第7話 大人の恋敵、スペックが強すぎる!!
花束というのは、持つ人間を選ぶ道具だと思う。
俺が持てば花屋の配達バイトにしか見えないそれを、黒田誠司という男は、映画のワンシーンみたいに自然に携えていた。仕立てのいいジャケット。上品な微笑み。漂う大人の余裕。爽やかな笑顔なんて「気障」の見本のはずなのに、この人がやると本物の輝きに見えるのだから恐ろしい✨。閉店間際の喫茶ミモザの照明さえ、この人のための間接照明に思えてくる。
【警告! 強力なライバルユニットが出現しました!】
視界の隅でナビが赤文字を点滅させた。言われなくても分かってる!
「あらあら、黒田さん。素敵なお花ですねえ」
皿洗いで指をふやかした俺の横で、凛花さんがおっとりと目を細める。第二試験の激務を乗り切った達成感は、ドアベルの音と一緒にどこかへ吹き飛んでいた。常連さん認定♡からわずか数日で、この絶望的な展開である。
「突然申し訳ない。今日は客としてではなく、一人の男として伺いました」
黒田さんは花束をカウンターにそっと置き、背筋を伸ばした。
「凛花さん。単刀直入に申し上げます。私と、結婚を前提にお付き合いいただけませんか」
ガシャン!
手から皿が滑った。膝と根性でキャッチする。ナイスキャッチ俺。だが心の皿は割れた。粉々である。
凛花さんは、目を丸くして黒田さんを見つめていた。天然でおっとりのあの人が、言葉を失っている。当たり前だ。人生を懸けた告白というのは、受け止める側にもそれだけの重さがあるのだから。
【緊急イベント発生:大人の告白】
【攻略難易度:地獄級】
「じ、地獄級!?」
思わず声が出て、慌てて口を押さえた。カウンターの隅では、試験官として様子を見に来ていた凛が、カメラを提げたまま固まっている。
《落ち着いてください。まずは相手のステータスを確認しましょう》
ナビが無慈悲に半透明のウィンドウを展開した。
【黒田誠司/四十二歳/経営コンサルタント/経済力:MAX/落ち着き:MAX/誠実さ:MAX】
【佐伯悠/二十歳/大学二年/所持金:千二百円/本日の戦果:皿洗い四十枚】
「おい待て、俺の欄だけ生活感がすごいんだが!?」
《事実です》
事実なのが一番つらい。せめて盛れ。少しは盛ってくれ。
《補足します。黒田氏の誠実さは、当システムの測定上限を振り切っています》
「測定上限って何だよ。カンストしてるのか。ラスボスか」
《ラスボスであれば攻略法が存在します。彼にはありません。正攻法しか使ってこないからです》
最悪だ。搦め手が一切通じない敵が、この世で一番強いんだよ!
黒田さんは静かに続けた。
「先日、この店の帳簿のご相談を受けました。率直に言えば、経営は楽ではありません。設備は年々古くなる、凛さんの学費もこれからかかる。……あなたは長いあいだ、たった一人で全部を背負ってこられた」
「……」
「私はこの店を支えたいのではありません。店ごと、あなたの人生を支えたいんです。歳の近い者同士、残りの時間をゆっくり歩けたらと思っています」
黒田さんは一度言葉を切って、店の中を見回した。
「もちろん、今すぐ答えてほしいとは言いません。私はあなたより四つ年上なだけの、ただの常連です。ですが……この店のコーヒーと、あなたの笑顔に、仕事で折れかけた夜を何度も救われてきた。今日はそのお礼を、一生かけて返しに来ました」
カウンターの隅で、凛が小さく息を呑むのが分かった。
ずるい、と思った。
言葉のどこにも嘘がない。値踏みも、恩着せも、下心もない。ただ大人が、大人の誠実さで、まっすぐに気持ちを差し出している。
これが嫌味な金持ちなら殴り込みようもあった。でも黒田さんは敵ですらない。ただ、俺より二十二年ぶん先を歩いている人なのだ。
【好感度ゲージ観測中……変動なし】
凛花さんの頭上のゲージは、上がりも下がりもしない。動かないことが、逆に怖かった。あの人が冗談ではなく、真剣に受け止めている証拠だからだ。
凛花さんは花束を見つめ、それから黒田さんをまっすぐに見た。いつもの「あらあら」は、そこにはなかった。
「……ありがとうございます。とても、嬉しいお言葉です」
心臓が嫌な音を立てる。
「でも、すぐにはお返事できません。一週間だけ、お時間をいただけますか」
「もちろんです。何年でも待つつもりで来ましたから、一週間なら誤差ですよ」
黒田さんは軽やかに笑って、それから初めて俺の方を見た。
「佐伯くん、だったね。今日の働きぶり、見事だった。若いというのは、それだけで武器だよ」
「……どうも」
嫌味じゃない。混じりけなしの本気の賛辞だ。だから余計に効く。この人、強すぎる! 恋敵にすら塩を送ってくるな!
何か言わなきゃ、と思った。俺だって凛花さんを、と。負けを認めたわけじゃないと。口を開く。
「あの、俺……!」
全員が俺を見た。凛花さんも、黒田さんも、凛も。
……何も、出てこなかった。
【選択肢を生成できません】
【理由:提示できる将来設計が0件です】
ナビ、お前は俺を殺しに来てるのか?
「……皿、片付けてきます」
俺は厨房に敗走した。本日の戦果は皿洗い四十一枚に更新された。強い。俺の腕前だけが今日も強い。
シンクで皿を洗いながら、耳だけが店内の会話を追いかける。水音の向こうで、大人二人の穏やかな声がしていた。穏やかであることが、こんなに胸へ刺さる夜は初めてだった。
閉店後。店を出ると、夜風が汗の残った背中に冷たかった。
街灯の下のガードレールに、凛が座っていた。首から提げたカメラを、意味もなく指先で撫でている。
「……聞いてたわよ、全部」
「だろうな」
「あんた、悔しくないの」
「悔しいに決まってるだろ」
凛はしばらく黙って、夜空を見上げて、それから小さな声で言った。
「……黒田さんなら、お母さん、幸せかも」
「は?」
思わず聞き返した。いつものツンとした強気はどこにもなくて、そこにいたのは年相応の、母親が大好きなただの女の子だった。
「お父さんが死んでから、お母さん、ずっと一人で店をやって、私を育てて……自分の服も買わないで。黒田さんなら、お金も、時間も、安心も、全部あげられるじゃない。あんたみたいな大学生に、何があげられるのよ」
「……」
「試験なんて、してる場合じゃなかったのかもね、私」
言い返せなかった。第一試験も第二試験も乗り越えたはずなのに、今夜の俺は返す言葉のひとつも持っていない。
「言っとくけど、慰めてほしいわけじゃないから」
「分かってる」
「……ほんとに分かってんの?」
「分かってない、かもしれない」
正直に答えたら、凛はほんの少しだけ笑った。たぶん、今日初めての笑顔だった。
凛は立ち上がり、カメラを抱え直して歩き出した。街灯に照らされたその背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。
一人になった帰り道で、ナビがささやいた。
《ご提案があります》
「なんだよ」
《正規ルートに戻るなら、今です。凛ルートはまだ生きています。あなたが今夜聞いたのは、メインヒロインの本音イベント。ここから巻き返せば、正規エンドに十分間に合います》
「……」
《母娘は黒田氏のもとで安定した幸福を得ます。あなたは同年代のヒロインと結ばれます。全員が、それなりに幸せです。数値上は》
それなりに、幸せ。
その言葉が、妙に喉へ引っかかった。
前世の俺は、キミアルの全ルートをコンプした。凛ルートも、美月ルートも、小春ルートも。周回するたび、エンディングの片隅で凛花さんは静かに歳を取っていった。娘の花嫁姿に涙をこぼす一枚のスチル。ファンの間で「ミモザの聖母」なんて呼ばれて、それで終わりだった。あの一枚の向こう側に、独りで店の灯りを落とす夜が何千回あるのか、画面のこちら側にいた俺は考えたこともなかった。
誰のルートでも、あの人の物語だけは、始まらないまま終わるのだ。
《付け加えるなら、正規ルートに復帰した場合、あなたの最終幸福度は82を記録する見込みです。悪くない数値ですよ》
「数値で言うな」
《数値で管理するのが私の仕事です》
「なあ、ナビ」
《はい》
「その『それなり』の中に、凛花さんの夢は入ってるのか」
《……回答できません。該当データがありません》
だよな。
俺は足を止めて、夜空を見上げた。所持金千二百円。提示できる将来設計0件。本日の戦果、皿洗い四十一枚。スペックでは何ひとつ勝てない。それでも胸の奥のこの熱だけは、地獄級の難易度表示を前にしても、消えてくれないのだ。
――一週間。たった七日で、俺に何ができる?




