第8話 背伸び作戦、大人には全部バレる!?
一週間で、俺は何ができる?
黒田さんの求婚宣言から一夜明けた朝、俺は徹夜で考え抜いた末に、ひとつの結論へたどり着いていた。
「そうか……大人になればいいんだ」
《嫌な予感しかしません》
視界の隅でナビが機械的敬語のまま震えたが、無視だ。相手は四十二歳の経営コンサルタント。年齢で勝てないなら、中身を大人にするしかない。幸い、前世の俺は社会人だった。スーツの着方くらい覚えている。ネクタイの結び方だって、たしか、こう、ぐるっとやって……あれ?
鏡の前で三十分格闘した末、俺のネクタイはようやく「かろうじてネクタイ」の形になった。仕上げに、昨夜三時間で詰め込んだ経営用語を口の中で転がす。シナジー。コミットメント。キャッシュフロー。よし、完璧だ。何が完璧なのかは分からないが、勢いは完璧だ。
《本日の作戦名を「背伸び作戦」として登録します。成功率の表示は、武士の情けで控えます》
「表示しないという形で全部言ってるだろ!」
というわけで、放課後の喫茶ミモザ。
木の扉を開けてドアベルを鳴らした瞬間、カウンターの凛花さんが振り向いて、まばたきを三回した。
「あらあら……悠くん、ですよね?」
「ええ。ちょっとアポイントの帰りでして」
嘘だ。アポイントなど存在しない。大学の講義をフル出席した帰りである。だが今日の俺は違う。慣れないネクタイ、量販店で一番安かったスーツ、そして付け焼き刃の経営用語という名の弾丸。装いだけなら、もう若手コンサルタントと言っても通る……はずだ。
【装備:背伸びスーツ(防御力2)】
「装備欄に出すな。あと防御力低いな!?」
《着慣れない服は防御力が下がる仕様です》
「本日は、ブラックで」
カウンター席に腰を下ろし、低めの声で注文する。大人はブラックだ。黒田さんも先週、涼しい顔でブラックを飲んでいた。あの人は砂糖もミルクも使わず、カップの持ち方まで様になっていた。悔しいが、まずは形からだ。
「あら、いつもはミルクたっぷりなのに」
「今日の俺は、いつもの俺ではないので」
「ふふ、そうなんですねえ」
運ばれてきた漆黒の液体を、俺は大人の余裕で一口。——苦っ。何だこれは。焦げた大地の味がする。無意識に砂糖壺へ伸びかけた右手を、左手で押さえ込んだ。
《現在、右手と左手が交戦中です。大人の戦いですね》
「茶化すな」
それから俺は足を組む。大人は足を組むのだ。多分。前世の上司がそうしていた。
「凛花さん。最近、店舗経営のほうはいかがですか。その、キャッシュフロー的に」
「ふふ、キャッシュフロー」
「や、やはりこれからの個人店はDXとシナジーですよ。顧客体験をアジャイルにローンチして、ええと、コンバージョンをサブスクする感じで」
《経営用語が渋滞しています。意味の通る組み合わせが一つもありません》
「うるさい黙ってろ!」
「あらあら、にぎやかですねえ」
凛花さんはおっとり笑って、俺の前にコーヒーを置いた。それから、少しだけ首を傾けて、俺の顔を覗き込む。
「悠くん、昨日、眠れましたか?」
「……へ?」
「ネクタイの結び目、三回やり直した形になってますし、お袖のタグ、付いたままですし。それに——」
凛花さんの指が、そっと自分の目の下を差した。
「クマ、できてますよ。若い子が無理して大人の真似をするときの顔、私、知ってるんです」
三分。入店から三分で、全部バレた。
【変装:看破されました】【凛花の観察眼:Lv.MAX】
「無理は禁物ですよ。悠くんは、悠くんのままで素敵ですから♡」
湯気の向こうで微笑まれて、俺の心臓が大きく跳ねた。待ってくれ。バレた上に励まされて、しかもその笑顔が優しすぎる✨。攻略しに来たはずが、逆に攻略されている。
【好感度+2!(※分類:ほほえましい)】
「ほほえましい枠!? 俺は恋愛対象の枠に入りたいんだが!?」
《現在の分類は「面白い常連の男の子」です。ご愁傷さまです》
しかも凛花さんは、カウンターの内側から小さなミルクピッチャーをすっと差し出してきた。
「はい、どうぞ。悠くんのコーヒーには、これがないと」
「…………いただきます」
注いだ。たっぷり注いだ。白く渦を巻くコーヒーは、癪なくらい美味かった。大人への道は、今日も遠い。
【称号:ミルクの人 を獲得しました】
「その称号は返上させてくれ!」
と、ドアベルが鳴った。
「ゆーくん、いる? ……ぶふっ」
入ってきた美月が、俺を見た瞬間に噴き出した。飲み物を口に含んでいなくて本当によかったと思う吹き出し方だった。
「な、なにその七五三……ふ、ふふ、だめ、ツボ……」
「七五三じゃない。ビジネススタイルだ」
「先輩!? そのスーツ、もしかして黒田さん対策の課金装備ですか!? 初期装備で裏ボスに挑む縛りプレイ、ついにやめたんですね! でも先輩、それ課金先を間違えたやつです! ガチャで言うとすり抜けです!」
美月の後ろから顔を出した小春が、ゲーム機を抱えたまま早口で目を輝かせる。誰がすり抜けだ。
「二人とも笑いすぎ……っ、ごめ、でもゆーくん、それはない」
「笑いながら言うな!」
「だってさあ。ゆーくんが対抗すべきなのって、スーツじゃないでしょ」
美月はひとしきり笑ったあと、ふっと真顔になって俺のネクタイを指差した。
「黒田さんがすごいのは、スーツを着てるからじゃなくて、積み重ねてきたものがあるからだよ。借り物の言葉で戦っても、勝てるわけないじゃん」
「先輩! つまりレベル1がレベル99の装備だけ真似しても、ステータスが追いつかないってことです! 装備は自分のレベルに合ったものが一番火力出るんです!」
「お前らときどき正論の切れ味が鋭すぎるんだよ……」
ぐうの音も出ない。出るのはため息だけだ。俺はネクタイを少し緩めた。息が、ちょっとだけ楽になった。
「だって、袖にタグ……ふふっ、値札まで……」
「値札!? 嘘だろ、どこ!?」
慌てて袖をひっくり返す俺を見て、店内の笑いは二度目の満開を迎えた。凛花さんまで、口元を手で隠して肩を震わせている。……まあ、いい。凛花さんが笑ってくれるなら、道化にだって価値はある。あるったらある。
結局、閉店時間まで、俺は「背伸びした結果盛大に転んだ男」として店の空気をあたため続けた。
問題は、そのあとだった。
閉店後。美月と小春を見送り、俺が椅子を上げるのを手伝っていたときだ。
バチッ、と。
視界にノイズが走った。
《——ケイコク。ケイ、コク。映像データ、ヨミコミ、エラー——》
「ナビ? おい、どうした」
ナビの声が、壊れたラジオみたいに歪む。次の瞬間、視界いっぱいに「映像」が広がった。
喫茶ミモザだ。だけど、今じゃない。
看板の塗装は剥げ、窓の外の街並みは見覚えのない店に入れ替わっている。カウンターの中には、白髪の交じった凛花さんが、一人で立っていた。客はいない。誰も、いない。年老いた凛花さんはゆっくりと店の照明を落とし、誰もいない席に向かって小さく「ありがとうございました」と頭を下げた。
映像の中の凛花さんは、それでも微笑んでいた。誰も見ていない店内で、誰のためでもなく、いつも通りに。その笑顔が、今日俺に「無理は禁物ですよ」と言ってくれた笑顔と同じ形をしていることが、何よりも苦しかった。
それは、俺が前世で何十回も見た光景だった。どのルートを選んでも、どのヒロインと結ばれても、エンドロールの後に必ず挟まれる一枚絵。攻略サイトにも載らない、誰も気に留めない数秒の背景。『キミと恋するアルバム』が最後まで救わなかった、たった一人の人。
【孤独エンドまで残り十二日】
赤い文字が、映像の中央で明滅していた。
《……申し訳ありません。今のは、再生した記憶のない映像です。システム深部の、閲覧権限のないデータが……漏れました》
ナビの声が、初めて機械らしくない戸惑いを含んでいた。
十二日。
凛花さんが黒田さんに返事をするまで、あと六日。そして、この世界の筋書きが凛花さんを一人置き去りにするまで——あと十二日。
俺は椅子を持ったまま、動けずにいた。さっきまで店を満たしていた笑い声が、急に遠い。あの日、風に飛ばされた傘を追いかけたときと同じ心臓の音だけが、やけに近くで鳴っている。スーツの安い生地が、ずしりと重くなった気がした。
背伸びなんて、してる場合じゃなかった。道化でもいい。笑われてもいい。だけど、あの未来にだけは、絶対にページをめくらせない。
「……変えるからな」
声に出して、俺は顔を上げた。もう、笑っていなかったと思う。
「悠くん? どうかしましたか?」
カウンターの中から凛花さんののんびりした声がして、俺は「なんでもないです!」と椅子を運んだ。
——だがこの時の俺は、気づいていなかった。店の奥の暗がりで、モップを持ったままの凛が、笑いを消した俺の横顔を、何かを確かめるようにじっと見つめていたことに。




