第4話 最初の理解者
小屋の外が、いつもより騒がしかった。
朝の光が差し込む中、吟子は目を覚ます。
昨夜は冷え込みが強く、眠りは浅かった。
「……何かあったのでしょうか」
戸の向こうから、慌ただしい足音と怒鳴り声が聞こえる。
「誰か倒れたぞ!」
「血を吐いている!」
吟子の身体が、反射的に動いた。
戸を開けると、村人たちが一軒の家に集まっている。
地面には若い男が倒れ、激しく咳き込みながら血を吐いていた。
「どいてください!」
吟子は思わず叫んだ。
「穢れが移るぞ!」
「近づくな!」
制止の声を振り切り、彼女は男の傍へ膝をつく。
呼吸は荒く、胸が大きく上下している。
血痰。高熱。全身の震え。
「……肺の病……」
結核に近い症状だった。
だがこの世界に、その概念はない。
「この者は、昨夜から息が苦しいと言っていた!」
「呪われたのだ!」
吟子は、男の胸にそっと耳を当てた。
異音。湿った呼吸音。
「安静が必要です。人を離してください。空気を――」
「女が指図するな!」
長老グラドの声が響いた。
「これは神罰だ。触れれば、お前も同じ運命を辿る」
吟子は、ゆっくりと立ち上がった。
「では、何もせずに見殺しにするのですか」
「それが定めだ」
「……いいえ」
吟子の声は震えていなかった。
「定めとは、抗うことを諦めた者が作る言葉です」
そのときだった。
「……待ってください」
人垣の後ろから、若い男が一歩前に出た。
二十歳前後だろう。
日に焼けた顔に、真っ直ぐな瞳。
「この人は……あの子を助けた」
村人たちがざわめく。
「リオ、下がれ!」
長老が怒鳴る。
だが若者リオは、吟子の方を見て言った。
「……本当に、治せるんですか」
吟子は、彼の目を見つめ返した。
「今すぐ治すことはできません。でも――」
少し間を置き、続ける。
「苦しみを和らげ、命を繋ぐことはできます」
リオは、拳を強く握った。
「……なら、俺は信じたい」
その一言が、空気を裂いた。
「何を言う!」
「若造が!」
「黙れ!」
怒号の中で、リオは一歩も引かなかった。
「祈って、何人死んだんだ!」
声が震えている。
「俺の妹も……母も……祈って、死んだ!」
広場が静まり返る。
「もし……もし本当に助けられるなら……」
彼は、吟子に頭を下げた。
「教えてください。あなたのやり方を」
吟子の胸に、熱いものが込み上げた。
それは喜びではない。
責任の重さだった。
「……覚悟が要ります」
彼女は静かに言った。
「学ぶということは、村の常識と戦うことです」
「それでもいい」
迷いのない声だった。
男は別室へ移された。
人を減らし、換気を行う。
体を起こし、呼吸を楽にする姿勢を取らせる。
薬はない。
だが、できることはある。
「温かい水を、少しずつ」
リオは言われた通り動いた。
吟子は、彼に説明しながら処置を続けた。
「咳は、身体が異物を外へ出そうとする反応です」
「……悪いものじゃない?」
「ええ。抑えすぎてはいけません」
リオは真剣な眼差しで頷く。
夜更け、男の呼吸は少し落ち着いた。
「……すごい」
リオが呟いた。
「祈っていないのに……」
吟子は微笑んだ。
「祈りが無意味だとは言いません。でも――」
彼女は、そっと言葉を選ぶ。
「祈りは、手を動かす者の背中を支えるものです」
処置が終わった後、二人は小屋の前に座った。
星が、静かに瞬いている。
「あなたは……どうして、そこまで人を救おうとするんですか」
リオの問いに、吟子は少し考えた。
「……かつて、救われなかった人たちを、たくさん見てきました」
「……」
「だからせめて、次の人を救いたかった」
リオは、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺、医者になりたいです」
吟子は、驚きながら彼を見る。
「この村には、誰もいない。だから……」
その言葉に、吟子は静かに頷いた。
「では、あなたが最初の一人目です」
彼女は、はっきりと言った。
「私が、教えましょう」
異世界で初めて芽生えた、“学ぶ意思”。
それはまだ小さく、弱い。
だが確かに、闇の中で灯る火だった。
かつて日本で、女医を目指した少女がいたように。
吟子は夜空を見上げながら、胸の奥で誓う。
この世界に、医師を育てる。
たとえ、誰も理解しなくとも。
命を救うという行為を、
迷信ではなく“知”として残すために。
その第一歩は、今、確かに踏み出されたのだった。




