第14話 救うって、誰が決めたんだ
雨は一晩中、アパートの窓を叩き続けた。
六畳一間の真ん中で、俺は膝を抱えて座っている。電気もつけていない。視界の隅では、昨日から【母ルート消滅】の赤い文字が点滅したままだ。消し方は知らない。いや——消しちゃいけない気がした。
「私の傷を、勝手に人前へ出したんですね」
凛花さんの声が、耳の奥で何度でも再生される。怒鳴られたわけじゃない。あの人は最後まで静かだった。静かなまま、俺を店から追い出した。それが一番、痛かった。
凛からの連絡は、あれきりない。「やり方を間違えたのよ」。あいつが庇ってくれなかったのは、当然だ。間違えたのは、事実なんだから。
帰り道、雨の中で思い出したのは、始まりの日の傘だった。風に飛ばされた傘を、俺は何も考えずに全力で追いかけた。あの時の俺は、ただ必死なだけの、ただのバカだった。今の俺は——作戦だの攻略だのを抱え込んだ、もっとタチの悪いバカだ。
《……約三十時間、ほぼ飲まず食わずです。糖分と水分の補給を推奨します》
ナビが遠慮がちに言う。いつもの絶叫ツッコミじゃない。こいつなりに、気を使っているらしい。
「なあ、ナビ」
《はい》
「俺、どこで間違えた?」
《データ上の分岐点は、展示会の強行です》
「違う。もっと前だ」
俺は暗闇の中で、自分の手のひらを見下ろした。
厨房の奥で『ミモザのまほう』を見つけた日。表紙の隅の、「私の物語は、ここでおしまい」という小さな手書き文字。あれを見た瞬間、俺は思った。この人を救わなきゃ、って。
思って、それから——一度でも、本人に聞いたか?
あなたは、どうしたいですか、って。
聞いてない。一度も、だ。
「……救うって、誰が決めたんだ」
口に出した瞬間、喉の奥が焼けるように熱くなった。
孤独エンドの回避。未来改変。攻略の進行。俺の頭の中にあったのは、全部「俺の作戦」だった。凛花さんの意思より、未来を変えるという攻略を優先していた。あの人のことが好きだと言いながら、いつの間にか、あの人を「クリアすべきイベント」にしていた。
それって——選択肢を押しつけてくるシステムと、何が違うんだ?
《……その問いは、データにありません》
「だよな。俺にも、昨日まではなかったよ」
視界の端で、ぼろぼろになった選択肢ウィンドウが力なく明滅している。【謝罪に行く】【時間を置く】【諦める】。ご丁寧に三択だ。……悪いな、システム。俺はもう、お前の選択肢からは選ばない。俺の答えは、この中にはない。
《選択肢外行動を検知。……ですが、今回は警告しません》
「どうした。心変わりか?」
《わたしは第十二イベント以降、あなたの協力者ですので。それに——正規ルートの外にしか正解がない場合も、あると学習しましたので》
スマホが震えた。美月からの通話。出た瞬間、二つの声が同時に飛び込んでくる。
『ゆーくん、生きてる!?』
『先輩! 展示会は私たちも乗り気でした! つまり共犯です! 全員土下座のフォーメーションを今から研究して——』
「美月、小春。……ごめん。巻き込んだのは俺だ」
『はい出た』美月が、電話越しに息を吐いた。『全部ひとりで背負うの、ゆーくんの悪い癖。……それで? どうするの?』
「謝りに行く。でも、許してもらうためじゃない」
『……うん。それなら、いいと思う』
通話の最後、小春が早口で叫んだ。
『先輩! 大失敗イベントの直後こそ真ルートの分岐点です! ソースは私のプレイ時間千時間!』
……後輩の千時間に、ほんの少しだけ救われた。
切った直後、黒田さんからも短いメッセージが届いた。
『若いというのは、失敗できるということだよ。彼女には私からも謝罪した。君は君の答えを』
……この人に勝てる気が全然しない。でも今は、その大人の背中が素直にありがたかった。
夜が明ける前に、俺はコンビニで便箋を買った。
そして、書いては破った。
一枚目。「あれは凛花さんのためを思って」——言い訳だ。破る。
二枚目。冒頭から最後まで謝罪の敬語が暴走して、ほぼ土下座の文字起こしになっていた。重い。破る。
四枚目。「必ず埋め合わせをします」——まだ攻略しようとしてる。破る。
九枚目。「俺はあなたの笑顔がどれだけ」——お前の気持ちは今は関係ないだろ!? 破る。
十六枚目。気づけば便箋の隅に好感度ゲージの落書きをしていた。論外。破る。
《便箋の残量、あと三枚です!?》
「足りるよ。……やっと、わかったから」
最後の便箋に、俺は短く書いた。
勝手にあなたの物語へ踏み込んで、傷つけてごめんなさい。展示会は、全部俺の独りよがりでした。ただ、これだけは本当です。あなたの絵本は——あなたが「おしまい」と書いたあの物語は、俺が今まで読んだどの物語より、あたたかかった。
同封の紙は、あおぞら絵本新人賞の応募用紙です。白紙のままです。書くのも、書かないのも、捨てるのも、全部凛花さんが決めてください。俺はもう、選択肢を押しつけません。
——ほんとうは、ドアベルを鳴らして直接言いたかった。
最後の一行は、書いてから線を引いて消した。それも含めて俺だと思ったから、破らずにそのまま封をした。
雨上がりの道を、封筒を胸に歩いた。
水たまりに朝焼けが映って、街はまだ眠っている。喫茶ミモザの木の扉の前に立つと、あの日のドアベルの音を思い出した。招待券を受け取った日。【常連さん認定です♡】と笑ってもらえた日。カウンターの向こうの「あらあら」と、コーヒーの湯気と。
……あの頃の俺は、ただ嬉しかっただけなのにな。
財布の中には、今もあの招待券の半券が入っている。捨てられなかったんじゃない。最初から捨てる気がなかったんだ。俺の宝物は、ずっと、攻略データなんかじゃなかった。
俺は郵便受けに、そっと封筒を入れた。
ドアベルは、鳴らさない。窓も覗かない。物陰で待ち伏せもしない。押しつけないと決めたんだ。祈るのだけは、許してほしいけど。
一度だけ扉に深く頭を下げて、俺は店に背を向けた。
あの日は、飛ばされた傘を全力で追いかけた。今日は、何も追いかけない。それが正しいのかは、まだわからないままだけど。
翌朝。大学の大教室で、俺は生まれて初めて、講義のノートを一文字も取れずにいた。
《報告があります》
ナビの声が、静かに落ちてきた。
《対象者・立花凛花が、郵便受けの封筒を回収しました》
「……そうか」
《手紙を、読み終えました。所要時間、十一分。……長いです。三回、読み返しています》
「そうか」
《応募用紙を——ゴミ箱の上で、三十秒、静止》
「……っ」
《回収を中止。応募用紙は、エプロンのポケットへ。……持ち帰りました》
《補足します。その間、対象者は一度だけ空を見上げました。本日は晴天。傘の要らない、いい天気です》
その瞬間だった。
消えたはずの好感度ゲージが、視界の隅にふっと浮かんだ。ノイズまじりで、今にも消えそうで、それでも確かに——静かに、光った✨。
【本人の選択・好感度+1!】
「……プラス、いち」
思わず声が出て、前の席の学生が振り返った。知るか。
プラス1。たったの1だ。展示会の前なら、皿洗い一つで+10が出た日もあったのに。
《はい、+1です》
ナビが言った。機械的敬語のはずのその声が、少しだけ震えて聞こえたのは、気のせいだろうか。
《ですが——これまでの、どの+10よりも、重い数値です》
「……ああ」
わかってる。今までの+10は、俺が「稼いだ」数字だ。皿洗いで、配膳で、必死のフォローで。でもこの+1は違う。俺が何もしていない場所で、凛花さんがひとりで、自分の過去と向き合って動かした数字だ。
俺は両手で顔を覆った。泣いてない。泣いてないけど、これは、あれだ。朝日が目に染みただけだ。
救うんじゃない。凛花さんが、自分で選んだ。白紙の紙を、自分の手で持ち帰った。「おしまい」の続きを書くかどうかは、まだわからない。それでも、ゴミ箱の前で三十秒迷って、それでもポケットに入れてくれた。
その三十秒の重さだけで、俺は今日を生きていける。
「ナビ。俺、待つよ。何日でも」
《はい。……ちなみに、涙腺のパラメータが振り切れています》
「朝日だっつってんだろ!!」
久しぶりに、ちゃんと声が出た気がした。
窓の外は、憎らしいくらいの快晴だった。急がない。焦らない。もう攻略はしない。俺はただ、あの木の扉のドアベルがもう一度俺のために鳴る日を、まっすぐ待つと決めた。
——だがこの時の俺は、まだ知らなかった。同じ朝、母のエプロンから覗く白い紙と、その目元の赤さに気づいた凛が、何かを確かめる顔でカメラを掴み、家を飛び出したことを。




