↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/20

第15話 娘だって、ずっと怖かった

喫茶ミモザに出入り禁止になってから、何日目かの昼だった。

 俺は大学の中庭のベンチで、購買の焼きそばパンを三十分かけて食べていた。味がしない。前世と今世を合わせても、こんなに味のしない焼きそばパンは初めてだ。

 《佐伯様。ご報告します。本日の好感度変動……プラスマイナスゼロです》

 「知ってる」

 《ですが、あの+1は本日も維持されています。繰り返します、維持されています》

 「……ありがとな、ナビ」

 視界の隅で、ゲージがほんの一ミリだけ灯っている。凛花さんが自分の手で応募用紙を持ち帰ってくれた、あの【本人の選択・好感度+1!】だ。俺はあれから何度もその数字を見返しては、泣きそうになっている。プラス1で泣く攻略者がどこにいる。ここにいる。

 「ゆーくん、それはない。焼きそばパン相手に三十分は、さすがにない」

 いつの間にか隣に座っていた美月が、呆れ顔で麦茶を差し出してきた。反対側からは小春がひょこっと顔を出す。

 「先輩! 元気出してください! こういう時こそゲームですよ、ほら、積みゲーを崩すと心が無になれて…!」

 「小春、それ元気出てなくない?」

 「二人とも……ありがとな」

 俺が礼を言うと、美月はふんと鼻を鳴らして立ち上がった。

 「別に。抜け殻のゆーくんが邪魔で通れなかっただけ。……ちゃんとご飯は食べなさいよね」

 なんだかんだで、こいつらはいつも俺を放っておかない。二人が去った中庭で、俺はぬるくなった麦茶を握りしめた。

 「いた」

 声と同時に、影が俺の顔に落ちた。

 顔を上げる。立花凛。鬼の形相——ではなかった。目が赤い。あれは、泣いたあとの目だ。

 「来なさい」

 「え、ちょ、どこに」

 「いいから!」

 腕を掴まれ、引きずられる。視界に【強制イベント発生?】と表示が瞬き、ナビが真顔で訂正した。《いいえ。娘さんの実力行使です》システムより強制力があるのはどうなんだ!?

 「あの、凛さん? 俺、出禁の身なんですけど」

 「知ってる」

 「あと腕、ちぎれそうなんですけど」

 「ちぎれても歩きなさい」

 問答無用だった。だが不思議と、振りほどこうとは思わなかった。この娘が自分から俺を呼びに来た。それが何を意味するのか、考えるだけで心臓がうるさかった。

 連れて来られたのは、喫茶ミモザだった。木の扉には「本日臨時休業」の札が下がっている。俺の心臓が勝手に縮んだ。ここは今、俺が世界で一番入れない場所だ。あの雨の日、展示会をめちゃくちゃにして追い出された、その扉の前だ。ポケットの中には、最初の日にもらった招待券が、お守りみたいに今も入っている。

 「あんたはここで待ってなさい。一歩でも動いたら消す」

 「消すって物理で!?」

 「……扉、少し開けとくから」

 「え?」

 「聞いてなさい、ってこと。二度は言わない」

 凛は俺を睨んで——いや、あれは睨んでいるんじゃなかった。祈るような目だった。ドアベルが小さく鳴って、彼女は店の中へ入っていった。

 「あらあら、凛? 大学はどうしたんですか」

 「お母さん。これ、なんで書かないの」

 紙を置く音がした。あの応募用紙だ。俺は半開きの扉の外で、息を止めた。

 「ゆうべ、見たんだよ。夜中の三時。お母さん、カウンターでペン持ったまま、ずっと固まってた。名前のところ、一文字も書けてなかった」

 「……見られちゃいましたねえ」

 「その顔、やめてよ!」

 凛の声が、店の空気を割った。

 「そうやって笑って、なんでもないふりして、全部ひとりで飲み込んで! お父さんが死んでからずっとそうじゃん! 私、知ってるんだから。お母さんが絵本の道具を全部、押し入れの一番奥に隠したこと。夜中にひとりで、お父さんの写真に『ごめんなさい』って言ってたこと……!」

 「凛……」

 「小さい頃ね、聞いちゃったの」

 凛の声が、ふっと低くなった。

 「お葬式のあと。親戚の人がお母さんに言ってた。『子どもがいなかったら、あなたはまだやり直せたのにね』って。……私、あの日からずっと考えてた。私がいるから、お母さんは絵本をやめたんじゃないかって。私がいるから、この店に閉じこもったんじゃないかって」

 「そんなこと——」

 「わかってる! お母さんはそんなふうに思ってないって、わかってる! でも……!」

 声が、決壊した。

 「私だって……私だって、ずっと怖かったんだよ……!」

 その声は、震えながら小さくなっていった。

 「お母さんが夢を選んだら。誰かを好きになったら。お母さんの物語に、私の居場所がなくなる気がして。置いていかれる気が、して……だから、近づいてくる人を全部追い払った。試験とか言って、あいつのことも突き放した。……本当は、わかってたのに。あいつが本気だって、とっくにわかってたのに!」

 娘だって、ずっと怖かったんだ。

 【娘の警戒度100】——あの絶望的な数字の裏側に、こんな小さな震えが隠れていたなんて、俺は今の今まで知らなかった。攻略だ警戒度だと数字ばかり見て、その中身をひとつも見ていなかった。

 「……凛」

 椅子を引く音。歩み寄る音。

 「ごめんなさい」

 凛花さんの声は、いつものおっとりを残したまま、どこまでもまっすぐだった。

 「お母さんね、ずるかったんです。『凛のため』って言えば、怖いもの全部から目をそらせたから。絵本も、恋も、自分の人生も……『娘のために諦めた』ことにしてしまえば、挑んで傷つかずに済んだから。あの絵本の表紙に『私の物語は、ここでおしまい』って書いたのは、誰のせいでもありません。お母さんが、自分の手で、自分の物語を閉じたんです」

 「お母さん……」

 「それにね、凛。お父さんが最後に言ったこと、教えてあげます。『りんかの絵本、いつか凛に読んでやってくれ』——悟さんはそう言ったんですよ。お母さんはその約束から、十年も逃げてました。あなたのせいじゃない。ぜんぶ、お母さんの弱さです」

 「……なにそれ。初めて聞いた……」

 「言えなかったんですよ。言ったら、描かなきゃいけなくなっちゃうから」

 凛花さんが、小さく笑った。泣きながら笑う気配だった。

 「凛。あなたがお母さんの物語の邪魔だったことなんて、一秒だってありませんよ。あなたはずっと……ええ、ずっと、一番きれいなページでした」

 布の擦れる音がした。抱きしめたのだと、音だけでわかった。

 「ごめんね、凛。ごめんなさい。ひとりで怖がらせて……お母さん、あなたに謝る勇気すらなくて、ずっと笑ってごまかしてました」

 「っ、ばか……遅いよ……! 十年も、遅い……!」

 二人の泣き声が、重なった。

 【娘の警戒度:0】

 【母娘の絆イベント・達成✨】

 《……佐伯様。このイベントは、データにありません》

 ナビの声も、どこか湿っていた。機械のくせに。

 《訂正します。データにないのではなく……このゲームの開発者は、母と娘が本当に向き合う場面を、最初から用意していなかったのです。今、お二人は、筋書きのない場所を歩いています》

 筋書きのない場所。それはきっと、俺がずっと目指してきた場所だ。かく言う俺は俺で、扉の前で洟をすすりまくっていた。攻略とか、好感度とか、フラグとか、そんな言葉が全部どうでもよくなるくらい——ただ、よかった。この母娘が、やっと同じページに戻れて、本当によかった。

 どれくらい経っただろう。

 「ねえ、凛」

 凛花さんの声が、少しだけ迷ってから、続いた。

 「私が……誰かを、好きになっても、いい?」

 心臓が跳ねた。

 短い沈黙。鼻をすする音。それから、笑いまじりの声がした。

 「……その前にさ、お母さん」

 足音がこちらへ来る。扉が、勢いよく開いた。

 支えを失った俺は、そのまま店内へ盛大に転がり込んだ。床と熱烈なキスをした。【好感度変動なし】。だろうな!

 「やっぱり張り付いてた」

 「い、いや、これは違うんだ、扉が俺を吸い込んで」

 「あのね、お母さん」

 凛は言い訳中の俺を指差した。目は真っ赤で、でも、口元は確かに笑っていた。

 「あいつ、バカだけど本気だよ」

 「あらあら」

 凛花さんが、泣き腫らした目のまま、ふわりと笑った。あの日、飛ばされた傘を渡したときと同じ笑顔で。その頭上で、ずっと名前のなかった好感度ゲージが、これまで見たどの光よりも強く、あたたかく光った✨

 気の利いた言葉なんて、ひとつも出てこなかった。俺はただ床に転がったまま、この母娘の一番きれいな瞬間を見上げていた。ドアベルの余韻が、祝福の鐘みたいに鳴っている♡

 ——その音が、ぶつりと途切れた。

 《警告! 警告! 規定外イベントの連続成立を検知。……強制介入プログラム、起動します》——笑い合う母娘の向こうで、世界そのものが、砂嵐のようなノイズに飲み込まれ始めた!?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。