第15話 娘だって、ずっと怖かった
喫茶ミモザに出入り禁止になってから、何日目かの昼だった。
俺は大学の中庭のベンチで、購買の焼きそばパンを三十分かけて食べていた。味がしない。前世と今世を合わせても、こんなに味のしない焼きそばパンは初めてだ。
《佐伯様。ご報告します。本日の好感度変動……プラスマイナスゼロです》
「知ってる」
《ですが、あの+1は本日も維持されています。繰り返します、維持されています》
「……ありがとな、ナビ」
視界の隅で、ゲージがほんの一ミリだけ灯っている。凛花さんが自分の手で応募用紙を持ち帰ってくれた、あの【本人の選択・好感度+1!】だ。俺はあれから何度もその数字を見返しては、泣きそうになっている。プラス1で泣く攻略者がどこにいる。ここにいる。
「ゆーくん、それはない。焼きそばパン相手に三十分は、さすがにない」
いつの間にか隣に座っていた美月が、呆れ顔で麦茶を差し出してきた。反対側からは小春がひょこっと顔を出す。
「先輩! 元気出してください! こういう時こそゲームですよ、ほら、積みゲーを崩すと心が無になれて…!」
「小春、それ元気出てなくない?」
「二人とも……ありがとな」
俺が礼を言うと、美月はふんと鼻を鳴らして立ち上がった。
「別に。抜け殻のゆーくんが邪魔で通れなかっただけ。……ちゃんとご飯は食べなさいよね」
なんだかんだで、こいつらはいつも俺を放っておかない。二人が去った中庭で、俺はぬるくなった麦茶を握りしめた。
「いた」
声と同時に、影が俺の顔に落ちた。
顔を上げる。立花凛。鬼の形相——ではなかった。目が赤い。あれは、泣いたあとの目だ。
「来なさい」
「え、ちょ、どこに」
「いいから!」
腕を掴まれ、引きずられる。視界に【強制イベント発生?】と表示が瞬き、ナビが真顔で訂正した。《いいえ。娘さんの実力行使です》システムより強制力があるのはどうなんだ!?
「あの、凛さん? 俺、出禁の身なんですけど」
「知ってる」
「あと腕、ちぎれそうなんですけど」
「ちぎれても歩きなさい」
問答無用だった。だが不思議と、振りほどこうとは思わなかった。この娘が自分から俺を呼びに来た。それが何を意味するのか、考えるだけで心臓がうるさかった。
連れて来られたのは、喫茶ミモザだった。木の扉には「本日臨時休業」の札が下がっている。俺の心臓が勝手に縮んだ。ここは今、俺が世界で一番入れない場所だ。あの雨の日、展示会をめちゃくちゃにして追い出された、その扉の前だ。ポケットの中には、最初の日にもらった招待券が、お守りみたいに今も入っている。
「あんたはここで待ってなさい。一歩でも動いたら消す」
「消すって物理で!?」
「……扉、少し開けとくから」
「え?」
「聞いてなさい、ってこと。二度は言わない」
凛は俺を睨んで——いや、あれは睨んでいるんじゃなかった。祈るような目だった。ドアベルが小さく鳴って、彼女は店の中へ入っていった。
「あらあら、凛? 大学はどうしたんですか」
「お母さん。これ、なんで書かないの」
紙を置く音がした。あの応募用紙だ。俺は半開きの扉の外で、息を止めた。
「ゆうべ、見たんだよ。夜中の三時。お母さん、カウンターでペン持ったまま、ずっと固まってた。名前のところ、一文字も書けてなかった」
「……見られちゃいましたねえ」
「その顔、やめてよ!」
凛の声が、店の空気を割った。
「そうやって笑って、なんでもないふりして、全部ひとりで飲み込んで! お父さんが死んでからずっとそうじゃん! 私、知ってるんだから。お母さんが絵本の道具を全部、押し入れの一番奥に隠したこと。夜中にひとりで、お父さんの写真に『ごめんなさい』って言ってたこと……!」
「凛……」
「小さい頃ね、聞いちゃったの」
凛の声が、ふっと低くなった。
「お葬式のあと。親戚の人がお母さんに言ってた。『子どもがいなかったら、あなたはまだやり直せたのにね』って。……私、あの日からずっと考えてた。私がいるから、お母さんは絵本をやめたんじゃないかって。私がいるから、この店に閉じこもったんじゃないかって」
「そんなこと——」
「わかってる! お母さんはそんなふうに思ってないって、わかってる! でも……!」
声が、決壊した。
「私だって……私だって、ずっと怖かったんだよ……!」
その声は、震えながら小さくなっていった。
「お母さんが夢を選んだら。誰かを好きになったら。お母さんの物語に、私の居場所がなくなる気がして。置いていかれる気が、して……だから、近づいてくる人を全部追い払った。試験とか言って、あいつのことも突き放した。……本当は、わかってたのに。あいつが本気だって、とっくにわかってたのに!」
娘だって、ずっと怖かったんだ。
【娘の警戒度100】——あの絶望的な数字の裏側に、こんな小さな震えが隠れていたなんて、俺は今の今まで知らなかった。攻略だ警戒度だと数字ばかり見て、その中身をひとつも見ていなかった。
「……凛」
椅子を引く音。歩み寄る音。
「ごめんなさい」
凛花さんの声は、いつものおっとりを残したまま、どこまでもまっすぐだった。
「お母さんね、ずるかったんです。『凛のため』って言えば、怖いもの全部から目をそらせたから。絵本も、恋も、自分の人生も……『娘のために諦めた』ことにしてしまえば、挑んで傷つかずに済んだから。あの絵本の表紙に『私の物語は、ここでおしまい』って書いたのは、誰のせいでもありません。お母さんが、自分の手で、自分の物語を閉じたんです」
「お母さん……」
「それにね、凛。お父さんが最後に言ったこと、教えてあげます。『りんかの絵本、いつか凛に読んでやってくれ』——悟さんはそう言ったんですよ。お母さんはその約束から、十年も逃げてました。あなたのせいじゃない。ぜんぶ、お母さんの弱さです」
「……なにそれ。初めて聞いた……」
「言えなかったんですよ。言ったら、描かなきゃいけなくなっちゃうから」
凛花さんが、小さく笑った。泣きながら笑う気配だった。
「凛。あなたがお母さんの物語の邪魔だったことなんて、一秒だってありませんよ。あなたはずっと……ええ、ずっと、一番きれいなページでした」
布の擦れる音がした。抱きしめたのだと、音だけでわかった。
「ごめんね、凛。ごめんなさい。ひとりで怖がらせて……お母さん、あなたに謝る勇気すらなくて、ずっと笑ってごまかしてました」
「っ、ばか……遅いよ……! 十年も、遅い……!」
二人の泣き声が、重なった。
【娘の警戒度:0】
【母娘の絆イベント・達成✨】
《……佐伯様。このイベントは、データにありません》
ナビの声も、どこか湿っていた。機械のくせに。
《訂正します。データにないのではなく……このゲームの開発者は、母と娘が本当に向き合う場面を、最初から用意していなかったのです。今、お二人は、筋書きのない場所を歩いています》
筋書きのない場所。それはきっと、俺がずっと目指してきた場所だ。かく言う俺は俺で、扉の前で洟をすすりまくっていた。攻略とか、好感度とか、フラグとか、そんな言葉が全部どうでもよくなるくらい——ただ、よかった。この母娘が、やっと同じページに戻れて、本当によかった。
どれくらい経っただろう。
「ねえ、凛」
凛花さんの声が、少しだけ迷ってから、続いた。
「私が……誰かを、好きになっても、いい?」
心臓が跳ねた。
短い沈黙。鼻をすする音。それから、笑いまじりの声がした。
「……その前にさ、お母さん」
足音がこちらへ来る。扉が、勢いよく開いた。
支えを失った俺は、そのまま店内へ盛大に転がり込んだ。床と熱烈なキスをした。【好感度変動なし】。だろうな!
「やっぱり張り付いてた」
「い、いや、これは違うんだ、扉が俺を吸い込んで」
「あのね、お母さん」
凛は言い訳中の俺を指差した。目は真っ赤で、でも、口元は確かに笑っていた。
「あいつ、バカだけど本気だよ」
「あらあら」
凛花さんが、泣き腫らした目のまま、ふわりと笑った。あの日、飛ばされた傘を渡したときと同じ笑顔で。その頭上で、ずっと名前のなかった好感度ゲージが、これまで見たどの光よりも強く、あたたかく光った✨
気の利いた言葉なんて、ひとつも出てこなかった。俺はただ床に転がったまま、この母娘の一番きれいな瞬間を見上げていた。ドアベルの余韻が、祝福の鐘みたいに鳴っている♡
——その音が、ぶつりと途切れた。
《警告! 警告! 規定外イベントの連続成立を検知。……強制介入プログラム、起動します》——笑い合う母娘の向こうで、世界そのものが、砂嵐のようなノイズに飲み込まれ始めた!?




