整えていく、朝のはじまり
鳥の声で、目が覚めた。
遠く、細く、それでもはっきりと聞き取れる一声。
しばらく間があいて、また別の声。
この世界の朝は、こういう音から始まるのか、とぼんやり思う。
まぶたが重い。
光だけが薄くまぶたを透かして、体はまだ眠りの底に半分残っている。
白いカーテン越しの朝の光。
木のヘッドボード。真鍮のランタン。
ここがどこかは、分かっている。
二日目の朝だ。
隣に目を向けると、瑛太さんはすでに目を開けていた。
天井を見たまま、じっとしている。
「起きてた?」
「ああ」
声に掠れがない。
やっぱり、あまり眠れていなかったのかもしれない。
聞いても「問題ない」と返ってくるだけだと分かっているから、何も言わなかった。
軽く「おはよう」と挨拶を交わして体を起こすと、全身がじんわりと重たい。
「あ~!筋肉痛来てる」
思わず声に出た。
「俺もだ」
瑛太さんも静かに体を起こしながら、肩を回す。
そのまま少し動きを止めた。
「脚か?」
「脚と腰。瑛太さんは?」
「脚と背中」
「ヒールじゃ治せないんだよね……はぁ」
短いため息のあと、ゆっくりと体を起こす。
しかめっ面はしていないけれど、動きが少しだけ慎重だった。
朝の身支度は、随分と楽だ。
サイドテーブルのスペルジェムを手に取り、魔力を通す。
ひんやりとした感触が一瞬走って、口の中までさっぱりする。
「これだけはほんとに楽だよね。歯磨きも洗顔もしなくていいなんて」
「慣れないがな」
着替えを済ませ、鏡台の椅子に座る。
引き出しからブラシを取り出し、髪に当てる。
一度、ゆっくりと梳かして――そのまま手が止まった。
「はぁ、絡まる」
水色の髪が腰まである。
こんなに長い髪をブラシでといたことは、前世でもほとんどなかった。
毛先から慎重に入れてみるが、すぐに引っかかって手が止まる。
後ろで気配がした。
「貸せ」
振り返る間もなく、ブラシを取られる。
瑛太さんが後ろに立って、髪をそっと手でまとめる。
ブラシを毛先に当てて、慎重に引いた。
すぐに引っかかって、止まる。
少し間があった。
手で絡まりをほぐしてから、もう一度。
「……難しいな」
「でしょ。量が多くて」
瑛太さんはしばらく黙って、手で少しずつほぐしながら試みていた。
ブラシの音が、部屋の中にゆっくりと続く。
「ありがとう」
「慣れればもう少し早くなる」
「毎日やってくれるの?」
「……構わない」
少し間を置いて返ってきた言葉に、私は小さく笑った。
そして着替えを終えると、扉に控えめなノックが三度響いた。
「旦那様、奥様。お時間よろしいでしょうか」
「どうぞ」
扉が静かに開き、ヴァルドが姿を見せる。
「おはようございます。本日のご予定の確認に参りました」
「ちょうどよかった。八時まで、調合と錬金の部屋で少し勉強したくて」
「瑛太さんは?」
「書斎で読書」
昨日、ハルグリムに鍛冶について数冊ほど勧められていたはずだ。
それを読んで過ごすのだろう。
「ハルグリムより指定された鍛冶の書籍でございますね。昨夜、書斎へ移しております」
「ああ、助かる」
「では、八時になりましたらお呼びいたします」
ヴァルドは一礼し、扉は静かに閉まった。
しばらくして、私は薬草図鑑を小脇に抱えて部屋を出た。
三階から二階へ。
木の温かみがある廊下を抜けて、さらに一階へ続く石造りの階段へ足をかける。
一段下りるたびに、空気が少しずつ冷えていく。
廊下を進むと、奥からかすかに金属を打つ音が聞こえてくる。
ハルグリムはもう作業を始めているようだ。
そのまま進み、錬金・調合部屋の扉を開けると、空気が変わった。
窓がない。
石造りのアーチ天井から、ランタンがいくつも吊るされている。
水色のクリスタルがあしらわれていて、やわらかな光が部屋全体に満ちていた。
朝なのに朝じゃない、不思議な明るさだ。
壁一面の棚には、細長いフラスコ、丸みを帯びた瓶、複雑に曲がった管はどれも使い込まれた様子はない。
奥には大きな作業台。
両脇に薬箪笥。
中央に緑のガラスがはめ込まれ、その奥でうっすら光が揺れている。
初めて案内されたときは、部屋の雰囲気に飲まれてしまってよく見ていなかった。
落ち着いて見回すと、棚の一角に本が何冊か並んでいるのが目に入った。
「まずは、備え付けの本からってことかな」
独り言を言いながら、一番手前の一冊を抜き取る。
表紙には『調合基礎 第一章』とある。
作業台の端に腰を下ろして、ページを開いた。
最初に書かれていたのは、調合と錬金の違いだった。
調合は、素材を組み合わせて効果を引き出す技術。
回復薬、解毒薬、状態異常の付与と解除。
素材が持つ性質を活かして、飲んだり塗ったりするものを作る。
錬金は、素材そのものを変える技術。
分解して、精製して、再構築する。
素材に性質を染み込ませることで、布が防水になったり、素材の耐久が上がったりする。
「……全然、違う」
ページをめくりながら呟く。
調合が「組み合わせ」なら、錬金は「変質」だ。
調合は料理に近い感覚かもしれない。
材料を選んで、手順通りに合わせる。
錬金はもっと根本的な話で、素材の性質を理解して操作する。
こっちは化学に近い。
「私、理系じゃないんだけど」
独り言が出た。
でも、Lv1は「まだ何もできない」段階だとはっきり書いてある。
本から知識を得てスキルを育てる準備段階。
調合も同じで、Lv1では調合不可、まず素材の性質を理解することが先だ。
焦っても仕方ない。
ページを進めると、調合の基礎的な色の対応表が出てきた。
HP回復は赤。MP回復は緑。
毒は紫、麻痺は黄、睡眠は水色。
「……信号機みたいな分かりやすさ」
思わず笑う。
なぜこの色なのか、理由も書いてある。
素材が持つ魔力の波長の違いで、自然と色が分かれるらしい。
なるほど。
つまり素材の色が、そのまま効果のヒントになることもある、ということか。
本を閉じ、持ってきた薬草図鑑を作業台の上に広げる。
そのまま薬箪笥の前に立って、一番上の引き出しを開けた。
乾燥した葉が、小分けにして収められている。
「鑑定」
フェルリーフ(薬草・乾燥・調合素材)。
薬草図鑑で該当ページを探す。
フェルリーフ。
食用可。
調合では解毒系の素材として使用される、と書かれている。
図鑑の挿絵と、引き出しの中のものを見比べると、形も色も一致している。
「キッチンで使ってるのと同じだね」
料理と調合で素材が重なる。
整理しておかないと、どこで何を使うか混乱しそうだ。
次の引き出しを開ける。
見たことのない赤みがかった粉が入っていた。
「鑑定」
ミール草(薬草・粉末・調合素材)。
薬草図鑑を繰る。
ミール草、ミール草……あった。
軽い炎症を抑える効果があり、傷薬の基礎素材として使われるとある。
図鑑には花の形も描かれていたが、粉末状では判断がつかない。
「実物の草、見たことないとちょっと分かりにくいかも」
引き出しをいくつか開けながら、図鑑と照らし合わせていく作業を続けた。
合うものもあれば、図鑑に載っていないものもある。
「……載ってない」
もう一度最初から確認してみたが、やはりない。
図鑑をぱらぱらと最後まで繰ってみる。
基礎的なものはちゃんと載っている。
だが、薬箪笥の中には図鑑に該当ページのないものもある。
「初級向けだから、上の素材は省いてあるのかな?」
地球との対応が気になるものは、後で地球百科と照らし合わせればいい。
ひとまず今は、この世界の素材として覚えることが先だ。
ヴァルドに中級以上の図鑑も頼んでおこう。
作業台に戻って、再び本を開く。
今日できることは、読むこと、鑑定すること、照らし合わせること。
それだけだ。
ただ、このまま本と図鑑だけで進めるにも限界がある。
実物の草を、生きた状態で見たことがない。
粉末や乾燥素材を図鑑の挿絵と比べても、どこか手応えが薄い。
そういえば、薬草園があったはずだ。
ヴァルドが屋敷を案内してくれたとき、確かそう言っていた。
「午後にでも行ってみようかな。図鑑も持って」
そこまで考えたところで、扉の外に気配がした。
「奥様、お時間でございます」
ヴァルドの声だった。
どうやら八時になったらしい。
本を閉じ、図鑑を脇に抱えて立ち上がる。
筋肉痛の脚が、じんわりと主張してくる。
「今行きます」
扉を開けると、廊下にヴァルドが立っていた。
そしてその隣に、瑛太さんがいた。
「もう終わったの?」
「区切りのいいところで止めた」
短い返事。
それだけで十分だった。
三人で廊下を歩く。
石造りの一階から木の温かみのある二階へ上がると、食堂の方からかすかに魚の香りが漂ってきた。
「いい匂い」
思わず口から出た。
瑛太さんも少しだけ鼻を動かして、小さく頷く。
食堂の扉を開けると、テーブルの上に朝食が並んでいた。
焼き魚。サラダ。黒パン。
リナが最後の皿を置いて、静かに一礼する。
「ごゆっくりどうぞ」
そのままキッチンへ戻っていった。
三人で席につき、手を合わせてから、まず魚を鑑定してみる。
リュエル(マス・川魚・食用可)。
「マスだって」
「川魚か。いいんじゃないか」
瑛太さんが皿を見て、短く頷く。
フォークを身に当てると、すんなりとほどけた。
口に入れると塩が均一に効いていて、皮目もしっかりしている。
「美味しいけど、少し物足りないね。」
「……酸味があれば、締まるな。さっぱりさせるものが欲しい。」
黒パンをちぎりながら、頭の中で自然と白米と味噌汁が浮かんだ。
パントリーには米も味噌も醤油もある。
あるのに今ここに出てこないのは当然で、この世界では焼き魚に黒パンが普通なのだ。
「焼き魚食べるとご飯が恋しくなる」
「同じだ」
瑛太さんが静かに同意して、サラダに手を伸ばす。
転生して二日目で日本食が恋しくなっている自分たちに、少し笑えてきた。
「歳だからかな」
「……そうだろうな」
あっさり肯定されて、返す言葉がない。
六十六年かけて染み付いた体が、正直に反応しているだけだ。
食事が半分ほど進んだところで、ヴァルドが静かに一歩前へ出た。
「本日の昼食について、ご要望はございますか」
今日から訓練が始まる。
魔力操作後に戦闘訓練とスキル訓練。
動いた後の食事は重すぎない方がいい。
「サンドイッチとスープをお願いします」
「かしこまりました」
一礼して、ヴァルドが下がる。
皿の上が空になる頃には、筋肉痛の脚がじんわりと重さを思い出していた。
「ごちそうさまでした」
手を合わせて席を立つ。
廊下に出ると、自然と礼拝堂の方へ足が向いた。
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