空間を満たしていた。
「ごちそうさまでした」
手を合わせる。
向かいで、瑛太さんも静かに手を合わせた。
温かな余韻を残したまま、席を立つ。
食堂を出たところで、ふと思い出したようにヴァルドへ声を掛けた。
「そういえば、お風呂って使えます?」
「はい。すぐにご用意いたします」
「よかった……」
思わず漏れた声に、自分でも少し笑ってしまう。
クリーンがあれば体の汚れは落ちる。
それは分かっている。
でも、頭の片隅にずっとあったのだ。
お風呂に入りたいな、と。
クリーンで綺麗になるのと、湯船に浸かるのは、全然別の話だ。
体が清潔になることと、疲れが抜けることはイコールじゃない。
お風呂は命の洗濯、という言葉があるけれど、本当に言い得て妙だと思う。
こういう時間がないと、人はたぶん息が詰まる。
ヴァルドに案内されて、廊下をひとつ挟んだ先の扉を開けると、湯気がふわりと流れ出てきた。
猫足の浴槽に、乳白色の湯が張られている。
窓の外には満月が出ていて、森の輪郭を白く縁取っていた。
窓辺にはキャンドルとランタンが並んでいて、浴室の中を柔らかく照らしている。
思っていたより、ずっといい浴室だった。
瑛太さんに先に入るよう促されて、遠慮なく甘えることにした。
お湯に足を入れると、じわりと熱が広がった。
肩まで沈むと、張っていた力がゆっくり抜けていく。
「……転生しても、全然チート感ないんだよなぁ」
ぽつりと独り言が漏れた。
瑛太さんと一緒に来られたのは嬉しい。
ちゃんと食べて、ちゃんと眠れている。
でも、楽ができるわけじゃない。
毎日地道に動いて、覚えて、失敗して、少しずつ積み上げていく。
「見た目以外は……地味なんだよねぇ」
湯気の向こうへ向かって、小さくぼやく。
訓練で使った筋肉が、少しずつほどけていった。
窓の外で、満月が静かに森を照らしている。
知らない夜の空なのに、月だけはどこか見慣れた顔をしていた。
目を閉じて、しばらくそのまま湯に身を預けた。
浴室を出る頃には、張っていた力もだいぶ抜けていた。
寝室に戻ると、部屋の中は静かだった。
ランプが一段落とされていて、薄暗い。
ベッドに目をやると、瑛太さんがすでに横になっていた。
寝ている。
近づいてみると、規則正しく穏やかな寝息が聞こえた。
昨日はあまり眠れていなかったから、今日は疲れたのだろう。
訓練をして、書斎で本を読んで、鍛冶場まで見に行っていた。
そのわりに顔には出さなかったけれど、体は正直だ。
起こさないように、そっと布団の端を持ち上げて横に入る。
瑛太さんの首元に顔を近づけると、かすかに香りがした。
知っている香りだ。
姿は変わった。
声も、少しだけ変わった。
なのに、この香りだけはどこか昔のままな気がする。
不思議だと思う。
体が変わっても、こういうのは残るんだろうか。
昔から知っている、落ち着く香り。
そっと、鎖骨へ唇を落とす。
それから静かに腕を回して、目を閉じた。
瑛太さんの寝息が、すぐ近くにある。
それだけで、眠れる気がした。
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