第2話 命は“穢れ”ではない
少女の体温は、徐々に下がっていた。
血は圧迫によってある程度止まっている。だが安心できる状態ではない。
顔色は土のように青白く、唇は紫がかっていた。
「……低体温と失血。まずは温めなければ……」
吟子は周囲を見回した。
森は深く、湿り気を含んだ風が吹いている。ここで夜を迎えれば、命はもたない。
「動けますか?」
少女は、かすかに首を振った。
吟子は一度深く息を吸い、自分の背を向けた。
「掴まってください。少し痛みますが……我慢できますね」
少女は弱々しく、しかし必死に吟子の肩に腕を回した。
その軽さに、胸が締め付けられる。
これほど幼い身体で、これほどの血を流すまで、誰にも助けを呼べなかったのだ。
歩き出してすぐ、遠くから人の声が聞こえた。
「……あっちだ」
森を抜けると、小さな村が見えてきた。
木と土で作られた家々。煙を吐く竈。中世の絵画で見たような光景だった。
「誰か! この子が怪我をしています!」
吟子が声を張り上げると、数人の大人が振り返った。
だが次の瞬間、その視線は少女ではなく、吟子自身に向けられた。
「……女?」
「なぜ女が血に触れている」
ざわり、と空気が変わる。
吟子は戸惑った。
心配や驚きではない。明確な“嫌悪”が含まれていた。
「この子は出血しています。清潔な布と、温かい場所を――」
「触るな!」
怒声が飛んだ。
村の年配の男が前に出てくる。
「血は穢れだ。女が触れれば、呪いが広がる」
「……呪い?」
吟子は思わず聞き返した。
「この子は怪我をしているだけです。早く治療をしなければ――」
「治療など不要だ。巫女を呼べ」
周囲の村人たちも頷く。
「神の怒りに触れたのだ」
「祈れば治る」
「血に触れれば魂が汚れる」
吟子の胸に、かつての記憶が重なった。
婦人科病棟で向けられた視線。
女性の身体を“恥”として扱う空気。
世界は違えど、根は同じだった。
「……祈りで血は止まりません」
吟子は静かに言った。
「今この瞬間も、この子の命は失われています」
「女が口を挟むな!」
「医者でもないくせに!」
その言葉に、吟子の視線が強くなる。
「医師です」
村人たちが息を呑んだ。
「私は……医師です」
嘘ではなかった。
世界が変わっても、その事実だけは揺るがない。
「この子を助けたい。それだけです」
一瞬の沈黙。
やがて、少女の母と思しき女性が、人垣の奥から震えながら出てきた。
「……お願いします……」
涙に濡れた声だった。
「祈っても……動かなくなっていくのが……分かるんです……」
母親の言葉に、村人たちは言葉を失う。
吟子はゆっくりと頷いた。
「火を。湯を沸かしてください。できるだけ清潔な布を」
「……本当に、助かるのか」
年配の男が問う。
吟子は、まっすぐに答えた。
「助けるために、私はここにいます」
その声音には、迷いがなかった。
少女は村の一室に運ばれた。
湯で布を煮沸し、傷口を洗う。
痛みに泣き叫ぶ少女の手を、母親が必死に握っていた。
「大丈夫です。感染を防がねばなりません」
「……かんせん?」
「傷から悪いものが入り、身体を壊します」
吟子は、なるべく分かりやすい言葉を選んだ。
針も糸もないため、縫合はできない。
だが圧迫と固定で、出血は次第に落ち着いていった。
夜半、少女の呼吸は安定した。
「……生きてる……」
母親が嗚咽を漏らす。
村人たちは、遠巻きにその光景を見ていた。
祈りも呪文も使っていない。
ただ、手と知識だけで命が繋がれている。
「……奇跡、なのか」
誰かが呟いた。
吟子は首を振る。
「奇跡ではありません。知れば、誰にでもできることです」
その言葉は、村人たちの胸に静かに落ちていった。
夜。
簡素な寝床で、吟子は一人、天井の木目を見つめていた。
ここがどんな世界なのか、まだ分からない。
医師という制度があるのかすら不明だ。
だが、確かなことが一つある。
この世界では――
命が、迷信の中で失われている。
「……やはり、同じなのですね」
かつての日本と。
女であるという理由で、
知識を持つことを拒まれ、
救えるはずの命が見過ごされる世界。
吟子は胸に手を当てた。
心臓は、若く、強く脈打っている。
まるでこう言っているようだった。
――まだ、あなたの役目は終わっていない。
「ええ……」
彼女は小さく微笑んだ。
「でしたら、もう一度歩きましょう」
この世界で。
医療という光が、まだ灯っていないこの地で。
日本初の女性医師は、再び誓う。
命は、穢れではない。
女が救ってはならぬものでもない。
――人は、誰かの手によって生かされる。
その真理を、必ずこの世界にも伝えるために。
夜風が、静かに窓を揺らしていた。




