第13話 サプライズ展示会、大失敗!?
《急いでください。母の記録が消される前に》
ナビのその言葉が、昨日から頭の中で警報みたいに鳴り続けていた。視界の端では【閲覧禁止イベント・削除進行中】の赤い文字が、心臓の鼓動と同じリズムで点滅している。凛花さんの過去が、夢が、あの手描きの絵本が、システムに消されようとしている。
なら、消される前に世界に出してしまえばいい。
俺は単純にそう考えた。凛から聞いたばかりの話が、まだ胸の奥で熱かったせいもある。絵本作家を目指していた凛花さん。悟さんを亡くして、夢ごと自分を封印した凛花さん。表紙の隅の「私の物語は、ここでおしまい」という細い手書き文字。あんな終わり方があってたまるか。
今にして思えば、この時点で誰かが全力で俺を殴って止めるべきだったんだ。
その夜、俺は下宿の机に模造紙を広げ、作戦を練りに練った。題して【作戦名:オペレーション・ミモザ開花!】。視界にでかでかと表示されたそれを眺め、俺は一人で頷いた。原画を飾る。人を呼ぶ。凛花さんが帰ってきたら、みんなで拍手♡ 感動。涙。夢の再起動。完璧だ。どこからどう見ても完璧だ。
完璧すぎて、「凛花さんはそれを望んでいるのか?」という一行だけが、作戦図のどこにも書かれていなかった。
「——というわけで! 『ミモザのまほう』サプライズ展示会を、喫茶ミモザで開催します!」
放課後の空き教室。集まってくれた面々の前で、俺は模造紙に書いた作戦図を広げ、堂々と宣言した。
「却下」
開幕零秒で美月の手が挙がった。
「ゆーくん、それはない。凛花さん本人に聞いてないんでしょ?」
「サプライズだからな! 聞いたらサプライズにならないだろ!」
「先輩! それってつまり、本人の同意なしの隠しイベント強制発生というやつですね!? ゲーム的には大好物です! 現実的には胃がキリキリします!」
小春はゲーム機を抱えたまま、敬語のまま、早口で的確なことを言う。的確すぎて聞かなかったことにした。
「大丈夫だ。俺に策がある」
「策があるって言った時のゆーくんは、だいたい策がないのよね」
美月のツッコミはもっともだったが、俺には時間がなかった。視界の隅の削除進行率は、こうしている今も少しずつ上がっている。喜ぶ顔が見たい、なんて綺麗な言葉の下で、俺は焦っていた。焦って、走って、いちばん大事な手順を飛ばした。
……そう。俺はこの時、確かに本気だった。本気のまま、決定的に間違えていた。
準備は三日で整えた。
黒田さんは、相談を聞き終えると腕を組み、長いこと黙った。
「若いというのは、それだけで武器だよ。ただ——武器は、振る場所を間違えると人を傷つける」
「傷つけません! 幸せにするための展示会ですから!」
「……その自信が眩しいな。知り合いに額装の職人がいる。紹介しよう」
大人は止めなかった。止めない代わりに、静かに釘を刺していたのだと俺が理解するのは、ずっと後のことだ。
凛は、店の合鍵を握ったまま最後まで渋った。
「……お母さん、あの絵本のこと、私にも隠してたのよ。十八年いっしょに暮らした娘にもよ? それを勝手に壁に飾るって、あんた」
「凛花さんの絵は、誰かに見られるために生まれたはずだ。俺はそう信じてる」
「…………はあ。知らないからね、どうなっても」
鍵は渡された。受け取る俺の手を、凛はもう一秒だけ離さなかった。何か言いかけて、結局言わなかったあの一秒を、俺は後になって何度も思い出すことになる。
それからの三日間は、文化祭前夜みたいだった。美月は「協力はする。心配だから見張るだけ」と言い張りながら、ミモザケーキの試作を五回もやり直した。
「三回目のが一番おいしかったぞ?」
「うるさい。凛花さんに出すんだから、一番どころか特上じゃなきゃだめなの」
小春は徹夜でドット絵の看板を作ってきた。画面の中で黄色い花がぱちぱちと咲く力作で、「先輩、これは泣きます! 全米どころか全ミモザが泣きます!」と本人が一番泣いていた。
視界に【作戦準備率:100パーセント!】が躍り、ナビまでもが小声で囁いた。
《……照明は左から。原画が最も美しく見える角度です》
「お前、ほんとに協力的になったな!?」
《……私も、あの記録が消えるのは惜しいと判断しました。それだけです》
ツンデレか。システムのくせに。
火曜の午後、凛花さんは市場へ仕入れに出る。その隙に俺たちは喫茶ミモザへ滑り込み、店内を作り替えた。壁には額装された『ミモザのまほう』の原画がずらり。カウンターには美月特製のミモザケーキが並び✨、小春の組んだ照明が黄色い花の絵をやわらかく照らす。招待した常連さんたちが席を埋め、黒田さんは花束を抱えて入り口近くに立った。
いつもの喫茶ミモザが、小さな美術館に生まれ変わっていた。ページの中では、黄色い花の魔法使いが泣いている女の子の頭に花を咲かせ、雨の街をまるごと晴れに変えていた。十八年前の凛花さんが、確かにここにいた。
「せんぱい、完璧です! 実績解除のファンファーレが聞こえます!」
「ああ。あとは主役を待つだけだ」
常連のおばあちゃんが「凛花ちゃん、こんな絵を描く人だったのねえ」と目を細める。ほらみろ。やっぱりこの絵は、見られるために生まれたんだ。俺の胸は誇らしさでいっぱいだった。——誇らしさ。俺の、だ。この期に及んで俺は、主語を間違え続けていた。
カラン、とドアベルが鳴った。
買い物袋を抱えた凛花さんが、木の扉の前に立っていた。
「サプライズ!! 凛花さんの絵本、展示会——」
拍手が起きた。クラッカーが鳴った。俺は人生最高の笑顔を作った。
凛花さんは、笑わなかった。
買い物袋が、ゆっくりと床に下ろされる。凛花さんの視線が壁の絵を一枚、一枚、たどっていく。おっとりした「あらあら」は、いつまで待っても聞こえてこない。店内の拍手が、まばらに、途切れて、消えた。
「……皆さん、ごめんなさい。今日は閉店します」
完璧な微笑みだった。完璧すぎて、温度がなかった。常連さんたちが顔を見合わせて席を立つ。黒田さんが何も言わずに深く一礼し、花束を抱えたまま皆を外へ促してくれた。美月が俺の袖を引いた。小春がゲーム機を胸に抱きしめた。誰も、何も言えなかった。
最後の客が出て、ドアベルの音が雨上がりみたいに消えると、凛花さんは静かに俺へ向き直った。
「悠くん。お店には来ないでください、と言いましたよね」
「それは……でも、俺は、凛花さんの夢が消される前にって——」
消される、の意味なんて伝わるはずもない。言葉は言い訳のかたちのまま、床に落ちた。
「私の傷を、勝手に人前へ出したんですね」
声は少しも荒らげられていなかった。それが一番、痛かった。怒鳴られた方が、皿の一枚でも投げられた方が、どれだけ楽だったか。凛花さんは大人だった。大人のまま、静かに、深く、傷ついていた。
「この絵は、私が自分で終わらせた物語です。飾るのか、隠すのか、燃やすのか——決めていいのは私だけ。あなたじゃ、ありません」
凛花さんは壁から一枚、絵を外した。黄色いミモザの花の下で、母親と小さな女の子が笑っている絵を、胸に抱くようにして。
「帰ってください」
視界いっぱいに、音もなく表示が広がった。
【母ルート消滅】
好感度ゲージは数字ごと砕けて、灰色の残骸だけがそこに残った。ナビは、何も言わなかった。絶叫ツッコミも、警告音も、機械的な敬語すらも。あんなにうるさかった相棒が初めて完全に沈黙して、その静けさが、俺への判決みたいだった。
外は、雨が降り始めていた。
軒下で、美月と小春が待っていた。美月は何度も口を開きかけて、結局「……ゆーくん」とだけ言った。いつもの「それはない」は出てこなかった。ツッコミは、ボケが立ち上がれるうちにしか飛んでこないのだと、俺は初めて知った。小春は看板のドット絵を消しもできず、ゲーム機を抱えたまま頭を下げた。二人のせいじゃない。全部、俺が走らせたことだ。先に帰ってくれ、と言うのが精一杯だった。
傘もささずに突っ立っていた俺の背中に、追いかけてきた凛の声がぶつかった。
「……庇えないからね、今回は」
振り向くと、凛は泣きそうな顔で、それでも真っ直ぐに俺を睨んでいた。
「あんたの本気は、知ってる。お母さんに必要なのが、あんたみたいなバカだってことも、たぶん本当。でも——やり方を、間違えたのよ」
言い返す言葉は、ひとつもなかった。合鍵を渡した自分ごと責めるように凛は唇を噛み、店へ戻っていく。木の扉が閉まる音が、雨音の中でやけに大きく響いた。
——傘も差さずに歩く雨の帰り道、俺はずっと、あの日たった一本の傘を追いかけただけで世界中が輝いて見えた、あの春の自分のことを思い出していた。




