第1章 砕月(さいげつ)の境界線(前編)
月が砕けてから、十七年。
人類は、空を取り戻せずにいた。
夜空には、かつて一つだった月の残骸が浮かんでいる。
無数の白い破片が、互いに離れな砕月がらも一定の軌道を巡り、まるで巨大な傷跡のように夜を照らしていた。
人々は、その光景を《砕月》と呼んだ。
そして、その下で生きることに慣れてしまった。
*
鋼と鋼が激しくぶつかり合った。
甲高い衝突音が、訓練場に響き渡る。
「――遅い!」
低い声とともに、一人の男が踏み込んだ。
振り下ろされた剣を、黒い長剣が受け止める。
火花が散った。
次の瞬間、黒い剣を握る青年が身体をひねり、相手の刃を横へ流した。
「……そっちこそ」
青年の名は、カイ。
二十二歳。
短く乱れた灰黒色の髪に、鋼のような灰色の瞳。
細身ながら鍛え抜かれた身体を、黒い戦闘服が包んでいる。
右手には、高周波振動剣《月影》。
その刃は、訓練用の出力制限をかけられてなお、鋭い金属音を響かせていた。
カイは間合いを詰めた。
一歩。
二歩。
相手の剣が動くより早く、斜め下から刃を跳ね上げる。
だが――
「甘いな!」
男は笑った。
その剣が、カイの攻撃を正確に受け止める。
男の名は、レオン・ヴァルハイト。
二十八歳。
短いダークブラウンの髪と琥珀色の瞳を持つ、精鋭特殊部隊《ゼロ班》の隊長だった。
カイより一回り大きな体格。
しかし、その動きには無駄がない。
レオンが得意とするのは、防御と反撃。
相手の攻撃を受け流し、最も危険な瞬間に反撃する戦い方だ。
カイは再び剣を振るった。
右。
左。
上段からの連続攻撃。
どれも急所を狙った鋭い一撃だった。
だが、レオンは退かない。
黒銀の長剣を最小限の動きで操り、すべての攻撃を受け止める。
「どうした、カイ! 今日は随分おとなしいな!」
「……朝からうるさいんだよ、隊長は」
「ははっ! 口だけは元気だな!」
カイの眉がわずかに動いた。
次の瞬間、彼の姿勢が低く沈む。
床を蹴った。
速い。
先ほどまでとは明らかに違う加速。
レオンの琥珀色の瞳が細くなる。
「――ほう」
カイの剣が、レオンの右肩へ迫る。
レオンは防御に移ろうとした。
だが、カイは直前で軌道を変えた。
肩ではない。
狙いは、剣を握る手首。
相手が防御へ移る瞬間の、わずかな隙。
「もらった!」
カイが呟いた。
しかし。
「――まだだ」
レオンの足が動いた。
踏み込むのではなく、半歩だけ引く。
その小さな動きで、カイの剣先が空を切った。
同時に、レオンの剣が下から跳ね上がる。
カイは反射的に身をひねった。
剣先が胸元をかすめる。
さらに、レオンの左肩が迫った。
体当たり。
カイは後方へ跳んだ。
靴底が床を滑る。
二人の距離が開いた。
「……相変わらず、嫌な戦い方するな」
カイが息を整えながら言った。
レオンは肩をすくめた。
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてない」
「知ってるさ」
レオンは笑った。
そして、剣を構え直す。
「だが、お前の剣は確実に速くなってる」
「……そうか」
「ああ。だからこそ、惜しい」
カイの目が細くなった。
「何が?」
「お前は、勝つことばかり考えてる」
レオンの声から、笑みが消えた。
「一人で敵を倒すなら、それでもいい。だが、俺たちは一人で戦ってるわけじゃない」
「……わかってる」
「本当に?」
レオンは剣先を下げた。
「お前が前に出すぎれば、後ろの仲間が無理をする。お前が倒れれば、誰かが助けに行く」
カイは答えなかった。
「強い剣士と、強い副隊長は違うんだよ」
その言葉に、カイの表情がわずかに変わった。
レオンは続けた。
「お前はもう、誰かに守られるだけの兵士じゃない」
静かな声だった。
「誰かを帰してやる立場なんだ」
訓練場に、短い沈黙が落ちた。
カイは自分の剣を見つめた。
黒い刃に、天井の照明が映っている。
「……わかってるよ」
今度の返事は、先ほどよりも小さかった。
レオンは満足そうに笑った。
「なら、もう一本だ!」
「……まだやるのか?」
「当然だろう!」
レオンが剣を構える。
「今度は俺を倒してみろ!」
カイはため息をついた。
「……本当に、朝から元気だな」
それでも、剣を握り直した。
次の瞬間。
二人は同時に踏み込んだ。
*
「……またやってる」
訓練場の入口から、呆れた声がした。
そこに立っていたのは、眼鏡をかけた青年だった。
短い紺色の髪。
整った軍服。
腕には薄型の戦術端末を抱えている。
シン・クロフォード。
二十六歳。
ゼロ班の戦術参謀であり、作戦補佐を担当する男だった。
彼は訓練場の中央で剣を交える二人を見て、小さく息を吐いた。
「訓練開始予定時刻まで、あと二十分あるんだけど」
「いいじゃないですか、シンさん!」
その隣から、明るい声が飛び出した。
砂色の短い髪をした青年。
ユウ・アステル。
二十歳。
ゼロ班最年少の偵察兵だった。
「隊長とカイさんの模擬戦、見てるだけで勉強になりますよ!」
「君の場合、見ている時間の半分は歓声を上げているだけだろう」
「えー、そんなことないですよ!」
ユウは笑いながら訓練場へ駆け寄った。
「カイさーん! 隊長に勝ったら、今日の昼飯おごってください!」
「……なんで俺が?」
剣を受け止めながら、カイが答える。
「だって、勝ったら気分いいでしょ?」
「意味がわからない」
「じゃあ、負けたらおごってください!」
「もっと意味がわからない」
レオンが大きく笑った。
「はははっ! いいじゃないか、カイ!」
「隊長まで……」
その瞬間、レオンの剣が鋭く動いた。
「――隙あり!」
「っ!」
カイは咄嗟に剣を返した。
金属音。
衝撃。
カイの身体がわずかに後退する。
そして――
レオンの剣先が、カイの胸元で止まった。
『模擬戦終了。勝者、レオン・ヴァルハイト』
訓練場の自動判定装置が告げる。
「よし!」
レオンが笑顔で剣を下ろした。
カイは無言で天井を見上げた。
「……最悪だ」
ユウが吹き出した。
「あははっ! カイさん、負けた!」
「……ユウ」
「はい?」
「あとで射撃訓練、付き合え」
「えっ?」
「逃げるなよ」
「……シンさん、助けてください」
「自業自得だね」
シンは淡々と答えた。
*
「まったく……朝から何を騒いでいるの」
今度は、柔らかな女性の声がした。
訓練場の入口に、一人の女性が立っていた。
赤みを帯びた桃色の髪を、左右の長いツインテールにまとめている。
優しげな薔薇色の瞳。
黒い軍用医療服の胸元には、小さな救護部隊の紋章があった。
リリス・エヴァレット。
二十三歳。
ゼロ班の戦闘衛生士であり、通信管制を担当している。
彼女は手にした医療端末を見ながら、眉を寄せた。
「レオン隊長」
「おう、リリス! おはよう!」
「おはようございます、じゃありません」
リリスは少しだけ頬を膨らませた。
「昨日も夜遅くまで作戦会議をしていたんですよね?」
「まあ、そうだな」
「それなのに、朝から模擬戦ですか?」
「身体を動かしたほうが目が覚めるだろう?」
「……そういう問題じゃありません」
リリスはため息をついた。
「朝食は?」
「……」
レオンの笑顔が止まった。
カイが横目で見た。
「……食ってないな」
「カイ!」
「事実だろ」
リリスの視線が鋭くなる。
「隊長?」
「いや、その……あとで食べようとは思ってたんだが……」
「昨日も同じことを言っていました」
「……そうだったか?」
「そうです」
リリスは小さな包みを差し出した。
「これ。簡単なものですけど、食べてください」
レオンは目を瞬かせた。
「……俺に?」
「ほかに誰がいるんですか」
「いや、ありがたい」
包みを受け取ったレオンは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「助かるよ、リリス」
リリスは視線を逸らした。
「……隊長が倒れたら、みんな困りますから」
そのやり取りを、ユウがにやにやしながら見ていた。
「……何?」
リリスが気づく。
「いえいえ、別に?」
「ユウくん?」
「何でもないです!」
ユウは慌ててシンの後ろへ隠れた。
シンは端末から顔も上げずに言った。
「僕を盾にしないでくれるかな」
*
「お前ら、朝から元気だな」
重厚な声が響いた。
訓練場の入口を、一際大きな影が塞いだ。
銀灰色の短髪。
鍛え抜かれた巨体。
軍服の上からでもわかるほど、肩幅が広い。
グレン・ハーグレイヴ。
三十歳。
ゼロ班最年長の重装兵だった。
彼は大きな手に、紙袋を二つ提げていた。
「おう、グレン!」
レオンが手を上げる。
「ちょうどいいところに来たな!」
「何がちょうどいいんだ?」
「腹が減った」
「……お前、また朝飯を抜いたのか」
グレンは呆れたように眉を寄せた。
リリスがすかさず言う。
「そうなんです!」
「まったく……隊長がそれでどうする」
「二人とも厳しいなあ」
グレンは紙袋を持ち上げた。
「食堂で余分にもらってきた。お前らの分もあるぞ」
「やった!」
ユウが歓声を上げた。
「グレンさん、最高!」
「お前は本当に食い物の話になると元気だな」
「育ち盛りなんで!」
「もう二十歳だろうが」
「まだ伸びます!」
グレンは豪快に笑った。
そして、カイへ視線を向ける。
「お前も食えよ、カイ」
「……俺は朝食、食った」
「なら二回目だ」
「……なんでそうなる」
「細いんだよ、お前は」
「筋肉はある」
「俺から見りゃ、まだまだだ」
カイは反論しかけて、やめた。
グレンに体格の話で勝てる気がしなかった。
*
「……全員、揃った?」
静かな声が、入口から聞こえた。
最後に現れたのは、一人の女性だった。
長い濃紺紫色の髪。
灰紫色の瞳。
整った顔立ちには、ほとんど表情が浮かんでいない。
イリス・ヴェルナー。
二十五歳。
ゼロ班の狙撃手だった。
彼女は細長いライフルケースを肩に掛けていた。
「イリスさん!」
ユウが手を振る。
「おはようございます!」
「……おはよう」
「今日は早いですね!」
「いつも通り」
「えー、そうでしたっけ?」
「……うん」
短いやり取り。
それだけで、イリスは壁際へ移動した。
ケースを静かに下ろす。
リリスが微笑みながら近づいた。
「イリス、ちゃんと眠れた?」
「……少し」
「また夜遅くまで射撃場にいたんでしょう?」
「……うん」
「もう。無理しないでね」
イリスは小さく頷いた。
それから、リリスの手元を見た。
「……隊長の朝食?」
「えっ?」
「……また?」
リリスの頬が、わずかに赤くなった。
「ち、違うの。たまたま多く作っただけで……」
「……そう」
イリスは、それ以上何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。
*
カイは、訓練場の中央から仲間たちを見渡した。
レオン。
シン。
ユウ。
グレン。
リリス。
イリス。
そして、カイ。
七名。
人類がレムナントとの戦いを続けるこの世界で、特別な任務を与えられた精鋭部隊。
正式名称は、エリュシオン防衛軍直属特殊戦闘部隊《ゼロ班》。
危険区域への偵察。
重要施設の防衛。
レムナントの殲滅。
そして、通常部隊では対応できない特殊任務。
それが、彼らの仕事だった。
仲間たちは、相変わらず騒がしい。
ユウはグレンの持ってきた朝食を覗き込み、シンに注意されている。
リリスはレオンの健康状態を確認し、イリスは静かにその様子を眺めている。
グレンは笑いながら、全員に食事を配っていた。
カイは、そんな光景を見ていた。
不思議な連中だと思う。
戦場では、誰もが命を懸けて戦う。
けれど、こうして集まると、どこにでもいる普通の人間のようだった。
――普通。
その言葉が、少しだけ胸に引っかかった。
自分にとって、普通とは何なのだろう。
幼い頃の記憶は、ほとんど残っていない。
覚えているのは、砕けた月。
青い光。
そして、誰かの声。
カイは無意識に、右腕へ触れた。
黒い戦闘服の袖の下。
そこには、生まれつきではない青い紋様が刻まれている。
軍の医療部門でも、完全には解明されていないもの。
十七年前から、ずっと消えない刻印。
「……カイ?」
レオンの声がした。
顔を上げる。
「どうした?」
「……いや」
カイは腕から手を離した。
「何でもない」
レオンは一瞬だけ、カイの右腕へ視線を向けた。
だが、何も聞かなかった。
「そうか」
そして、いつものように笑った。
「なら、飯にするぞ!」
「……さっきリリスからもらってただろ」
「それはそれ、これはこれだ!」
「……太るぞ」
「俺が?」
「……グレンみたいになる」
「おい、どういう意味だ!」
グレンの声が響いた。
ユウが吹き出し、リリスが笑い、シンが呆れたように肩をすくめる。
イリスも、小さく笑っていた。
カイは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
こんな時間が、ずっと続けばいい。
そう思った。
その瞬間だった。
――ピピピピッ!
鋭い電子音が、訓練場に響き渡った。
壁面の警報灯が、赤く点滅する。
『緊急任務通達』
機械音声が告げた。
『城壁外・第七監視区域にて、未確認レムナント反応を検出』
シンの端末が、自動的に起動する。
画面に、複数の赤い光点が表示された。
「……おかしいな」
シンが呟いた。
レオンの表情が変わる。
「どうした?」
「反応数が合わない」
シンは画面を拡大した。
「通常の巡回個体なら、もっと散らばっているはずだ」
赤い光点は、一定の間隔を保って並んでいた。
まるで――
何かの命令を待っているように。
「……統率されている?」
イリスが静かに言った。
シンは頷いた。
「その可能性が高い」
訓練場から、先ほどまでの笑い声が消えた。
レオンは、全員を見渡した。
「全員、出動準備!」
六人が、一斉に姿勢を正す。
「了解!」
カイは《月影》を鞘へ収めた。
そして、訓練場の出口へ向かう。
その右腕の奥で。
青い刻印が、ほんの一瞬だけ熱を帯びた。
カイは気づかなかった。
まだ、誰も知らない。
この小さな異変が、十七年間眠り続けていた秘密へとつながっていることを。
そして。
ゼロ班一人一人の日常が、少しずつ変わり始めていることを。




