第1話 転生したら、選択肢が邪魔すぎる!?
目が覚めたら、見知らぬ天井——ではなかった。むしろ見覚えがありすぎた。
木目のフローリング。ベッドの脇に積まれた漫画。コルクボードに貼られた大学のプリント。カーテンは淡いブルー。前世で百回は見た、スチル画像そのままの部屋だった。
「……いやいや。待て、待て」
俺は跳ね起きて、部屋の隅の姿見に駆け寄った。鏡の中にいたのは、寝癖のついた黒髪の、どこにでもいそうで妙に整った顔の男。年の頃は二十歳前後。俺はこの顔を知っている。知っているどころの話じゃない。
『キミと恋するアルバム』——通称キミアル。前世の俺が人生を捧げた恋愛ゲームの主人公、佐伯悠の顔だ。
「俺が、佐伯悠……?」
試しに頬をつねってみた。痛い。夢オチの線は早々に消えた。窓を開ければ、見覚えのある住宅街が朝日にきらきらと輝いている✨ オープニングムービーで流れる、あの街並みだ。
「本気で言ってるのか、これ……」
つぶやいた瞬間、視界の端で何かが光った。
【システム起動:プレイヤー 佐伯悠 二十歳 青栄大学2年】
半透明のウィンドウが、朝の光の中にぽかんと浮かんでいる。恐る恐る手を伸ばすと、指はすかっと通り抜けた。実体がない。なのに、やたらと堂々と浮かんでいる。
《おはようございます、悠さん。本日は新学期初日です》
「誰!?」
《ナビゲーションシステムです。以後、ナビとお呼びください。本日はメインヒロイン・立花凛さんとの運命の出会いイベントが予定されております。遅刻は許されません》
「運命の出会いって、お前……」
言いかけて、記憶が雪崩を打った。
前世の俺は、しがない社会人だった。仕事帰りにキミアルを起動するのだけが生きがいで、全ヒロイン、全ルート、全エンディングを回収した。周回数は三桁。スチル回収率は百パーセント。攻略サイトの記述が間違っていれば俺が修正依頼を出した。それくらいやり込んだ。
で、確か——昨夜も周回の途中で、いつの間にか寝落ちして。
目が覚めたら、これだ。
「転生……ってことか? ゲームの主人公に?」
《些細なことです。それより朝食を。イベントに遅れます》
「些細じゃないんだよなあ!?」
俺の絶叫を、ナビは涼しい顔でスルーした。顔はないが、絶対に涼しい顔をしていた。断言できる。
《本システムは悠さんの恋愛を全面サポートいたします。選択肢ウィンドウの指示に従っていただければ、好感度ゲージは右肩上がり。卒業までに必ず、いずれかのヒロインと結ばれます》
「保証書付きの青春って、ありがたみがすごいな……」
《ありがたいのです。感謝してください》
「システムのくせに恩着せがましい!?」
……とはいえ、だ。
トーストをかじりながら、俺は冷静になろうと努めた。ここが本当にキミアルの世界なら、話は早い。俺はこのゲームの全てを知っている。誰がどこで転ぶかも、どの選択肢で好感度ゲージが何点動くかも、雨の日にどのヒロインが傘を忘れるかも、全部だ。
メインヒロイン・立花凛。青栄大学1年、十八歳。ツンとした強気な後輩で、首からカメラを提げている。新学期初日、大学前の並木道で、風に飛ばされた帽子がきっかけで出会うのが最初のイベント。そこから始まる王道ルートは、何度やっても胸が熱くなる名シナリオだ。
「悪くない。悪くないぞ、この転生」
《その意気です✨ 正規ルートを進行しましょう》
「今、音声なのにキラキラした気配を出したな?」
家を出ると、通学路には同じ大学へ向かう学生の流れができていた。すれ違う誰もが、ゲームの背景で見たモブそのままの顔をしている。すごいな、世界まるごと再現度百パーセントか。
なにせ俺は結末を知っているのだ。ハッピーエンドへ一直線、人生イージーモード。ギャルゲー廃人、ついに報われる時が来た——そう思っていた。
このときの俺は、まだ「あの光景」を思い出していなかった。
通学路。春の風がやたらと強い日だった。桜の花びらが横殴りに飛んでいく。
青栄大学の正門前、例の並木道に差しかかったところで、視界のウィンドウがけたたましく点滅した。
【イベント発生:運命の出会い♡】
《来ました! 立花凛さん、前方十メートル! まもなく風で帽子が飛ばされます! キャッチして「大丈夫?」と声をかけるのが最適解です!》
見れば、並木道の向こうから、カメラを首から提げた女の子が歩いてくる。ツンと澄ました目元。ゲームで何百回も見た、立花凛その人だった。本物だ。本物のメインヒロインが、呼吸をして、歩いている。地味に感動して泣きそうになる俺の眼前に、ゲームでお馴染みのアレが展開された。
【選択肢ウィンドウ起動 一:帽子をキャッチして声をかける 二:さりげなく拾って手渡す】
【残り五秒!】
「うおお、出た! 実物はでかいな!?」
《お静かに! さあ選んでください! どちらを選んでも好感度ゲージは上昇します! 記念すべき攻略の第一歩です♡》
風が唸る。凛の帽子がふわりと宙に舞い上がる。ここだ。ここでキャッチすれば、あの名シナリオが始まる——
その、はずだった。
視線の先。並木道を挟んだ道の向こう側に、一人の女性がいた。
ベージュのエプロンに、柔らかそうな栗色の髪。買い物袋を提げたまま、風にさらわれていく自分の傘を「あらあら」という口の形で見送っている、大人の女性。
心臓が、どんと鳴った。
立花凛花さん。三十八歳。凛の母親で、駅裏の喫茶ミモザを一人で切り盛りしているシングルマザー。
そして——前世の俺が、画面の前で何度も呻かされたキャラクター。
思い出してしまった。「あの光景」を。
キミアルにおいて、凛花さんは攻略対象じゃない。ヒロインの母という、ただの背景キャラだ。だが俺は知っている。凛ルートの、エピローグの一枚絵を。娘の結婚式で誰よりも綺麗に笑ったあと、一人で店に戻り、誰もいないカウンターを黙って拭く凛花さんの姿を。
美月ルートでも、小春ルートでも同じだ。どのルートを選んでも、娘は巣立ち、店はいつか静かになり、あの人は誰にも寄りかからないまま、独りで老いていく。救済ルートは存在しない。ファンがどれだけ要望を送っても、公式は最後まで凛花さんを攻略対象にしなかった。
発売から何年経っても、ファンの間では語り草だった。キミアル最大の心残り。一番幸せになるべき人が、一番報われないゲーム。当時の俺のハンドルネームの由来が「ミモザ」だったことは、墓まで持っていく予定の秘密だ。
前世の俺は、画面のこちら側で「誰かこの人を幸せにしろよ!」と吠えることしかできなかった。
でも、今は?
今の俺は——画面の、こちら側じゃない。
【残り四秒!】
《悠さん!? 視線が明後日の方向です! ヒロインはあちらです! 帽子! 帽子が落ちます!》
ナビが騒ぐ。分かってる。正規ルートはあっちだ。運命の出会いはあっちだ。三桁周回した俺が、世界の誰よりも分かってる。
でも、道の向こうで凛花さんが、逃げていく傘に小さく手を伸ばして、届かなくて、ちょっと困った顔のまま笑ったのだ。誰にも助けを求めない、あの笑い方で。
——ああ、駄目だ。
俺の中で、何かが盛大に音を立てて決まってしまった。
ヒロインより、お義母さんを攻略します。
これは間違いでしょうか。
《悠さん? 今、システムが極めて不穏な思考を検知したのですが!?》
「間違いじゃないな。うん、間違いじゃない」
自問、即答。我ながら主人公級の行動力だと思う。向かう先が完全に攻略対象外なだけで。
《正気ですか!? 立花凛花さんは攻略対象外です! 好感度ゲージも実装されていません! ルートが、ルートがありません!》
「道がないなら作ればいい。三桁周回の意地、見せてやるよ」
《その周回経験、全部正規ルートのものですよね!?》
《だいたい、冷静にお考えください! 悠さんは二十歳、あちらは三十八歳! 攻略どころか、会話イベントのひとつも用意されていません!》
「用意されてないなら、これから起きること全部が初回限定イベントってことだろ。逆に豪華か?」
《その前向きさを、どうかヒロインに向けてください!?》
【残り三秒!】
カウントが減っていく。凛の帽子がスローモーションで宙を舞う。選択肢ウィンドウが、早く選べと明滅する。脳内ではナビが絶叫し続けている。
世界のすべてが「一番か二番を選べ」と迫ってくる中で、俺の目は、道の向こうを転がっていく水色の傘だけを追いかけていた。
【残り二秒!】
——始めよう。前世からの推しの、救済を。
無情にも、カウントはゼロへと滑り落ちていく。俺はまだ、どの選択肢にも手を触れていない!?




