第3話 好感度ゲージ、三十八歳にも出ました♡
招待券というものは、財布に入れてから三日、眺めるだけで終わるのが世の常らしい。だが俺は違う。もらった翌日の放課後、最後の講義が終わった瞬間に席を立った。目指すは商店街の外れ、喫茶ミモザ。凛花さんの城だ。
昨日の俺は、存在しない選択肢「三番」を自力ででっち上げ、風に飛ばされた凛花さんの傘を全力疾走で拾いに行った。その結果もらったのが、この一枚の招待券である。つまりこれは、ただの入場チケットではない。攻略開始のゴングだ。
【イベント発生:幼なじみと下校デート♡】
視界いっぱいに、桜色のウィンドウが開いた。
《おめでとうございます! 水瀬美月との下校イベントが発生しました! 選択肢をどうぞ!》
一、一緒に帰る。二、カフェに誘う。以上、二択。
「どっちを選んでも美月と帰る結末なんだが!?」
《それが正規ルートというものです✨》
「俺の放課後を勝手に予約するな!」
《ウィンドウの端に【残り十秒!】と表示されています。お早めにどうぞ✨》
「秒読みまで昨日と同じ演出かよ!」
俺は選択肢ウィンドウを手の甲で払った。もちろん物理的には払えない。気持ちの問題だ。だが気持ちは大事だ。前世で三百時間『キミアル』をやり込んだ俺は知っている。このゲーム、主人公の意思だけは、どのセーブデータにも保存されていない。
《警告! 選択肢外行動を検知しました!》
「昨日ので慣れただろ、その警告!」
校門を全力で駆け抜ける。背後で美月が「あれ、ゆーくん?」と首をかしげた気配がしたが、心の中で手を合わせておいた。すまん美月。俺には、行くべき店があるんだ。
商店街の外れ、つたの絡んだ煉瓦壁に、小さな木の看板。喫茶ミモザ。
深呼吸を三回。前髪を直すこと五回。招待券を握りしめ、木の扉を押す。
カラン、と頭上でドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ……あらあら」
カウンターの向こうで、エプロン姿の凛花さんがふわりと笑った。
「傘の王子さまですねえ」
「お、王子……!?」
攻略対象からの初手二つ名。破壊力が高すぎる。俺は招待券を差し出す手が震えないよう、全身の筋肉を総動員した。
「あの、これ、昨日いただいたやつで」
「ふふ、ほんとうに来てくださったんですね。どうぞ、お好きなお席へ」
俺は迷わずカウンター席に座った。攻略の基本は接触回数と会話量。前世の俺が三百時間かけて導き出した黄金法則である。断じて下心ではない。誓ってもいい。
《下心ゼロで三十八歳を攻略しようとする主人公、開発陣の想定外です》
「褒め言葉として受け取っておく」
注文したブレンドを待つ間、俺はさりげなく凛花さんの頭上を確認した。——何もない。凛や美月の頭上には常時浮かんでいる好感度ゲージが、凛花さんにだけは表示されないのだ。昨日、傘を渡した瞬間に一度だけ光った、あの名前のない小さなゲージ。あれきり、うんともすんとも言わない。
《当然です。立花凛花は攻略対象外。ゲージそのものが存在しないのですから》
「存在しないなら、俺が出現させるまでだ」
《本日のご注文は無謀のブレンドですか?》
「ナビ、お前ちょっと接客うまくなってない?」
カウンターの中では、凛花さんがサイフォンと静かに向き合っていた。かと思えば、常連らしいおばあさんの席へ「今日は冷えますから、ひざかけをお持ちしますねえ」とふわふわ移動し、レジ横の招き猫の向きをちょんと直し、そのくせ自分のエプロンの結び目がほどけかけているのには気づかない。天然だ。天然なのに、店にいる全員が心地よさそうなのだから、これはもう才能である。
やがて目の前に置かれたブレンドは、湯気まで優しい匂いがした。一口飲む。うまい。素直にそう伝えると、凛花さんは胸の前で小さく手を合わせた。
「よかったですねえ。実は今日から豆を替えたばかりで、少しどきどきしていたんです」
「え、じゃあ俺が記念すべき一人目ですか」
「ふふ、一号さんです♡」
心臓が止まるかと思った。三十八歳、恐るべし。色っぽいとかそういうことではない。なんというか、あたたかいのだ。日向に干した毛布みたいな笑い方をする人なのだ。そして俺は知っている。この笑顔が、どのルートの未来でも、誰にも看取られない閉店後の店内で静かに消えていくことを。知っていて、放っておけるはずがないだろ。
と、決意を新たにした瞬間だった。
【イベント再抽選:幼なじみ乱入イベント♡】
「は?」
《先ほどの下校イベントは未消化です。キャンセル規定により、対象をこの座標へ強制召喚します》
「召喚!? おいやめろ、ここは聖域——」
カラン!
ドアベルが悲鳴のように鳴った。振り向く。息を切らした美月が、そこに立っていた。
「ゆーくん、なんでここに!?」
「それはこっちのセリフだが!?」
「わたし、ふつうに帰り道を歩いてたはずなのに、気づいたらこの商店街にいて、なんだかこのお店に入らなきゃいけない気がして……って、そんなことより!」
美月はずんずんカウンターまで来ると、俺の隣に腰を下ろした。目が据わっている。
「幼なじみを置いて校門から全力ダッシュって、どういうこと?」
「や、それは、その」
「しかも行き先は喫茶店。ふーん? わたしとは寄り道しないのに?」
「誤解だ。これは攻略——じゃなくて、恩返しで」
「今、攻略って言った?」
「言ってない。何も言ってない」
《墓穴+10です》
「実況するな」
「だいたいゆーくん、昨日も変だったよ? 知らない女の人の傘を追いかけて、車道ぎりぎりまで走ってくし」
「あれは人命ならぬ傘命救助だ」
「傘命って何?」
凛花さんはといえば、カウンターの向こうで俺と美月を交互に見て、あらあらまあまあ、と楽しそうに頬に手を当てている。
「お二人は、仲よしさんなんですねえ」
「「仲よしじゃないです(ない)!」」
声が完璧に揃った。余計に仲よしみたいになった。
美月はやけくそのようにショートケーキを注文し、一口食べて、悔しそうに黙り込んだ。
「……おいしい。うち、洋菓子店なのに。敵に塩を送られた気分」
「あらあら、洋菓子屋さんの娘さんでしたか。それは光栄ですねえ」
そこからは、あろうことか美月と凛花さんが生クリームの立て方談義で盛り上がり始めた。俺の攻略時間を返してほしい。だが、隣で笑う幼なじみと、カウンター越しに笑う凛花さんを眺めていると、まあこれはこれで、と思ってしまうのだから困る。喫茶ミモザという店には、どうやら人をそういう気分にさせる魔法がかかっているらしい。
気づけば窓の外は茜色。美月は「お店の手伝い忘れてた! ゆーくん、この話はまだ終わってないから!」と言い残して飛び出していき、店内の客は俺一人になっていた。壁の時計は閉店十分前。
「すみません、こんな時間まで」
「いいんですよ。今日はにぎやかで、楽しかったですねえ」
凛花さんはカップを拭きながら、ふと窓の外へ目をやった。
「昨日は、ほんとうにありがとうございました。あの傘、娘が小さい頃に、たいせつな人が選んでくれたものなんです。だから、あんなふうに追いかけていただけて、うれしかった」
「そんな大事なものだったんですか」
「ふふ。若い方に全力で走っていただける傘なんて、なかなかないですよ」
そう言って、凛花さんは笑った。夕焼けの色を少しだけ吸い込んだ、今日いちばんの笑顔だった。
その瞬間だった。
ピコン、と。
聞き慣れた、しかし決して鳴るはずのない音が、俺の頭の中に響いた。
【対象不明・好感度+3!】
「——は」
凛花さんの頭上。名前も枠線もおぼつかない、生まれたての小さなゲージが、確かにそこに浮かんでいた。
《…………計測、されています。攻略対象外の人物に、好感度が。そんなデータは存在しないはずなのに》
ナビの声が、初めて機械らしくなく震えた。俺は叫び出したいのを全力でこらえ、コーヒーの残りを一気にあおった。熱かった。それどころではなかった。
出た。ゲージが。三十八歳にも、出ました✨
攻略本にも、どの攻略サイトにも載っていない。三百時間やり込んだ俺ですら知らない数値が、いま目の前で産声を上げた。システムが用意した物語の外側で、凛花さんの心が、ほんの三ミリだけこっちを向いたのだ。
「ごちそうさまでした! また来ます! 明日も来ます!」
「あらあら。ふふ、お待ちしていますね」
会計を済ませ、雲の上を歩くような足取りで木の扉を押す。カラン、とドアベルが祝福みたいに鳴った。攻略はまだ始まったばかり。だが数字は確かに動いた。ゼロじゃない、プラス3。世界一重いプラス3だ。
——浮かれきった俺は、気づいていなかった。通りの向かいから、窓越しの一部始終を射抜くように睨みつけている、一人の少女の視線に。




