↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月が砕けた夜に、君を探す  作者: もふもふ戦士


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/5

プロローグ 月が砕けた夜

 その夜、月が砕けた。


 けれど、五歳の少年はまだ知らなかった。

 自分が見上げたあの月が、二度と元の姿には戻らないことを。


 そして、あの夜に交わした小さな約束が、十七年後の運命を変えることになるなんて。


 *


「……おかあさん」

 少年の声が、白い廊下に吸い込まれていった。


 返事はない。


 天井には細長い照明が並び、磨き上げられた床にはその光がぼんやりと映っている。

 壁も、扉も、椅子も、みんな白い。


 少年――カイは、この場所が嫌いだった。

 

 窓が少なく、外の音も聞こえない。

 知らない大人たちは、いつも難しい言葉を話している。

 それに、ここへ来るたびに母親がいなくなる。


「……まだかな」


 待合室の長椅子に座ったカイは、ぶらぶらと足を揺らした。

 足先は床に届かない。

 膝の上には、小さな布袋が置かれている。

 中に入っているのは、母親が持たせてくれた飴玉が一つ。

 もう一つあったけれど、待っている間に食べてしまった。

 残った一つは、母親が戻ってきたらあげようと思っていた。


 壁の時計を見上げる。

 長い針が、少しだけ動いていた。


 どれくらい待ったのだろう。

 カイにはわからなかった。


「……おかあさん」


 もう一度呼んでみる。

 やっぱり、返事はなかった。

 泣いてはいけない。

 そう言われたわけではない。

 けれど、泣くと大人たちが困った顔をすることを、カイは知っていた。

 だから、唇をぎゅっと結んだ。


 そのときだった。


「……どうしたの?」


 頭の上から、優しい声が降ってきた。

 顔を上げる。

 そこに、一人の少女が立っていた。


 長い銀白色の髪。

 透き通るような淡い青色の瞳。

 白い服を着た少女は、少し心配そうにカイを見つめていた。

 

 挿絵(By みてみん)


母親よりずっと若く見える。

 でも、カイよりはずっと大人だった。


「……おかあさんが、いない」

 

 少女は小さく目を細めた。


「そっか。お母さんを待ってるんだね」


 カイが頷くと、少女は隣の長椅子を指さした。


「ここ、座ってもいい?」

「……うん」

「ありがとう」


 少女はカイの隣に腰を下ろした。

 銀色の髪が、ふわりと肩から流れ落ちる。


「お名前は?」

「……カイ」

「カイくん?」

「うん」

「いい名前だね」


 少女は微笑んだ。


「私はルナ」

「……るな?」

「そう。ルナ」


 カイは首を傾げた。


「おつきさま?」

「え?」

「るなって、おつきさま?」


 少女は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


「……うん。そういう意味もあるね」

「じゃあ、おつきさまのおねえちゃんだ」

「ふふっ。そうかもしれない」


 その笑顔を見て、カイも少しだけ笑った。

 さっきまで胸の奥にあった寂しさが、少しだけ小さくなった気がした。


 *


「ねえ、カイくん」


 しばらくして、ルナが窓のある廊下を指さした。


「お月さま、見に行かない?」

「おつきさま?」

「うん。すぐそこに、大きな窓があるの」


 カイは迷った。

 母親が戻ってきたとき、自分がいなかったら困るかもしれない。

 すると、ルナはすぐに気づいたようだった。


「大丈夫。待合室が見えるところまでにしよう。お母さんが戻ってきたら、すぐわかるから」

「……うん!」


 二人は待合室のすぐ横にある、大きな観測窓へ向かった。

 窓の向こうには、夜の街が広がっていた。

 遠くまで続く建物の明かり。

 空をゆっくりと横切る飛行灯。

 そして、その上に浮かぶ大きな月。


「……わあ」


 カイは窓に両手をついた。


 月は、いつも家から見ているものよりも大きく感じられた。


「きれいでしょ?」

「うん!」

「私も、ここから見る月が好きなの」


 ルナは窓の外を見つめた。

 けれど、その横顔は少しだけ寂しそうだった。


「……おねえちゃん」

「なあに?」

「おうち、かえらないの?」


 ルナの瞳が、わずかに揺れた。


「……帰りたいよ」

「じゃあ、かえろうよ」


 あまりにも簡単な答えだった。

 ルナは驚いたようにカイを見た。


「……そうだね」


 そして、静かに微笑んだ。


「いつか、帰れるといいな」


 カイは首を振った。


「いつかじゃないよ」

「え?」

「いっしょに、かえろう」


 小さな手が、ルナの服の裾をつかんだ。

 ルナは、その手をじっと見つめた。


 何かを言おうとして、言葉を飲み込む。

 それから、そっと膝を折った。


「……ありがとう、カイくん」


 彼女は少年と目の高さを合わせた。


「うん。約束ね」


 小指を差し出す。

 カイは嬉しそうに、自分の小指を絡めた。


「やくそく!」


 ルナは笑った。

 けれど、その笑顔がほんの少しだけ泣きそうに見えたことを、カイは覚えていない。

 その瞬間だった。

 施設の奥で、低い警報音が鳴った。


 *


『第一共鳴者は、準備室へ移動してください』


 天井のスピーカーから、女性の声が響いた。

 ルナの表情が変わった。


『繰り返します。第一共鳴者は、直ちに第零実験区画へ――』


 放送が途切れた。

 代わりに、ざらついた雑音が流れる。


『……出力が上昇している。予定値を超えているぞ』

『月側制御網から応答あり。同期率、七十二パーセント』

『待て、まだ接続承認は――』


 再び、雑音。

 ルナは立ち上がった。


「……カイくん」

「なあに?」

「ここで待っていてね」

「おねえちゃん、どこいくの?」

「ちょっとだけ、お仕事」

「すぐもどる?」


 ルナは答えるまでに、少し時間がかかった。


「……うん」


 それから、カイの頭を優しく撫でた。


「すぐ戻るから」


 そう言って、廊下の奥へ歩いていった。

 銀色の髪が角を曲がり、見えなくなる。

 カイは窓のそばに立ったまま、その背中を見送った。

 まだ、約束の小指が温かかった。


 *


 最初の異変は、床の振動だった。

 ごとん、と何か大きなものが動く音がした。

 続いて、照明が一度だけ消えた。


「……?」


 カイが顔を上げる。

 照明はすぐに戻った。

 けれど、白かった廊下の端に、赤い光が灯っていた。


『警告。中枢同期異常』


 機械の声。


『月側制御網、応答停止』


 別の場所で、誰かが叫んだ。


「接続を切れ!」

「切断命令を受け付けません!」

「第一共鳴者を中枢から離せ!」

「駄目です! 制御系が――!」


 轟音。


 施設全体が大きく揺れた。

 カイは床に尻もちをついた。


「……いたっ」


 遠くでガラスが割れる音がした。

 天井から白い粉が落ちてくる。

 赤い照明が、次々と点滅を始めた。


『全職員に通達。緊急退避を開始してください』


 足音が響いた。

 大人たちが走っていく。

 誰かがカイの前を通り過ぎた。

 けれど、誰も立ち止まらなかった。


「……おかあさん?」


 カイは立ち上がった。

 待合室へ戻ろうとした、そのとき。

 窓の外で、空が光った。

 青白い光だった。

 

 まるで、夜空の向こうにもう一つ太陽が生まれたような。

 カイは思わず窓を見上げた。

 月が、光っていた。

 いつもとは違う。

 月の表面に、細い青い線が走っている。


 一本。

 二本。

 無数の線が、蜘蛛の巣のように広がっていく。


「……おつきさま?」


 小さな声が漏れた。

 次の瞬間。

 月に、亀裂が入った。


 *


 施設の奥深く。

 巨大な円形の実験室で、ルナは青い光に包まれていた。

 彼女の前には、空中に浮かぶ複雑な機械構造があった。

 幾重もの金属環。

 その中心にある、脈動する青い結晶。

 研究員たちが操作卓に向かって叫んでいる。


「共鳴率、九十一パーセント!」

「月側の中枢がこちらの制御権を上書きしています!」

「第一共鳴者を切り離せ!」

「不可能です! 生命維持系まで接続されています!」


 ルナは歯を食いしばった。

 胸元が熱い。

 何かが、自分の内側へ流れ込んでくる。

 声ではない。

 言葉でもない。

 けれど、無数の命令が頭の中を通り過ぎていくのがわかった。

 

 維持。

 保存。

 排除。

 再起動。


 理解できない情報の奔流に、意識が引き裂かれそうになる。


「……やめて」


 ルナは小さく呟いた。


「お願い……もう、やめて……」


 誰にも届かない。

 そのとき、操作卓の一つに映像が現れた。

 施設内の監視カメラ。

 崩れ始めた廊下。

 赤い非常灯。


 そして――


「……カイくん?」


 画面の隅に、小さな少年が映っていた。

 誰もいない廊下で、必死に何かを探している。

 ルナの胸が締めつけられた。

 自分は、あの子に約束した。

 すぐ戻ると。

 一緒に帰ろうと。


「……あの子を、逃がしてください」


 ルナが言った。

 研究員は振り返らなかった。


「今はそれどころじゃない!」

「まだ小さな子供が中にいるんです!」

「全区画の退避は自動処理されている!」

「でも……!」


 画面の中で、カイが転んだ。

 ルナは息を呑んだ。

 

 その瞬間、胸元の青い光が強くなった。

 彼女の意識に、見知らぬ経路図が浮かぶ。


 施設の通路。

 非常扉。

 避難用の搬送装置。

 そして、カイのいる場所。

 どうしてわかるのか、自分でも理解できなかった。

 ただ一つだけ、確信した。

 この装置は、まだあの子を救える。


「……お願い」


 ルナは震える手を、青い結晶へ伸ばした。


「私のことは、どうなってもいいから……」


 指先が光に触れる。


「……あの子だけは」


 機械の環が、一斉に回転を始めた。


 *


「……おねえちゃん!」


 カイは泣いていた。

 廊下には煙が流れ込んでいた。

 どこかで火花が散っている。

 母親も、ルナも、見つからない。

 帰り道もわからない。


「……こわいよ」


 足が震える。

 もう歩きたくなかった。

 

 そのとき。

 閉じていた非常扉が、突然開いた。

 青い光が、床を細く照らした。


『避難経路を再設定しました』


 聞いたことのない、柔らかな機械音声。

 カイは顔を上げた。

 廊下の奥に、銀色の髪が見えた気がした。


「……るな?」


 返事はない。

 けれど、青い光が先へ続いている。

 カイは立ち上がった。

 一歩。

 また一歩。

 光を追って走り出す。

 その途中で、右腕が熱くなった。


「……あつっ!」


 袖の下から、青い光が漏れていた。

 見たことのない模様が、右の前腕に浮かんでいる。

 痛みは一瞬だった。

 そのあと、不思議な感覚が胸に広がった。

 誰かが、自分の手を握っているような。

 さっき、窓の前で小指をつないだときのような。


『……カイくん』


 声がした。

 カイは振り返った。


「おねえちゃん?」


『……そのまま、走って』


 ルナの声だった。

 遠くて、かすれていた。

 でも、確かにルナの声だった。


「おねえちゃんは?」


 返事がない。


「いっしょに、かえるんでしょ?」


 少しだけ、沈黙があった。

 

 そして。


『……うん』


 優しい声が答えた。


『だから、先に行ってて』


 カイは頷いた。


「……わかった!」


 青い光を追って、少年は走った。

 もう少しで出口だった。

 大きな扉の向こうに、夜の街が見えた。

 けれど、その空は――

 もう、いつもの空ではなかった。


 *


 月が砕けていた。

 巨大な光の破片が、夜空をゆっくりと広がっていく。

 白く輝く欠片。

 青い閃光。

 遠くで燃え上がる建物。

 地平線の向こうから、低い轟音が響いていた。

 

 カイは立ち止まった。


「……おつきさま……」


 あんなにきれいだった月が。

 ルナと一緒に見た月が。

 ばらばらになっていた。

 空から何かが落ちてくる。

 流れ星のように見えた。


 けれど、それは星ではなかった。

 黒い金属の塊。

 赤い光を灯した、異形の機械。

 地面へ落下したそれが、ゆっくりと脚を伸ばす。

 

 そして、動き始めた。


 人々の悲鳴が上がる。

 カイは、その光景を理解できなかった。

 ただ、怖かった。

 帰りたかった。

 母親に会いたかった。

 ルナと、もう一度月を見たかった。


「……おねえちゃん」


 そのとき、背後の施設が激しく揺れた。

 爆発音。

 吹きつける熱風。

 カイの小さな身体が、地面へ投げ出された。

 視界が白く染まる。

 耳鳴りがした。

 遠くで誰かが叫んでいる。

 けれど、もう何も聞き取れなかった。


 意識が薄れていく。

 最後に見えたのは、砕けた月だった。


 そして。

 その光の中に、銀色の髪をした少女の姿が見えた気がした。


『……カイ』


 懐かしい声。


『いつか、また会おうね』


 少年は、手を伸ばした。

 けれど、その手は誰にも届かなかった。


 *


 その夜を境に、世界は変わった。

 砕けた月の破片が地上へ降り注ぎ、数え切れないほどの都市が失われた。

 未知の機械群が現れ、人類は長い戦いを強いられることになる。

 生き残った人々は巨大な城壁を築き、その内側に新たな都市を作った。


 城壁都市エリュシオン。

 最後の楽園と呼ばれるその街で、人々は砕けた月を見上げながら生き続けた。

 

 そして、十七年が過ぎた。

 

 あの夜、少女の手を握っていた少年は、二十二歳になった。

 失われた幼少期の記憶。

 右腕に残された青い刻印。

 理由もわからないまま、繰り返し見る夢。

 白い廊下。

 大きな月。

 銀色の髪。

 そして、誰かの声。


――いっしょに、かえろう。


 少年は、まだ知らない。

 あの日の約束が、今も果たされないまま残っていることを。


 砕けた月の下で、止まっていた運命が再び動き始めようとしていた。

 もう一度、出会うために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。