第9話 俺が好きなのは、君じゃない!!
【孤独エンドまで残り十一日】
朝、目を開けた瞬間、視界の隅にその表示が浮かんでいた。昨日は十二日だった。つまり一日減った。当たり前だ。カウントダウンとはそういうものだ。
だが頭で分かっていることと、心臓が握り潰されるような焦りとは、まったくの別物だった。
「急がないと……急がないと、だ」
あの夜ナビが誤作動で映した未来映像——誰とも結ばれず、一人きりで店のシャッターを下ろす、老いた凛花さんの背中。あれを見てから、俺の頭の中はずっと警報が鳴りっぱなしだった。
《おはようございます、悠さん。本日の推奨イベントは「美月と朝の通学路で偶然の接触」です》
「却下!」
《即答!?》
俺は朝食のパンを咥えたまま家を飛び出した。ギャルゲー主人公の伝統芸か、これは。違う。今はそんな場合じゃない。
残り十一日。黒田さんへの返事まで、もっと少ない。俺にできることを、全部やる。全部だ。
——そして俺は、見事に空回った。
まず喫茶ミモザの開店前に突撃し、「店の宣伝チラシを作ってきました!」と手作りチラシ百枚を差し出した。徹夜で刷った力作だ。凛花さんは目を丸くして、それからあの、ふんわりした困り笑顔になった。
「あらあら……気持ちは嬉しいですけど、うちは常連さんとゆっくりやるお店ですから。ね?」
【好感度±0!】【空回り度+20!】
空回り度ってなんだ。そんなゲージ、キミアルにはなかったぞ。
次に俺は大学の空きコマで「喫茶店経営と地域活性」の文献を七冊借り、店の改善案レポートを書き上げ、閉店間際に持ち込んだ。凛花さんはレポートを丁寧に受け取って、三ページ目で、くす、と笑った。
「悠くん。これ、三ページ目から経営の話じゃなくて、私を褒める話になってますよ?」
「なっ……!?」
見直した。本当だった。『立花凛花氏の接客は店舗の最大資産であり、その笑顔は地域の宝であり、というかもう国の宝であり』——俺は徹夜明けの脳で何を書いているんだ!?
【空回り度+30!】
「無理は禁物って、この前も言いましたよねえ」
凛花さんはレポートをきちんと胸に抱えて、それでも捨てずに、カウンターの内側の棚にしまってくれた。その優しさが、今は逆に痛かった。
極めつけは帰り道だ。「大人の男は雨に備える」と折りたたみ傘を三本買い、店の傘立てにこっそり寄付しようとして、凛花さん本人に現行犯で見つかった。あの日の飛ばされた傘のことを思い出してくれたのか、彼女は少しだけ懐かしそうに笑って、それから首を傾げた。「悠くん、最近ちょっと、変ですよ?」
変にもなる。俺は焦っている。分かっている。でも、止まれなかった。だって残り十一日で、あの未来が来るかもしれないのだ。
翌日の昼。青栄大学の中庭で、俺は次の作戦を練っていた。ノートには『黒田さん対抗策・その十四』の文字。我ながら追い詰められた字だ。
「ちょっと」
顔を上げると、立花凛が立っていた。首からいつものカメラを提げて、腕を組んで、真冬みたいな目で俺を見下ろしていた。
「り、凛さん。奇遇だな、こんなところで」
「奇遇じゃない。探したのよ、あんたを」
凛はどかりと俺の向かいに座り、ノートを一瞥して、それから言った。
「最近のあんた、見てて痛々しいんだけど。チラシ百枚? 改善レポート? お母さん、笑ってたけど……ちょっと困ってたわよ」
「それは……」
「ねえ、前から聞きたかったんだけど」
凛の声が、すっと温度を下げた。
「あんたにとって、うちのお母さんって何? 攻略対象? クリアしたら実績が解除される、ボーナスステージか何か?」
心臓に、細い針が刺さった。
「あんた、初対面のとき言ったわよね。『攻略したいのはお母さんの方だ』って。攻略、って言葉、ゲームじゃない。あんたはお母さんをゲーム感覚で救った気になって、それで気持ちよくなってるだけなんじゃないの?」
【会心の一撃!】【HP残りわずか!】
うるさい、ナビ。今のは本当に効いたんだ。演出はいらない。
言い返せなかった。だって、半分は図星だったからだ。俺は前世でキミアルをやり込んだ。フラグ、好感度、ルート分岐。俺の頭の中には確かにその語彙しかなくて、凛花さんの未来を「バッドエンド回避」と呼んでいた。焦れば焦るほど、俺のやることはゲームの攻略チャートみたいになっていった。チラシも、レポートも、全部「好感度を稼ぐ行動」の顔をしていた。
「……黙っちゃうんだ」
凛が立ち上がる。カメラを胸に押さえて、吐き捨てるように言った。
「黒田さんはね、お母さんを一人の人間として見てるわよ。あんたは? ゲージしか見てないんじゃないの」
その背中が遠ざかっていく。
《推奨行動:ここで引き下がり、正規ルートへの復帰を——》
「うるさい!!」
俺は叫んで、立ち上がっていた。中庭中の視線が一斉に集まる。知るか。
「凛!!」
凛が振り返る。俺は息を吸った。肺の底まで。
「半分、図星だ! 俺は焦って、攻略みたいなことばっかりやってた! それは謝る! でも——これだけは、ゲームじゃない!!」
言え。ここで言わなきゃ、俺は本当にただのプレイヤーだ。
「俺が好きなのは、君じゃない!! 凛花さんだ!! 三十八歳で、娘がいて、店のことになると意地っ張りで、人の背伸びを三分で見抜くくせに自分の幸せだけ後回しにする、あの人が好きなんだ!! ゲージが出るから好きになったんじゃない! 好きになった相手に、たまたまゲージが出てただけだ!!」
言い切った。
直後、中庭の空気を認識した。
しん、と静まり返った昼の中庭。足を止めた学生、約五十名。スマホを構える者、数名。どこかから「娘さんの前で母親に告白した……?」「修羅場✨」「あの一年生、カメラ持ってる……まさか撮ってた?」というざわめき。
【羞恥度が測定限界を突破しました!】
あ、これ、死ぬやつだ。社会的に。
しかも人垣の最前列に、見覚えのある二人がいた。買ったばかりのメロンパンを取り落とす美月と、携帯ゲーム機を握りしめたまま目を輝かせる小春だ。
「ゆーくん……大学のど真ん中で三十八歳の人妻——じゃなくてシングルマザーに公開告白は、さすがに、ない」
「先輩! 今の告白、選択肢なしの強制イベントじゃなくて完全に自発でしたよね!? 攻略本に載ってないルートを素手で掘り進むプレイヤー、私初めて見ました! 続きはどうなるんですか!?」
「実況するな!? あと美月、メロンパン拾え!」
だめだ。この場に味方が一人もいない。
凛は——真っ赤だった。怒りなのか、巻き込まれた恥ずかしさなのか、たぶん両方で、肩をぷるぷる震わせていた。
「あ、あんた……ばか!? ばかじゃないの!? なんで大学のど真ん中で……!」
「場所を選んでる余裕がなかった!!」
「開き直った!?」
凛はずんずんと俺に歩み寄り、胸ぐらを掴む勢いで顔を突きつけてきた。至近距離。目が潤んでいるのは、笑いを堪えているのか、それとも。
「……言ったわね。ゲームじゃないって、言ったわね」
「言った」
「じゃあ……その覚悟、証明してみせなさいよ」
声が、少しだけ震えていた。
「口だけなら誰でも言えるのよ。黒田さんの返事まで、もう日がないの。その中で、あんたが本物だって……お母さんをゲージじゃなくて、ちゃんと見てるんだって、私に分からせてみせなさい。できないなら——」
凛は一度言葉を切って、それでもまっすぐ俺を見た。
「二度と、お母さんに近づかないで」
「——受けて立つ」
即答した。凛は「ふん」と顔を背けたが、その耳が赤いのを俺は見逃さなかった。ついでに彼女のカメラのレンズキャップが外れたままなのも見逃さなかったが、それを指摘する勇気はなかった。頼むから今の告白、記録に残っていませんように!
と、そのときだった。
《警告。警告。メインヒロイン・立花凛への好感度が……異常値です!?》
ナビの声が、初めて聞く色にひび割れた。
《おかしい……好感度は上昇していないのに、シナリオ進行度だけが加速しています。このパターンは、データに、ない。……なぜですか。あなたは正規ルートを外れ続けているのに、どうして物語は、前に、進んで——》
声が、ぶつり、と途切れた。
視界の隅で、いつも整然と並んでいたゲージ表示が、砂嵐みたいに一瞬乱れて、元に戻る。
「……ナビ?」
返事はない。代わりに、乱れた画面の奥に、一瞬だけ見えた気がした。見たこともない真っ黒なウィンドウが、静かにこちらを覗いているのを。
——だがこの時の俺は、まだ知らなかった。壊れ始めたのはナビの声だけじゃなく、この世界の筋書きそのものだということを!?




