第2章 七つの席
戦場から帰還した翌朝、エリュシオンには穏やかな陽光が降り注いでいた。
高くそびえる防壁の向こうには、十七年前に砕けた月の残骸が、今も空に浮かんでいる。
昼間は薄く、夜には青白く輝くその破片を、人々はいつしか当たり前の風景として受け入れるようになっていた。
けれど、カイには時折、不思議に思えることがある。
あの月が、かつて一つだったということ。
そして、自分がその姿を覚えていないということだ。
「……腹減ったな」
宿舎の廊下を歩きながら、カイは小さく呟いた。
昨日の任務は、予想以上に長引いた。
第七監視区域で確認された十二機のレムナントは、すべて排除した。人的被害もなく、ゼロ班の七人は無事に帰還している。
それでも、カイの胸には妙な感覚が残っていた。
右腕の刻印。
戦闘中に聞こえた、あの声。
そして、軍の記録から消されていた研究区画。
考え始めれば、いくらでも疑問は浮かんでくる。
だが――。
「おっ、カイ!」
背後から聞こえた声に、思考が途切れた。
振り返ると、ユウが勢いよく駆け寄ってくる。
「ちょうどよかった! 早く食堂行こうぜ!」
「そんなに急いでどうする」
「グレンが朝飯作ってるんだよ!」
「……それが?」
「今日のメニュー、特製オムレツだって!」
ユウは真剣な顔で拳を握った。
「しかも、昨日の任務が無事に終わった記念で、いつもより豪華らしい!」
「お前は任務より飯のほうが楽しそうだな」
「当たり前だろ。任務は命懸けだけど、グレンの飯は生きる楽しみだからな!」
カイは思わず笑った。
「……それ、本人に言ってやれ」
「もう言った!」
「そうか」
「そしたら、つまみ食いするなって怒られた!」
「何をしたんだ、お前は」
二人は並んで食堂へ向かった。
廊下の先から、香ばしい匂いが漂ってくる。
焼きたてのパン。
温かいスープ。
そして、バターの溶ける甘い香り。
その匂いだけで、昨日までの戦場が少し遠く感じられた。
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ゼロ班の専用食堂は、宿舎の一角に設けられている。
決して広い部屋ではない。
長方形のテーブルが一つ。
壁際には古い棚と小さな冷蔵庫。
窓辺には、誰が置いたのかわからない鉢植えが並んでいた。
そして、テーブルの周囲には七つの椅子がある。
「遅いぞ、カイ」
厨房から低い声が響いた。
グレンだった。
大柄な身体に似合わないほど丁寧な手つきで、フライパンを操っている。
鍛え抜かれた腕。
鋭い目つき。
戦場では巨大な盾を構え、仲間を守る重装兵。
そんな男が、今は白いエプロンを着けていた。
「……その格好、何度見ても慣れないな」
カイが言うと、グレンは眉をひそめた。
「何か文句があるのか」
「いや。似合ってると思う」
「そうか。なら座れ」
「今の、褒め言葉として受け取るんだな」
「料理人への敬意は大切だ」
グレンは真顔で答えた。
その横で、ユウが笑いをこらえている。
「グレン、俺のオムレツ大盛りで!」
「お前はさっき味見をしただろう」
「あれは味見じゃなくて品質確認!」
「なら、品質確認の分を引いておく」
「ええっ!?」
食堂に笑い声が広がった。
「朝から騒がしいわね」
入口から、呆れたような声がした。
リリスだった。
淡い赤みを帯びた髪を揺らしながら、通信端末を片手に入ってくる。
「廊下まで声が聞こえてたわよ」
「リリス、おはよう!」
「はいはい、おはよう。ユウは今日も元気ね」
「昨日も元気だったぞ!」
「昨日は途中で泣き言を言っていたじゃない」
「あれは通信の雑音だって!」
「私、通信担当なんだけど?」
「……ごめんなさい」
ユウが素直に頭を下げる。
リリスは勝ち誇ったように微笑んだ。
その後ろから、シンが静かに入ってきた。
眼鏡の奥の目には、まだ眠気が残っている。
「……朝から騒音レベルが高いな」
「シン、お前また徹夜か?」
カイが尋ねると、シンは軽く肩をすくめた。
「昨日の戦闘データを整理していただけだ」
「それを徹夜って言うんだよ」
「正確には、二時間ほど仮眠を取った」
「余計に悪いだろ」
シンは答えず、席に座った。
その手には、すでに小型端末が握られている。
「シン」
厨房からグレンの声が飛んだ。
「食事中は端末をしまえ」
「あと少しで解析が終わる」
「しまえ」
「……了解」
シンは静かに端末を伏せた。
ゼロ班で最も理論的な男も、グレンの厨房では逆らえないらしい。
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最後に現れたのは、レオンとイリスだった。
「全員、揃っているな」
レオンが食堂を見渡す。
その隣で、イリスは無言のまま小さく頷いた。
「イリス、おはよう!」
ユウが手を振る。
「……おはよう」
「今日も静かだな!」
「……あなたが騒がしいだけ」
「ひどい!」
イリスは表情を変えずに席へ向かった。
リリスが笑いながら、その隣の椅子を引く。
「ノアは元気?」
「……元気。今朝も窓の外にいた」
「また会いに行ったの?」
「……少しだけ」
イリスの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
カイはその変化に気づいたが、何も言わなかった。
彼女があんな表情を見せるのは、猫の話をしているときくらいだ。
「レオン隊長、こちらどうぞ」
リリスが椅子を引いた。
「ありがとう、リリス」
「いえ……昨日は、お疲れさまでした」
「君もな。通信支援のおかげで助かった」
「そ、そんな。私だけの力じゃありませんから」
リリスは少しだけ視線を逸らした。
レオンは気づいているのかいないのか、穏やかに微笑んでいる。
その様子を見て、ユウがカイの脇腹をつついた。
「なあ、カイ」
「何だ」
「あの二人、絶対――」
「聞こえているぞ、ユウ」
レオンの声が飛んできた。
「はいっ!」
ユウは背筋を伸ばした。
カイは笑いをこらえながら、椅子に腰を下ろす。
七つの席。
そこには、いつもと変わらない七人がいた。
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「よし、できたぞ」
グレンが大皿を運んできた。
ふっくらと焼き上がったオムレツ。
温かい野菜のスープ。
香ばしいパン。
そして、中央には大きな皿に盛られた肉料理まである。
「うおおおっ!」
ユウが歓声を上げた。
「すげえ! これ全部グレンが作ったのか!?」
「他に誰がいる」
「もう軍辞めて店開こうぜ!」
「簡単に言うな」
グレンは呆れたように笑った。
しかし、その言葉に少しだけ手を止めた。
「……店か」
低い声が、ぽつりと落ちる。
「ん?」
ユウが顔を上げた。
「いや。昔から、少し考えていたことがある」
グレンは椅子に腰を下ろした。
「戦争が終わったら、小さな食堂でも開きたいと思ってな」
その言葉に、食堂が少し静かになった。
戦争が終わったら。
誰もが口にする。
けれど、いつ終わるのかは誰にもわからない。
十七年前から続く戦い。
城壁の外には、今も無数のレムナントが徘徊している。
平和という言葉は、遠い昔の物語のようだった。
「いいじゃないか」
レオンが言った。
「お前の料理なら、客は集まるだろう」
「そうか?」
「ああ。少なくとも俺は通う」
「俺も!」
ユウが勢いよく手を挙げた。
「毎日行く!」
「お前は金を払え」
「仲間割引は!?」
「ない」
「冷たい!」
再び笑い声が起こった。
グレンはしばらく考え込んでから、ぽつりと言った。
「……席は七つでいい」
カイが顔を上げた。
「七つ?」
「ああ」
グレンはテーブルを見渡した。
「大きな店じゃなくていい。客が大勢来なくても構わん」
ゆっくりと、一人ずつ顔を見る。
「ただ、ここにいる七人が、いつでも帰ってこられる場所にしたい」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
窓から差し込む陽光が、テーブルを照らしている。
「……いい夢ね」
リリスが静かに言った。
「私、そこで働いてあげてもいいわよ」
「お前は客でいい」
「えー、どうして?」
「厨房が騒がしくなる」
「ひどい!」
「……私は窓際がいい」
イリスが小さく呟いた。
皆の視線が集まる。
「……猫が見える席」
その一言に、グレンが笑った。
「わかった。窓際はお前の席にしよう」
「じゃあ俺は厨房に一番近い席!」
ユウが手を挙げる。
「お前は一番遠い席だ」
「なんでだよ!」
「つまみ食いするからだ」
シンが眼鏡を押し上げた。
「七席だけでは採算が合わない可能性が高いな」
「お前は現実的すぎる」
カイが呆れる。
「経営計画は重要だ」
「じゃあシンが帳簿係だな」
レオンが言うと、シンは少し考えてから頷いた。
「……それなら引き受けてもいい」
「決まりだな」
グレンが満足そうに笑う。
「お前たち、本当に来るつもりなのか」
「当然だろ」
レオンは即答した。
「全員で帰って、全員で飯を食う。それが俺たちだ」
その言葉に、カイも静かに頷いた。
七つの席。
戦場では、互いの背中を預ける七人。
けれど、ここではただの仲間だった。
誰かが冗談を言い、誰かが笑い、誰かが呆れる。
そんな当たり前の時間が、カイには何よりも大切に思えた。
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食事が終わった後も、しばらく誰も席を立たなかった。
ユウは追加のパンをねだり、グレンに断られている。
リリスはレオンのカップに温かい飲み物を注ぎ、何でもないような顔で自分の席へ戻った。
シンはようやく端末を取り出し、イリスは窓の外を眺めている。
カイは、そんな光景を静かに見つめていた。
「どうした、カイ」
隣からレオンが声をかける。
「いや……」
カイは少し考えてから答えた。
「こういう時間も、悪くないと思ってな」
「珍しいことを言うな」
「そうか?」
「お前はいつも、次の任務のことばかり考えているからな」
レオンは穏やかに笑った。
「だが、俺も同感だ」
その視線が、テーブルを囲む仲間たちへ向かう。
「戦う理由なんて、案外こういうものなのかもしれないな」
「……こういうもの?」
「ああ」
レオンは静かに頷いた。
「帰る場所がある。それだけで、人は強くなれる」
カイは何も答えなかった。
ただ、その言葉が胸の奥に残った。
帰る場所。
なぜだろう。
その言葉を聞いた瞬間、遠い記憶の底で、何かが揺れた気がした。
白い廊下。
小さな手。
そして――。
『……いっしょに、かえろう』
「……っ」
カイは思わず右腕を押さえた。
服の下で、青い刻印がかすかに熱を帯びたように感じた。
「カイ?」
レオンが眉をひそめる。
「大丈夫か」
「ああ……何でもない」
カイはゆっくりと手を離した。
刻印の熱は、もう消えている。
今の声は、何だったのだろう。
昨日の戦場で聞こえた声と、同じだった気がする。
けれど、その正体はわからない。
「無理はするなよ」
レオンが言った。
「昨日の戦闘で、少し疲れているんだろう」
「……そうかもしれない」
カイは小さく頷いた。
そのとき、ユウの声が響いた。
「カイ! 最後のパン、食べないならもらうぞ!」
「待て。それは俺のだ」
「早い者勝ち!」
「おい!」
カイが手を伸ばすより早く、グレンがユウの手首をつかんだ。
「人の分を取るな」
「痛い痛い! わかったって!」
また、笑い声が広がる。
カイもつられて笑った。
今はまだ、わからないことばかりだ。
十七年前に失った記憶。
右腕の刻印。
そして、あの声の主。
けれど、焦る必要はない。
ここには、仲間がいる。
帰る場所がある。
そして、明日もきっと、この七つの席には同じ顔が並ぶ。
カイはそう信じていた。
窓の向こうでは、砕けた月が青い空に浮かんでいる。
まるで、遠い昔の約束を見守るように。
七つの席に、七人の笑い声が響いていた。
それは、戦場では決して手に入らない、穏やかな時間だった。
そしてカイは、まだ知らない。
何気なく交わした言葉が、いつか人の心を支える約束になることを。
その朝の温もりを、いつまでも忘れられなくなることを。
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**第2章 七つの席 完**
【ELYSION ARCHIVE】
エリュシオン防衛軍・戦術情報データベース
FILE 002特殊戦闘部隊隊員記録
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■ グレン・ハーグレイヴ(30歳)
所属:エリュシオン防衛軍・ゼロ班
担当:重装防御・前衛護衛
主要装備:
・重装防御システム《イージス》
・大型防護盾
・重火器
戦闘特性:
強固な防御力を活かし、味方の前線を維持する重装兵。部隊の盾として、仲間を守ることを最優先とする。
人物記録:
寡黙で威圧感のある外見とは対照的に、面倒見がよく料理が得意。
ゼロ班の食事を担当することも多く、隊員たちから厚い信頼を得ている。
本人の希望:
「戦争が終わったら、小さな食堂を開きたい」
希望する客席数は七席。
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【部隊生活記録】
ゼロ班専用食堂には七つの椅子が配置されている。
隊員全員が揃って食事を取ることは、部隊内で大切にされている習慣の一つである。
※本資料は第2章終了時点の公開情報です。




