第18話 隠しルートの告白は、選択肢なし♡
世界が、音を立てて崩れていく。
青栄祭のステージも、空も、校舎も、ガラス細工みたいにひび割れて、剥がれた破片がゆっくりと宙へ昇っていく。凛の写真宣言も、美月の留学宣言も、小春のクリエイター宣言も、全部本物だった。だからこそ世界は崩れた。そしてその崩壊のど真ん中を——傘を差した凛花さんが、まっすぐ俺の方へ歩いてきていた。
あの日の傘だ。春の風に飛ばされて、存在しない三番の選択肢を作ってまで俺が追いかけた、物語の始まりの傘。
「あらあら。学園祭って、今はこんなに派手なんですねえ」
「感想がのんきすぎる!?」
世界の終わりを「派手」の一言で片付ける三十八歳が、そこにいた。しかも似合う。崩れゆく空を背に傘を差して微笑むその姿が、どんなラスボスより堂々として見えるのはなんでだ。
「お、お母さん!? なんで来てるの!?」
ステージの上から凛が身を乗り出す。凛花さんはふふ、と笑って、たたんだ招待券みたいに丁寧な仕草で胸に手を当てた。
「凛ちゃんの晴れ舞台ですもの。見に来ますよ。……立派でしたねえ、写真家さん」
「〜〜っ、後にして! 今それどころじゃないから!」
真っ赤になった未来の写真家がカメラで顔を隠す。美月が「親子だなあ」としみじみ呟き、小春が「尊すぎて世界の崩壊を忘れるところでした!」と早口で叫んだ。忘れるな。現在進行形で崩壊してるんだぞ。
《警告! 未登録キャラクター『立花凛花』がイベント空間に侵入しました!》
ナビの声に重なって、割れた空に巨大な文字が焼き付く。
【最終シナリオ『大人の選択』強制実行】
《まずいです悠さん! システムが最後の抵抗に出ました! 正規世界を守る最終手段——『凛花は黒田を選ぶ』結末の、強制上演です!》
ステージ中央に、スポットライトが落ちた。
光の中に、仕立てのいいスーツの紳士が立っている。黒田誠司さん、四十二歳。年齢、収入、落ち着き、全部で俺に完勝してきた大人の恋敵。その手には、どこからともなく現れた分厚い台本が握られていた。
「……ほう。台本、か」
黒田さんが表紙を撫でる。同時に、凛花さんの足が、本人の意思と関係なくステージへ引き寄せられていく。傘の柄を握る指が、小さく強張った。
「凛花さん!」
駆け出した俺の鼻先で、見えない壁が光る。
《介入不可です! このイベントの登場人物は『大人』二人だけに設定されています!》
「『立花凛花は、安定した未来を選ぶ。年齢の釣り合う誠実な男の手を取る。それがこの物語の、最も美しい結末である』——」
黒田さんが台本を読み上げる。低くて、よく通る、いい声だった。正直、俺が観客だったら拍手してる場合ですらある。凛が俺の袖をぎゅっと掴んだ。ステージ袖では美月と小春が、祈るみたいに両手を組んでいる。
そして、凛花さんの唇が勝手に動き始めた。
「わたくしは、黒田さんの手を取り——あらあら? あらあらあら?」
「凛花さん!?」
「口が、勝手に……ふふ、困りましたねえ。私、台詞を覚えた記憶がないのですけれど」
困り顔なのに声だけは筋書き通りに進んでいく。システムの野郎、本人の意思を無視して口だけ動かすとか、ギャルゲー史上最悪の演出だぞ! 俺は透明な壁を殴った。びくともしない。
《シナリオ強制力が最大値です! このままでは三十秒で『大人の選択』エンドが確定します!》
黒田さんは、そこで。
ぱたん、と台本を閉じた。
「——読めんな。この先は」
《な、なぜです!? あなたが完全勝利する筋書きですよ!?》
ナビの絶叫は黒田さんに届かないはずなのに、彼はまるで世界そのものに答えるように、静かに首を振った。
「私はね。あの店に通って、彼女の淹れる珈琲と、笑顔の奥にある強さに惚れたんだ。誰かの書いた台本の中の彼女に、惚れた覚えはない」
台本が宙に放られる。ページが光の粒になって散った。
【シナリオ進行度、停止】
「筋書き通りに選ばれる愛など、彼女への侮辱だろう。それに——」
黒田さんは俺を見た。ふっ、と大人の笑みで。
「若いというのは、それだけで武器だよ。だが今日のお前の武器は、若さじゃない。あきれるほどの本気だ」
そして彼は、ステージの階段を降りながら言った。
「彼女の答えは、彼女が決める。若造、あとは任せた」
拍手も、退場曲もない。それなのに、今まで見たどのハイスペック自慢よりも、その背中は大きく見えた。
「せ、先輩! 敵キャラの離脱イベントです! しかも歴代最高にかっこいいやつ!」
「ゆーくん、見送って泣いてる場合じゃないでしょ」
「……ほんと、大人ってずるい」
小春と美月と凛の声で我に返る。ナビまでもが《……大人、かっこいいです。データにない行動なのに、エラーひとつ吐かせてくれません》と妙にしんみりしていた。わかる。わかるけど、しんみりするな相棒。そうだ。任された。任されたんだ、俺は!
直後、システムは往生際悪く最後の力を振り絞った。俺と凛花さんの間に、見慣れた青いウィンドウが強制展開される。
【選択肢ウィンドウ:残り五秒!】
——だが。
その中身は、真っ白だった。一番も、二番も、三番も、何も書かれていない。カウントだけが空しく減っていく。
「おいシステム、白紙の選択肢とか手抜きにも程があるだろ!」
突っ込みながら白い枠を叩いてみる。反応なし。あの日は、ないなら作った。三番を、自分の足で。でも今日は——作る必要すら、ないらしい。
《……生成できないのです》
ナビの声が、初めて泣きそうに聞こえた。
《『立花凛花』を選ぶ選択肢は、このゲームのどこにもデータが存在しません。最初から、ずっと——あなたが自分で作ってきたのですから》
白いウィンドウが、ぱきん、と砕けた。
好感度ゲージが消える。警戒度も、進行度も、タイムリミットも、全部。世界の崩壊すら止まって、音のない静かな光の中に、俺と凛花さんだけが立っていた。
凛花さんが、ゆっくりと傘をたたむ。
「悠くん。あなたは私の傘を追いかけてくれて、お皿を山ほど洗ってくれて、隠していた絵本を見つけてくれて……それから、たくさん間違えてくれましたねえ」
「うっ。展示会のことは、本当に——」
「ふふ、あらあら。怒ってませんよ。もう、怒ってません」
凛花さんは笑って、それから少しだけ、泣きそうな顔になった。
「私ね、ずっと思っていたんです。私の物語は、ここでおしまいだって。絵本の隅に、そう書いてしまうくらいに。悟さんを見送って、凛ちゃんを育てて、それで私の役目はぜんぶ終わったんだって。誰かを好きになる資格なんて、もうないんだって」
「そんなことは——」
「でもね」
まっすぐに、俺を見る。三分で俺の背伸びを見抜いた、あの大人の目で。今は、その目が揺れていた。
「救われたからじゃありません。感謝しているからでも、ありません。私が、あなたを好きになったんです」
選択肢はなかった。カウントダウンもなかった。好感度ゲージの数字も、正解のルートも、何もなかった。転生して初めて、俺は攻略情報ゼロでこの人の前に立っている。心臓がうるさい。前世でどのルートを周回しても、こんなイベントは一度もなかった。当たり前だ。これはゲームのイベントじゃない。俺の、人生だ。
息を吸う。俺の答えは、この世界に来た日からずっと、一つしかなかった。
「俺も、好きです! 攻略とか好感度とか全部抜きで、凛花さんが、ずっと大好きです!!」
その瞬間。
割れていた空が、内側から光った。
【♡隠しルート解放♡】
空いっぱいに、その文字が花火みたいに弾けて輝く✨。ひび割れていた校舎が、空が、ステージが、光を吸い込んで元の形に戻っていく。降り注ぐ光の粒の中、ステージ袖から凛が駆けてきて、涙をぐしぐし拭いながら笑った。
「……よかったね、お母さん。は? 泣いてないし。ちょっと目にゴミが入っただけだし」
「ゆーくん、おめでと。……うん、それはあり、だよ」
「実績解除おめでとうございます先輩! これ絶対トロフィー金です! いえ、プラチナです!」
そして最後に一度だけ、凛花さんの頭上にあの懐かしいゲージが浮かんで、こう表示された。
【好感度:測定不能♡】
「測定しろよ!? 最後の最後に仕事を放棄するな!?」
「あらあら、ふふ。悠くんは、さっきから空に向かって何とお話ししてるんですか?」
「……いつか全部、話します。長くなるんで、ミモザの珈琲でも飲みながら」
「ふふ、では特等席をご用意しておきますね。常連さん♡」
凛花さんが「あらあら」と真っ赤になって、俺も多分それ以上に真っ赤で、誰も不幸にしない結末が、確かにここにあった。
——だが、光の向こうでナビだけが、妙に静かな声でこう告げたのだ。《おめでとうございます。……ですが、エンドロールはまだ流しません》




