静かな朝と、はじめての魔法
礼拝堂の扉は、昨日より少し軽く感じた。
押すと、廊下の空気とは違う密度が肌に触れる。
石造りの静けさと、ステンドグラスを通した色の光。
二度目だからこそ、それがこの部屋の通常なのだと分かる。
一歩踏み入れると、床に光の模様が落ちていた。
昨日と同じ場所に、同じ色が。
ただ、朝の角度が違うぶん、赤の帯が昨日より少し左に寄っている。
そして。
祭壇の前に、昨日置いたはずのお皿があった。
綺麗になっている。
料理の跡も、油の痕も、何もない。
磨きたてのように白く、静かにそこに置かれていた。
その横に、折り畳まれた紙と、布に包まれた荷物が二つ。
「食べてもらえたんだね」
思わず声が出た。
返事はない。
でも、それだけで十分だった。
「ヴァルド、手紙をお願いしてもいいですか?」
「かしこまりました」
ヴァルドが祭壇へ進み、折り畳まれた紙を手に取る。
丁寧に開いて、静かに読み上げた。
「『食事、とても美味しくいただきました。久しぶりに地球の料理の香りを感じられて、嬉しかったです。
これからもよろしくお願いいたします。
お礼に、お二人の身を守る装備を用意しました。戦闘服と簡単な装備品です。メイン武器については、必要になりましたら、ハルグリムに頼むか、購入するか、ご自身で作るか、状況に合わせてご判断ください。――エシャール』」
読み終えたヴァルドが、静かに紙を折り戻す。
「なんか、思ったより普通の文章だった」
つい口に出してしまった。
瑛太さんが横でわずかに息を吐く。
「女神にも個性があるだろう」
「それはそうなんだけど」
布の包みに手を伸ばしながら、ふと思う。
「こっちの生活、見てたのかな?」
「何が」
「エシャール様が。だって昨日の料理のことも分かってたし、装備のタイミングも、なんかちょうどいいでしょ」
瑛太さんが少しだけ考えてから、静かに答える。
「転生前から見ていたんだろう。今も見ているかもしれない」
「……ちょっと恥ずかしいかも」
「今さらだろう」
それもそうだった。
布の包みに手を伸ばす。
ひとつは瑛太さんへ、ひとつは私へ。
広げると、衣服と小物が整然と入っていた。
鑑定してみる。
戦闘外套(耐刃・衝撃緩和・自動修復・付与あり)。
「ヴァルド、鑑定しても性能の詳細がよく分からなくて」
「拝見いたします」
ヴァルドが私の衣服を手に取り、しばらく確認する。
続いて瑛太さんのものも。
「耐刃性能に優れております。刃物による損傷はかなり軽減されます。また、衝撃を和らげる付与もございますので、打撃や転倒時の負担も抑えられるかと。
加えて、自動修復の機能が備わっております。小さな損傷であれば、時間の経過とともに自然に修復されます」
「靴は?」
「汚れを弾く付与がございます。どのような場所でも、汚れは付きにくい仕様でございます」
「それは助かる」
瑛太さんが短く言った。
私も同意見だった。森に入るなら、なおさら。
「総じて、初級から中級の中ほどまでは十分対応できる装備でございます」
瑛太さんの包みには、ナイフが一本入っていた。
黒い鞘に収まった、細身のもの。
鑑定すると、切れ味にプラス補正の付与がある。
私の包みには、ウエストポーチが入っていた。
ポーションホルダーと一体になった作りで、小さいが重みがある。
「鑑定」
インベントリ連動型ポーチ(容量拡張・収納連動)。
「インベントリに繋がってる」
「左様でございます。見た目より多くのものを収納できます。調合素材の管理にも適しているかと」
思っていたより、ずいぶん本格的な装備だ。
エシャール様の気遣いの細かさに、少し面食らう。
「ヴァルド、一つ確認なんですが。昨日の話にあったスペルジェムで身を守る方法、出発前に一度練習しておきたいんですが」
「かしこまりました。明日には最低限のご用意ができますので、それを使って練習できますようガイルに申し伝えておきます」
「ありがとうございます」
それを聞いて、瑛太さんも小さく頷く。
ガイルへの衣服の依頼が不要になったことは、ヴァルドが後で伝えに行くと話した。
「装備は寝室のクローゼットへ移しておきます」
「お願いします」
ヴァルドが荷物を抱えて礼拝堂を出ていく。
扉が静かに閉まった。
二人きりになった礼拝堂は、相変わらず静かだった。
ステンドグラスの光が床に落ちている。
ヴァルドが出ていくのを見送ってから、自然と中央の方へ足が向いた。
筋肉痛の脚が、一歩ごとにじんわりと主張してくる。
床の中ほどまで進んで、二人で向かい合うように座った。
胡座を組み、両手を膝の上に置いて、目を閉じる。
「昨日の続きから」
瑛太さんが言う。
私も頷いて、意識を内側に向けた。
体の奥に、薄く流れているものがある。
昨日、ガイルに触れてもらって初めて気づいたあの感覚。
今日は、自分でそれを探す。
あった。
細い流れを意識して、少しずつ広げていく。
腕から指先へ。肩から背中へ。
膝を通って足裏まで。
昨日より、少し早くたどり着ける気がする。
三十分、ただそれだけを繰り返した。
流して、確認して、また流す。
地味な作業だが、体の中で何かが少しずつ整っていく手応えがある。
区切りのタイミングで目を開けると、瑛太さんも目を開けたところだった。
「どう?」
「昨日より分かる。ただ、均一に保つのが難しい」
「私も。腰のあたりで詰まる感じがする」
「筋肉痛の場所と被ってるな」
言われて、確かにと思った。
目を開けたまま息を整えていると、礼拝堂の扉が静かに開いた。
荷物を片付けたヴァルドが、静かに中へ入ってくる。
「お待たせいたしました。装備はクローゼットへ移してあります。ハルグリムには、装備が不要になった件を伝えてございます」
「ありがとうございます」
ヴァルドは軽く一礼してから、二人を見回した。
「復習の方は、いかがでしたか?」
「昨日より感覚はつかめました。ただ、均一に保つのがまだ難しくて」
「それは積み重ねで改善されます。焦らず続けてください」
そう言って、ヴァルドが少し間を置く。
「魔力操作に慣れていただくため、もう一段階難易度を上げましょう。次は生活魔法のキャンドルでございます」
ヴァルドが説明する。
「自分の周囲、あるいは指定した場所に光を出す魔法でございます。本日は、足元の一メートルほど先に出してみてください。出せましたら、その明るさを一定に保ちながら、できるだけ長く持続させます」
「場所を指定して光を出す、ということですか」
「はい。魔力操作の応用でございます。力を集めること、場所を定めること、そして一定に保ちながら持続させること。その三つを同時に行います」
座ったまま、足元の少し前を意識した。
さっきまで全身に流していた魔力を、今度はそこへ送る。
場所を決めて、そこに集める。
ぽっ、と。
床の上に、小さな光が浮かんだ。
ランタンの灯りとは違う、丸くてやわらかい光だ。
「あ、出た」
思ったより自然に出た。
光はやや揺れている。
これを一定に保つ。
意識を向け続けると、揺れが少し収まった。
細い糸を引くような感覚で、魔力を少しずつ送り込んでいく。
「早いですね、奥様」
「感覚でやったら、出ました」
隣を見る。
瑛太さんが静止していた。
目が細く、額にわずかに力が入っている。
三十秒ほど経って、ようやく小さな光が床の上に浮かんだ。
だが、すぐに揺れた。
ぱっと大きくなり、また小さくなる。
そのまま、ふっと消えた。
もう一度。
今度は少し長く保った。
それでも、明るさが安定しない。
何も言わなかった。
言えば余計だと分かっていたから。
瑛太さんは黙ったまま、もう一度集中し直している。
私は自分の光に意識を戻す。
保つのは、思ったより神経を使う。
気を抜くと、ゆらりと揺れる。
ちょうどいい量を、ちょうどいい速さで。
細い水を細い管に送り続けるような感覚だ。
三十分ほど繰り返したところで、区切りを見てヴァルドが静かに総評を述べた。
「奥様は安定しておりました。旦那様は、後半から持続時間が伸びました」
「後半は少し分かってきた」
瑛太さんが短く言う。
淡々とした声だった。
「奥様は魔法スキルも多く、魔力の扱いに親和性が高いようでございます。旦那様は生産職寄りのため、力の集め方の感覚が異なるのかと」
「向き不向きがあるんですね」
「ございます。ただ、基礎は共通でございます。焦らず積み上げていただければ」
ヴァルドはそう言って、軽く一礼した。
「本日の魔力操作はここまでです。お二人はこのままガイルのところで戦闘訓練に。私はこちらで別の仕事がございますので」
扉が静かに閉まる。
胡座を解いて立ち上がると、座りっぱなしだった脚がじんわりと重い。
筋肉痛に加えて、魔力を使い続けた疲れが体の底に溜まっている。
礼拝堂を出ると、廊下の空気が少し違う温度で肌に触れた。
そのまま廊下を進み、外に出て訓練場へ向かう。
リーフ達は今日も畑の管理を頑張っているようだ。
その様子を横目に、訓練場へ向かい訓練着に着替える。
訓練場に着くと、ガイルが腕を組んで待っていた。
その足元にルクスが座っている。
尻尾を二度振って、こちらを確認してから、またガイルの横に収まった。
「来たな。今日は森の入り口まで行くぞ」
「森ですか?」
「昨日と今日で、基本のスキルは出せるようになっただろ。次は魔法スキルに慣れてもらう。ちょうどいい相手がいる」
ガイルが歩き出すと、ルクスがその斜め後ろについた。
訓練場を抜けて、木立が始まるあたりで足を止める。
森の入り口。
日が遮られて、空気が一段ひんやりする。
「まず見ろ」
ガイルが顎で示す。
その先に、それはいた。
丸くて、半透明で、地面をゆっくりと動いている。
大きさは西瓜ほど。ぷるぷると揺れながら、特に何をするわけでもなくそこにいる。
「……スライムって、本当にいるんだ」
「いる。触れると溶かされる。離れてやれ」
「溶かされる」
「服が、だ。装備があれば問題ない。ただ、素手は避けろ」
なるほど、と頭の中で整理する。
「今日はスキルを使う。奥様はファイアボール、旦那様はウィンドショット。まず一発ずつ試せ。当てなくていい。出すことを優先しろ」
一歩前へ出る。
スライムとの距離は五メートルほど。
胸の中で魔力を集める。
さっきのキャンドルとは違う。
一点に絞るのは同じだが、今度はそれを飛ばす。
手のひらに意識を集中させると、熱いような感覚が指先に集まってくる。
自分の中で何かが凝縮していく、あの感触。
「ファイアボール」
声に出した瞬間、手の前に火の塊が現れた。
こぶし大の、赤と橙の火。
それがスライムへ飛び、直撃すると、スライムが弾け、小さく縮んだ。
「おお……!」
思わず声が出た。
「当たったな。次は旦那様」
瑛太さんが前へ出る。
スライムはまだそこにいる。
瑛太さんが手を前に向け、息を整えた。
「ウィンドショット」
間があった。
何かが集まる気配はある。
だが、形にならない。
もう一度。
「ウィンドショット」
今度は出た。
ただ、勢いが散った。
風の塊がスライムの手前で霧散して、地面の草を揺らしただけだった。
その瞬間、スライムがぴくりと動いた。
こちらへ向きを変えて、じわじわと近づいてくる。
距離が縮まる前に、ガイルが一歩踏み出した。
背中の大剣を抜く間もなく、踵でスライムを踏み潰した。
べちゃ、と湿った音がして、スライムが地面に広がって消えた。
「あ……」
「焦るな。こういうこともある」
ガイルが振り返る。
瑛太さんを見て、それから私を見る。
「俺が前に出てる間は怪我はさせない。だが、いつも俺がいるわけじゃない。魔法が不発のときの動きも、そのうち考えておけ」
「分かりました」
「旦那様、圧縮が足りない。風を集めたら、一度ぎゅっと絞ってから放せ」
「なるほど」
瑛太さんが短く答えて、もう一度構える。
新しいスライムが、木の根元から出てきていた。
「ウィンドショット」
今度は、出た。
小さいが、まとまった風の塊がスライムに当たり、弾き飛ばした。
スライムは木にぶつかり、そのまま動かなくなる。
「そうだ」
ガイルが短く言った。
私もその後、もう三発撃った。
二発は当たった。一発は少し右にそれた。
それでも、魔力の流し方は毎回少しずつはっきりしてくる。
スライムを四体討伐したところで、ガイルが手を上げた。
「今日はここまでだ」
全身が、じわりと重くなる。
筋肉痛の脚に魔力を使った疲れが重なって、思ったより消耗していた。
「最後に一つだけ言っておく」
ガイルが二人を交互に見る。
「俺が守ると言っても、この先旦那様と奥様が冒険する以上、戦闘は必ずある。死にたくないなら、訓練は真剣にやれ。手を抜いた分は、必ずどこかで返ってくる」
淡々とした口調だった。
脅しではない。
ただ、現実をそのまま言っている。
「分かりました」
私が答えると、瑛太さんも静かに頷いた。
ガイルは一度だけ頷いて、踵を返した。
ルクスがそのあとに続く。
私たちも歩き出す。
森の入り口から訓練場へ戻る。
日差しの中に出ると、体がほっと緩んだ。
「疲れた」
「そうだな」
「お腹も空いた」
瑛太さんが少しだけ歩調を緩める。
「昼はサンドイッチだったな」
「そう。何を挟んでくれてるかな」
「行けば分かる」
足を動かしながら、昼食のことだけを考えた。
今はそれで十分だった。
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