第2話 正解は三番、お母さんを追う!!
【残り三秒!】
視界の右下で、赤いカウントが容赦なく点滅している。
選択肢ウィンドウは二枚。
【①「大丈夫? 手を貸すよ」と凛に駆け寄る】
【②「奇遇だね、同じ大学?」と爽やかに助け起こす】
どっちを選んでも、立花凛ルートの開幕だ。桜の舞う登校初日、転んだメインヒロインに手を差し伸べる——『キミと恋するアルバム』で百周は見たオープニングイベント。前世の俺なら迷わず①だ。①のほうが初期好感度が二点高い。攻略wikiにも書いた。俺が書いた。
でも、今の俺は知っている。凛ルートでも、美月ルートでも、小春ルートでも、エンドロールのあとに残るのはひとつ。道の向こうで買い物袋を提げて立つあの人——立花凛花さんが、誰にも選ばれないまま、独りで店を閉め、独りで老いていく未来だけだ。
《残り二秒です。選択してください》
脳内に響く機械音声——通称ナビが、事務的に俺を急かす。
その時だった。春の突風が、通りをまるごと吹き抜けた。
凛花さんの手から、水色の傘がふわりと舞い上がる。
「あ」
傘は風に乗り、くるくる回りながら坂の下へ飛んでいく。凛花さんが小さく手を伸ばす。届かない。
——決めた。
「三番!!」
《は?》
ナビが機械のくせに素で聞き返した。
【残り一秒!】
「正解は三番、お母さんを追う!!」
俺は存在しない選択肢を高らかに宣言し、選択肢ウィンドウを突き破る勢いで走り出した。物理的には突き破れないので顔面からすり抜けただけだが、気持ちは完全に突き破った。
《けいっ……警告! 選択肢外行動を検知しました!》
【警告!選択肢ウィンドウ:応答なし】
《佐伯悠さん! お戻りください! 進行方向が逆です! そちらはヒロインではありません! ヒロインの、母です!》
「知ってる!! だから追ってるんだよ!!」
《それは攻略対象外です!?》
ナビの絶叫を背中に聞き流し、俺は全力疾走した。二十歳の脚を舐めるな。前世はデスクワークで腰をやったが、今の肉体は主人公仕様だ。走れ。青春はこう使うんだ。
【選択肢を再表示します】
視界の真ん中に、新しいウィンドウが割り込んでくる。
【①今からでも凛を助ける】
【②今からでも凛を助ける】
「選択肢が一個しかないんだよなあ!!」
《二個です!》
「同じなんだよ!!」
《では交渉です! 今すぐ引き返せば、次のデートイベントでレアCGの回収を確約します!》
「いらん!」
《凛さんの初期好感度に特別補正を付けます! 大サービスです!》
「その好感度、まるごとお母さんに付け替えろ!」
《できません!? そういう仕様は存在しません!?》
「なら走る!!」
俺はウィンドウを額で押しのけて走った。当の傘は性格の悪い蝶みたいに、あと一歩のところでひらりと舞い上がる。街路樹の枝に引っかかりかけて、また風に攫われ、パン屋の看板をかすめ、掲示板の上で一回転して、最後は電柱の根本にすとんと着地した。
「確保ぉぉ!!」
俺は野球のヘッドスライディングの構えで飛び込み、普通に膝を擦りむいた。主人公仕様でも痛いものは痛い。
【悠のHP-3!】
「そういう表示はいいから」
ちなみに視界の隅では、置き去りにした運命の出会いイベントが虫の息のカウントを刻んでいた。ごめん、凛。君が自力で立ち上がれる強い子だってことは、俺が前世から一番よく知ってるんだ。
立ち上がって傘を掲げると、坂の上から凛花さんが小走りにやって来るところだった。
「あらあら、まあまあ」
息を切らす俺の前で、凛花さんは買い物袋を抱えたまま、ぱちぱちと目を瞬かせる。
近い。近いぞ。画面越しに何百回も見た人が、呼吸をして、春の風に髪を押さえて、俺の目の前に立っている。
「ごめんなさいね、私の傘のために……あら、お膝! 血が出てますよ!」
「これは自主的な膝です」
「?」
緊張で日本語が死んだ。落ち着け、俺。前世と今世を合わせれば実質年上のはずなのに、なぜ敬語の活用から怪しくなっているんだ。
凛花さんはくすくす笑うと、ハンカチを取り出し——俺の膝ではなく、傘の柄についた泥を、そっと丁寧に拭った。それから傘を胸に抱いて、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。この傘、大事なものなんです」
傘を抱く手つきが、ほんの少しだけ強かった。大事なもの。その言い方の奥に何か物語の気配がしたけれど、会ったばかりの俺には、まだその先を覗く資格がない。
「い、いえ! 傘は、その、飛ぶものなので! 風の日は!」
だめだ。ゆうべ布団の中で練習した「大人の落ち着いたお礼の受け方(完全版)」が一行も出てこない。
凛花さんは俺の壊れた日本語を気にする様子もなく、ふと思いついたように鞄を探った。
「そうだ。お礼と言ってはなんですけど……私、この先で小さな喫茶店をやってるんです。『喫茶ミモザ』っていうんですけど」
差し出されたのは、手描きの小さなカードだった。黄色いミモザの花の絵に、丸っこい字で「ご招待券・お好きなお飲み物を一杯」と書いてある。ほんのり珈琲の匂いがした。
「よかったら、いらしてくださいね。学生さんでしょう? 甘いものもありますよ」
「行きます」
食い気味に即答してしまった。
「ふふ、元気なお返事ですねえ。……青栄大学の方ですか?」
「はい! 二年です! 今日が登校初日です!」
「あらあら、初日から膝を擦りむいて」
凛花さんは口元に手を当てて、困ったように、でもどこか楽しそうに目を細めた。
「なんだか——春らしい人ですねえ」
春らしい人。何だそれは。褒められているのか。判定不能だが、俺は心のアルバムに永久保存した。
凛花さんが笑った。その、瞬間——。
彼女の頭上に、見たことのないゲージが浮かんだ。名前もない。数値もない。ただの細い光の帯が、ほんの一瞬だけ✨と瞬いて、消えた。
《……》
「おいナビ、今の何だ」
《不明です。当システムのデータベースに、該当する表示は存在しません》
データにない、ゲージ。攻略対象ではないはずの人の頭上に灯った、名前のない好感度ゲージ。
俺の心臓が、さっきのカウントダウンより速く鳴った。あるんだ。ゼロじゃない。この人のルートは、どこかにある。
「——お母さん!」
声に振り向くと、坂の下から凛が駆けてきた。さっき転んだ膝を軽く払いながら、俺と凛花さんを交互に見る。
「もう、急に行っちゃうから……って、誰?」
「傘を拾ってくださったの。親切な学生さんよ」
「ふうん」
凛の視線が、俺を上から下まで、ゆっくり二往復した。メインヒロインの美少女がしていい目つきではない。不審物を見る警備員の目である。いや、分かる。分かるぞ。知らない男が母親の隣で息を切らして立っていたら、娘として警戒するのが正解だ。正解なんだが——その正解が、この先の俺の前に立ちはだかる最初のボスになる予感だけは、ひしひしとした。
【凛の好感度±0!警戒値が新規生成されました】
嫌な項目が増えた。
「……今の人、何?」
凛が母親にだけ聞こえるつもりの声量で言ったのが、ばっちり聞こえた。何、って。傘を拾っただけなんですけど。運命の出会いイベントを蹴飛ばした自覚はあるけれども。
「それじゃあ、ぜひミモザにいらしてね」
凛花さんはもう一度俺に会釈して、凛と並んで坂を上っていった。水色の傘が、春の光の中で揺れている。凛が一度だけ振り返って、じとっとこちらを睨んだ。怖い。
《……佐伯悠さん》
ナビが、疲れ切った声で言った。
《ご報告します。本日のメインイベント達成率、0%。凛さんとの運命の出会いは不成立。あなたはたった今、メインシナリオの入口を自分の足で蹴飛ばしました》
「ああ」
《絶望してください》
「してない。むしろ人生で一番いい気分だ」
《理解不能です!?》
「なあナビ。さっきの名前のないゲージ、もう一回出す方法は?」
《ありません。当該表示は原因不明のバグとして報告済みです》
「バグじゃない」
俺は断言した。
「あれは、まだ誰も見つけてない隠しルートの入口だ」
《隠しルート? 当作品にそのような——》
言い切る前に、ナビの声がほんの一瞬、ノイズで途切れた。ほらみろ。
俺は手の中の招待券を見た。ミモザの花。丸っこい字。珈琲の匂い。そして脳裏に焼きついて離れない、あの名前のないゲージの光。
どのルートを選んでも独りになるなら、ルートの外から迎えに行けばいい。誰も攻略しなかった人を、誰よりも幸せにする。ヒロインより、お義母さんを攻略します——これは間違いでしょうか。
いいや、間違いなものか。
俺は招待券をぎゅっと握りしめ、夕焼けはじめの空へ高らかに宣言した。
「——攻略、開始だ!!」




