第12話 お母さんにも、夢があったんだ
喫茶ミモザを出禁になった男、佐伯悠。二十歳。無職ならぬ無ルート。
大学の中庭のベンチで、俺は三時間ほど魂を口から半分出していた。視界の隅では凛花さんの好感度ゲージが灰色にくすんで、【母ルート進行不能!】の赤文字が墓標みたいに突き立っている。
『もう、お店に来ないでくださいね』
あの日の凛花さんの声が、脳内で無限リピート再生されていた。怒鳴られたわけでも、罵られたわけでもない。あの人は最後まで、湯気の立つココアみたいにあたたかい声で、俺を突き放した。優しい拒絶というのは、殴られるより効く。骨には響かないのに、心にだけ響く。ずるい。大人はずるい。
しかも追い打ちをかけるように、今朝の講義で教授に当てられて「立花です」と名乗った。俺の名字は佐伯だ。教室が凍った。もうだめかもしれない。
ナビですら今日は静かだった。いつもなら《講義に集中してください!?》と絶叫してくるくせに、拒絶イベント以降、妙に口数が少ない。相棒が黙ると、それはそれで寂しいのだから人間は勝手だ。
「……なにその顔」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、立花凛が立っていた。首から提げたカメラ、ツンと結ばれた口元。本来のメインヒロインにして、最初のボスにして、俺を試験し続けた娘さんである。
「捨てられた子犬のほうが、まだマシな顔してるわよ」
「犬に負けた……」
「そこは否定しなさいよ」
かしゃり、とシャッター音がした。凛が首から提げたカメラを、迷いなく俺に向けていた。
「撮った。世界一情けない男の顔。文化祭の写真展に出したら賞取れるかも」
「タイトルは?」
「『敗北』」
「シンプルに刺すのやめてくれる!?」
初めて会った日、こいつは「証拠写真」と言って俺を撮った。母に近づく危険人物の記録として。あの頃と同じ構図なのに、ファインダー越しの目つきが、少しだけ違う気がした。
凛は舌打ちしそうな顔のまま、なぜか俺の隣に一人分あけて座った。視界に【娘の警戒度72】。高い。高いが、初対面の頃の100からは確実に下がっている。
「勘違いしないで。あんたを慰めに来たんじゃないから」
「じゃあ何しに」
「……あんた、見たんでしょ。あの絵本」
心臓が跳ねた。厨房の奥、古い茶箱の底に隠されていた手描きの絵本——『ミモザのまほう』。その表紙の隅に小さく書かれていた、あの一文。
「私の物語は、ここでおしまい、って」
俺が口にすると、凛は長いあいだ黙った。中庭の銀杏が風で鳴った。やがて彼女は、カメラのストラップを指で何度もなぞりながら、ぽつりと話し始めた。
「お母さんね、昔、絵本作家になりたかったの」
初めて聞く、立花凛花の過去だった。
「小さい頃、毎晩読んでくれたんだ。市販のじゃなくて、お母さんが描いた絵本。ミモザの木に住む魔法使いが、雨の日だけ、泣いてる子のところに黄色い傘を差して会いに来るの。それで魔法を一つだけかけてくれる。涙が止まる魔法じゃなくて、『泣いたあとに笑える魔法』。……『ミモザのまほう』。お父さんが、一番好きだった話」
傘。俺の脳裏に、風に飛ばされた凛花さんの傘を全力疾走で追いかけた、あの日の光景がよぎった。あの人の物語の魔法使いは、傘を差して現れるのか。
「店の名前も、あの絵本から取ったのよ。喫茶ミモザ。……知らなかったでしょ」
「知らなかった」
あの木の扉も、ドアベルの音も、全部あの人の夢の残り火の上に建っていたのだ。
「悟さん、だよな」
「なんで知ってるのよ」
「店のカウンターの写真立て。凛花さんが一度だけ、悟さんの話をしてくれた」
「……ふうん」
凛の声が少しだけ柔らかくなった。【娘の警戒度58!】。数字が減っていくのが、なんだか彼女の心の氷が溶ける音みたいだった。
「お父さんはね、お母さんの一番のファンだったの。『凛花の絵本はいつか世界中の本屋に並ぶ』って、本気で言ってた。出版社への持ち込みにも付き合って、落選するたび二人で焼肉食べて笑ってた……らしいわ。私は小さくて、よく覚えてないけど」
「……いいご夫婦だ」
「でしょ。……でもね」
凛は膝の上で拳を握った。
「お父さんが病気で死んで、全部止まったの。絵筆も、持ち込みも、夢も、全部。私が小学二年の時。ある夜ね、こっそり起きたら、お母さんが台所で泣きながら、絵本の表紙に何か書き込んでた。……あれ、あの一文だったんだと思う。私、怖くて声かけられなかった。次の日からお母さんは、いつものおっとりした『凛のお母さん』に戻ってた。あらあら、って笑う人に。……夢の話は、それっきり一度もしない」
「凛」
「私ずっと、知らないふりしてた!」
叫ぶように言ってから、凛は自分の声の大きさに驚いた顔をして、うつむいた。
「気づいてたのに。お母さんが自分を後回しにして、私のためだけに生きてるって、ずっと気づいてたのに。知らないふりしてた方が、楽だったから。……最低でしょ」
「最低じゃない」
俺は即答した。凛が顔を上げる。
「八歳の子どもが母親の人生を背負えるわけないだろ。それは凛のせいじゃない。……でも、今の俺たちは子どもじゃない」
立ち上がる。三時間抜けていた魂が、音を立てて背骨に戻ってくるのがわかった。
「決めた。あの絵本を、世に出そう」
「……は?」
「『ミモザのまほう』を、ちゃんと本にして、世界に届ける。俺が攻略したかったのは好感度の数字じゃない。あの人が、あの人自身の人生の主人公に戻ることだ。物語に『おしまい』の先を描いてもらうことだ。それができるなら、俺の恋なんて二の次でいい!」
言いながら気づいた。ゲームの俺は、ずっと勘違いしていた。攻略ってのはゲージを満タンにすることじゃない。相手の止まった時計を、もう一度動かすことだ。
「出禁くらった男のセリフじゃないんだけど!?」
凛のツッコミはもっともだった。もっともだったが、その目は笑っていた。初めて見る、警戒ゼロの顔だった。
「……バカね、あんた。ほんっとうにバカ」
【娘の警戒度41!】【好感度+15!】
「待って何その二個目のゲージ!? やめてくれ俺の心臓に悪い!」
「な、なによ! 何も出てないでしょ!」
「こっちの話です!」
慌てて視界の表示から目をそらした、その時だった。
《……協力、しましょうか》
小さな小さな声が、脳内に響いた。俺は硬直した。
「誰!?」
《あなたの視界に住んで早数ヶ月のナビです!? 忘れないでいただけます!?》
いつもの絶叫ツッコミ。だがすぐに、声はまた小さくなった。
《……あの絵本のイベントは、私のデータベースに存在しません。存在しないのに、あなたの行動であの方のゲージは動いた。……私は攻略システムです。正規ルートへ誘導するのが役目です。ですが、データにない物語の続きを、少しだけ……見てみたく、なりました》
「ナビ、お前……」
《か、勘違いしないでください! あなたのためではありません! 私はただ、未登録イベントの検証データが欲しいだけで!》
「ツンデレはヒロインの専売特許じゃないのかよ!」
《ツンデレではありません! システム的中立です!》
俺は思わず噴き出した。数ヶ月間、選択肢を押しつけ、強制イベントで妨害し、絶叫ツッコミを浴びせてきた敵が、今、俺の隣に並んだ。凛が「今度は誰と喋ってるのよ」と若干引いた目でこちらを見ていたが、それすらどうでもよくなるくらい、視界が急に明るくなった気がした。
攻略対象外を追いかける主人公と、規定外に手を貸すシステム。上等だ。ポンコツ同士、笑いながら世界の筋書きをひっくり返してやる。
——そう、思った瞬間だった。
視界全体が、砂嵐みたいなノイズで軋んだ。
中庭の景色が一瞬、古いテレビみたいに横に裂ける。銀杏の葉が空中で静止した。隣の凛には何も見えていないらしく、「ちょっと、急に黙らないでよ」と眉を寄せている。俺にだけ見える世界の裏側で、何かがこちらを向いた。
【閲覧禁止イベント・削除開始】
血のような赤い文字が、空一面に点灯した。凛花さんの灰色のゲージが、端からぼろぼろと崩れていく。ナビの声が、初めて聞く温度で震えた。
《警告……これは私の上位系統、システム本体の権限です。彼らは規定外の物語を、記録ごと消去します》
「消去って、何をだよ」
《絵本を。あの方の夢の、痕跡のすべてを》
ノイズの向こうで、ナビが叫んだ。
《急いでください、悠さん。——お母様の記録が、消される前に!》




