第3話 医師なき世界
朝霧が村を包んでいた。
木造の家々の隙間を縫うように白い靄が流れ、鶏の鳴き声だけが静寂を破っている。
吟子は、夜明けとともに目を覚ました。
寝床は藁を重ねただけの簡素なものだったが、不思議と身体の痛みはない。若い身体は、回復も早かった。
「……あの子は」
すぐに立ち上がり、昨夜少女が運ばれた家へ向かう。
戸を開けると、母親が深く頭を下げた。
「先生……生きています。朝も、少し水を飲みました」
「そうですか……」
胸の奥に、ほっとした温もりが広がる。
少女は眠っていた。顔色はまだ悪いが、呼吸は安定している。
「数日は安静が必要です。熱が出たら、すぐに知らせてください」
「はい……はい……」
母親の目には、昨夜とは違う光が宿っていた。
だが、その様子を遠くから見つめる視線がいくつもあることに、吟子は気づいていた。
村の中央にある広場。
吟子は年配の男たちに呼び出されていた。
中央に立つのは、昨日怒声を上げた村の長老グラド。
「女よ。昨夜の件について話がある」
「お聞きします」
「お前が行った行為は、我らの習わしに反する」
吟子は黙って耳を傾けた。
「血は神の領域だ。人が勝手に触れてはならぬ」
「だが、あの娘は生きています」
吟子は、はっきりと告げた。
「それが答えではありませんか」
ざわり、と人々がどよめく。
「生きたのは偶然だ!」
「呪いが後から来るかもしれぬ!」
「女が知恵を持つなど、不吉だ!」
次々と浴びせられる言葉。
吟子の胸に、冷たいものが落ちる。
これは拒絶ではない。
恐怖だ。
人々は“知らないもの”を、心の底から恐れている。
「……この村には、医師はいないのですか?」
吟子が尋ねると、長老は鼻を鳴らした。
「医師? そのような者は存在せぬ」
「では、病や怪我はどうしているのです」
「祈る。供物を捧げる。それで治らねば……運命だ」
運命。
その言葉に、吟子は目を伏せた。
かつて日本でも、同じ言葉を何度も聞いた。
女が産褥で亡くれても、
赤子が命を落としても、
“仕方のないこと”として片付けられてきた。
「運命とは、知ろうとしない者が作る言葉です」
静かな声だった。
「知れば、防げる死があります」
「女が語るな!」
「異端者め!」
石が、足元に転がってきた。
誰かが投げたのだろう。
その瞬間、吟子は悟った。
ここに留まれば、いずれ命を狙われる。
その日の昼、吟子は村の外れにある小屋へ移された。
事実上の“隔離”だった。
表向きは「穢れを広げぬため」。
だが実際は、監視である。
「……なるほど」
吟子は苦笑した。
医師であることを名乗っただけで、異端者扱い。
だが不思議と、心は折れていなかった。
むしろ、はっきりしたのだ。
この世界には――医療が“制度として”存在していない。
だからこそ、恐れられる。
「医師とは何か。治療とは何か。……そこから伝えねばならない」
小屋の中で、吟子は地面に枝で図を描いた。
心臓。血管。呼吸。
紙もペンもない。
だが、知識は頭の中にある。
夕刻、小屋の戸が軋む音を立てて開いた。
現れたのは、昨日の少女の母親だった。
「……来てはいけないと言われました。でも……」
彼女は小さな籠を差し出す。
「少しですが、食べ物です」
「ありがとうございます」
「……先生」
その呼び方に、吟子は目を見開いた。
「村の人たちは怖がっています。でも……あの子は、生きています」
母親は唇を震わせながら言った。
「それだけで……私には十分でした」
吟子は、深く頭を下げた。
「……あなたの勇気が、命を守りました」
母親が去った後、小屋の外で子どもの声がした。
隙間から覗くと、数人の子どもがこちらを見ている。
「ねえ……あの人、魔女?」
「でも、痛いの治したんだって」
「……こわくない?」
吟子は、そっと戸を開けた。
子どもたちは驚いて後ずさる。
「私は、魔女ではありません」
柔らかな声で語りかける。
「病気や怪我を治す方法を、学んできただけです」
「……ほんとに?」
「ええ。あなたたちも、転んで膝を擦りむいたことがあるでしょう」
子どもたちは頷く。
「そのとき、水で洗えば、痛みは早く治まります」
彼らの目が、少しずつ丸くなった。
恐怖の奥に、好奇心が芽生えていく。
夜。
吟子は星空を見上げていた。
医師がいない世界。
制度も、理解もない。
だが、今日ひとつだけ分かったことがある。
恐れの裏には、必ず“願い”がある。
人は、本当は死にたくない。
大切な者を失いたくない。
ただ、その方法を知らないだけなのだ。
「……でしたら」
吟子は胸の奥で、静かに炎を灯す。
「私が、道を示しましょう」
誰か一人でもいい。
理解する者が現れれば、そこから始まる。
かつての日本がそうであったように。
異世界の夜風が、そっと髪を揺らした。
それはまるで、
再び医師として歩み出す彼女の背中を、押しているかのようだった。




