第11話 大人の拒絶は、優しすぎて痛い
喫茶ミモザの前で、俺は三十分も往復していた。
《悠様。先ほどから同じ十メートルを十七往復しています。不審者通報まで推定あと三往復です》
「うるさい! 心の準備ってものがあるだろ!」
《昨日は強制イベントを気合いで粉砕した御方が、扉一枚に敗北中とは》
「イベント破壊と告白のやり直しじゃ難易度が違うんだよ!」
昨日、俺は凛との強制告白イベントを粉砕した勢いのまま「凛花さんが好きだ」と叫び、当の凛花さんに「ふふ、冗談がお上手ですね」と流された。あの笑顔が今までで一番遠かった。だから今日、閉店を待って店に来た。冗談じゃないと言うために。
意を決して押した木の扉が、カラン、とドアベルを鳴らす。
「あらあら、悠くん。もう閉店ですよ?」
「わかってます。……話が、あるんです」
閉店後の店内。カウンターの向こうで、凛花さんはいつも通りの笑顔でカップを拭いている。いつも通りすぎて、逆に怖い。視界の隅では【好感度ゲージ】が表示されているのに、数値の部分だけが霧がかかったように読めなくなっていた。
「凛花さん。昨日の話ですけど」
「はい、なんでしょう?」
「冗談じゃないです。俺は本気で——」
「悠くん」
名前を呼ばれただけで、続きが喉の奥で止まった。
凛花さんはカップを置き、エプロンの上で両手を重ねて、まっすぐ俺を見た。おっとりした目のまま、少しも笑っていなかった。
【警告! 未知の会話イベントが発生しています!】
《おかしいですね。このシーンの台本が、データベースに存在しません》
ナビの声がかすかに揺れる。システムにすら筋書きがない。つまりこれは、正真正銘、大人の女性・立花凛花の生の言葉ということだ。
「昨日のあれが冗談じゃないってことは、わかってましたよ」
「……え」
「あらあら、驚きすぎです。私、これでも三十八年生きてますからねえ。二十歳の男の子が、あんな必死の顔で冗談を言えないことくらい、わかります」
わかってた。わかった上で、冗談として受け取ってくれたのだ。
それが何を意味するか、鈍い俺にもさすがにわかる。
「悠くん。あなたは私より十八も年下です」
「年齢なんて——」
「関係あるんですよ」
声は柔らかいのに、一歩も引かない響きだった。
「あなたが四十歳になる頃、私は五十八です。あなたのご両親は、息子が二十歳で選んだ相手が、子持ちの三十八歳だと知ったら、どう思うでしょうねえ」
「そ、それは……説得します! 誠意で! なんなら土下座の練習もしてます!」
「あらあら。練習してるんですか、土下座」
「毎晩五回! 額の角度まで研究済みです!」
「ふふっ……もう、そういうところですよ」
凛花さんは口元を押さえて笑い、それからすっと笑いを引っ込めた。ダメだ。笑わせることには成功したのに、話は一ミリも動いていない。むしろ「そういうところ」で子供扱いが確定した音がした。
【交渉判定:失敗! 相手は大人でした】
わかってるよ、そんなこと!
「それから、凛のこと」
凛花さんは窓の外へ目をやった。ガラスに、夜の商店街の灯りがにじんでいる。
「あの子はお父さんを早くに亡くして、ずっと私と二人でした。私に誰かができるだけでも、あの子の世界は揺れます。それが、自分と同い年くらいの大学生だったら——凛の居場所は、どこにいけばいいんでしょう」
【娘への影響度:測定不能】
視界の隅に出た表示が、いつもみたいに笑えなかった。
「最後に、悠くんの将来です。あなたはまだ二年生。これから何にでもなれる人です。その一番大事な時間を、私みたいなおばさんのために使っちゃいけません」
「使いたいんです、俺が!」
「ええ。だから、私が止めるんです」
即答だった。一瞬の迷いもなかった。
「大人はずるいんですよ、悠くん。若い人の『使いたい』が、どれだけ眩しくて、どれだけ長い時間の話なのか、知ってますから」
俺は言葉に詰まった。この人は、俺の告白を軽んじてるんじゃない。重すぎるくらい正面から受け取った上で、全部自分の側で背負って、断ろうとしている。誰も悪者にしないで。自分の気持ちの話だけ、綺麗に抜いて。
「……凛花さんは、どうなんですか」
「え?」
「年齢とか、凛のこととか、俺の将来とか。全部、俺と周りの話です。凛花さん自身の気持ちは、今、ひとつも出てきてません」
初めて、凛花さんの手が止まった。
拭き終わったはずのカップを、もう一度布巾でなぞる。数秒の沈黙。それから彼女は、静かに息を吐いた。
「……私の気持ちは、ないんです」
「え?」
「ないことにしてるんです。ずっと前から。その方が、上手に生きられるので」
凛花さんは、ふわりと笑った。
いつもの「あらあら」の笑顔。常連さん認定をくれた笑顔。皿洗いを褒めてくれた笑顔。その同じ笑顔のまま、彼女は言った。
「悠くん。もう、お店に来ないでくださいね」
殴られた方がマシだった。
怒鳴られたなら、食い下がれた。嫌われたなら、挽回のしようがあった。でもこれは違う。凛花さんは俺のために、俺の未来のために、完璧に優しく、扉を閉めたのだ。
【好感度ゲージ:表示エラー】
《ゲージが……読み取れません。拒絶なのに、好感度の低下が観測できません!?》
だよな。俺にもわかるよ、ナビ。この人は俺が嫌いで拒絶してるんじゃない。むしろ逆だから、こんなに痛いんだ。
「……招待券」
「え?」
「最初にもらった招待券、まだ財布に入ってるんです。あれ、返さないですから」
我ながら子供みたいな捨て台詞だった。凛花さんは一瞬目を丸くして、それから困ったように、ほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「ふふ。……お元気でね、悠くん」
俺は頭を下げて、レジ横の通路を歩き出した。まっすぐ歩けている自信がなかった。視界がにじんで、UIの文字が二重に見える。
——その時だった。
厨房の脇、古い戸棚の下段。閉め忘れられた引き戸の隙間から、布に包まれた四角い何かが覗いていた。通り過ぎようとした足が、勝手に止まる。
《悠様? そちらは店舗バックヤード領域、進入は……あれ? マップデータが、ない?》
布の端から見えていたのは、手描きの表紙だった。
クレヨンと水彩で描かれた、黄色いミモザの木。その下で笑う、母親と小さな女の子。手製本の、絵本だった。
『ミモザのまほう』
タイトルの文字は、丁寧で、あたたかくて、間違いなく凛花さんの字だった。注文メモで何十回も見た、あの丸い字。
心臓がうるさい。見ちゃいけないものだと頭ではわかっているのに、目が離せない。ページをめくる勇気はなかった。ただ、表紙の隅——ミモザの根元のところに、鉛筆の細い文字が書き添えられているのが見えてしまった。
「私の物語は、ここでおしまい」
息が止まった。
おしまい? 何が? いつ? どうして?
《…………》
「ナビ、これは何のイベントだ」
《……このイベントは、データにありません》
いつも絶叫ツッコミしかしないナビが、初めて聞く小さな声で言った。
《『キミと恋するアルバム』の全ルート、全イベント、全アイテムを検索しました。該当なし。立花凛花に関する情報は、本来……モブと同等の数行しか、存在しないんです》
数行。
あの人の三十八年が、笑顔が、店が、娘を育てた日々が、そして俺の知らない「物語」が——ゲームの中では、数行。
「悠くん? どうかしましたか?」
カウンターから凛花さんの声がして、俺は弾かれたように戸棚から離れた。
「いえ! 何でもないです! 失礼しました!」
カラン、とドアベルが鳴る。夜風が頬に冷たい。
商店街を歩きながら、最初の日のことを思い出していた。風に飛ばされた凛花さんの傘を、存在しない三番の選択肢を作ってまで追いかけた日。息を切らして傘を差し出した俺に、あの人は「あらあら、ヒーローさんですねえ」と笑って、招待券をくれた。あの時、名前も出ていなかった好感度ゲージが、一瞬だけ光ったんだ✨
あの一瞬から始まった俺の攻略は、今夜、大人の優しさに完封された。
振り返ると、ガラス越しに、一人で店の灯りを消していく凛花さんの背中が見えた。
あの日ナビが見せた未来映像と、同じ背中だった。誰とも結ばれず、一人で店を閉め続ける未来。そして今夜わかったことがひとつ。あの未来は、誰かに強いられたものじゃない。凛花さんが自分で「ここでおしまい」と決めて、鍵をかけた未来なんだ。
俺は財布から招待券を出して、握りしめた。もう店には来るなと言われた。大人の正論で、完璧に。でも——「ここでおしまい」って自分で書いた人が、あんなにあたたかい絵を描く人が、本当に物語を終わらせたいはずがないだろ。
【選択肢ウィンドウ:生成不能】
【推奨行動:なし】
構わない。選択肢がないなら、また三番を自分で作るだけだ✨
——あの人の物語を、終わらせてたまるか。




