プロローグ 月が砕けた夜
その夜、月が砕けた。
けれど、五歳の少年はまだ知らなかった。
自分が見上げたあの月が、二度と元の姿には戻らないことを。
そして、あの夜に交わした小さな約束が、十七年後の運命を変えることになるなんて。
*
「……おかあさん」
少年の声が、白い廊下に吸い込まれていった。
返事はない。
天井には細長い照明が並び、磨き上げられた床にはその光がぼんやりと映っている。
壁も、扉も、椅子も、みんな白い。
少年――カイは、この場所が嫌いだった。
窓が少なく、外の音も聞こえない。
知らない大人たちは、いつも難しい言葉を話している。
それに、ここへ来るたびに母親がいなくなる。
「……まだかな」
待合室の長椅子に座ったカイは、ぶらぶらと足を揺らした。
足先は床に届かない。
膝の上には、小さな布袋が置かれている。
中に入っているのは、母親が持たせてくれた飴玉が一つ。
もう一つあったけれど、待っている間に食べてしまった。
残った一つは、母親が戻ってきたらあげようと思っていた。
壁の時計を見上げる。
長い針が、少しだけ動いていた。
どれくらい待ったのだろう。
カイにはわからなかった。
「……おかあさん」
もう一度呼んでみる。
やっぱり、返事はなかった。
泣いてはいけない。
そう言われたわけではない。
けれど、泣くと大人たちが困った顔をすることを、カイは知っていた。
だから、唇をぎゅっと結んだ。
そのときだった。
「……どうしたの?」
頭の上から、優しい声が降ってきた。
顔を上げる。
そこに、一人の少女が立っていた。
長い銀白色の髪。
透き通るような淡い青色の瞳。
白い服を着た少女は、少し心配そうにカイを見つめていた。
母親よりずっと若く見える。
でも、カイよりはずっと大人だった。
「……おかあさんが、いない」
少女は小さく目を細めた。
「そっか。お母さんを待ってるんだね」
カイが頷くと、少女は隣の長椅子を指さした。
「ここ、座ってもいい?」
「……うん」
「ありがとう」
少女はカイの隣に腰を下ろした。
銀色の髪が、ふわりと肩から流れ落ちる。
「お名前は?」
「……カイ」
「カイくん?」
「うん」
「いい名前だね」
少女は微笑んだ。
「私はルナ」
「……るな?」
「そう。ルナ」
カイは首を傾げた。
「おつきさま?」
「え?」
「るなって、おつきさま?」
少女は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「……うん。そういう意味もあるね」
「じゃあ、おつきさまのおねえちゃんだ」
「ふふっ。そうかもしれない」
その笑顔を見て、カイも少しだけ笑った。
さっきまで胸の奥にあった寂しさが、少しだけ小さくなった気がした。
*
「ねえ、カイくん」
しばらくして、ルナが窓のある廊下を指さした。
「お月さま、見に行かない?」
「おつきさま?」
「うん。すぐそこに、大きな窓があるの」
カイは迷った。
母親が戻ってきたとき、自分がいなかったら困るかもしれない。
すると、ルナはすぐに気づいたようだった。
「大丈夫。待合室が見えるところまでにしよう。お母さんが戻ってきたら、すぐわかるから」
「……うん!」
二人は待合室のすぐ横にある、大きな観測窓へ向かった。
窓の向こうには、夜の街が広がっていた。
遠くまで続く建物の明かり。
空をゆっくりと横切る飛行灯。
そして、その上に浮かぶ大きな月。
「……わあ」
カイは窓に両手をついた。
月は、いつも家から見ているものよりも大きく感じられた。
「きれいでしょ?」
「うん!」
「私も、ここから見る月が好きなの」
ルナは窓の外を見つめた。
けれど、その横顔は少しだけ寂しそうだった。
「……おねえちゃん」
「なあに?」
「おうち、かえらないの?」
ルナの瞳が、わずかに揺れた。
「……帰りたいよ」
「じゃあ、かえろうよ」
あまりにも簡単な答えだった。
ルナは驚いたようにカイを見た。
「……そうだね」
そして、静かに微笑んだ。
「いつか、帰れるといいな」
カイは首を振った。
「いつかじゃないよ」
「え?」
「いっしょに、かえろう」
小さな手が、ルナの服の裾をつかんだ。
ルナは、その手をじっと見つめた。
何かを言おうとして、言葉を飲み込む。
それから、そっと膝を折った。
「……ありがとう、カイくん」
彼女は少年と目の高さを合わせた。
「うん。約束ね」
小指を差し出す。
カイは嬉しそうに、自分の小指を絡めた。
「やくそく!」
ルナは笑った。
けれど、その笑顔がほんの少しだけ泣きそうに見えたことを、カイは覚えていない。
その瞬間だった。
施設の奥で、低い警報音が鳴った。
*
『第一共鳴者は、準備室へ移動してください』
天井のスピーカーから、女性の声が響いた。
ルナの表情が変わった。
『繰り返します。第一共鳴者は、直ちに第零実験区画へ――』
放送が途切れた。
代わりに、ざらついた雑音が流れる。
『……出力が上昇している。予定値を超えているぞ』
『月側制御網から応答あり。同期率、七十二パーセント』
『待て、まだ接続承認は――』
再び、雑音。
ルナは立ち上がった。
「……カイくん」
「なあに?」
「ここで待っていてね」
「おねえちゃん、どこいくの?」
「ちょっとだけ、お仕事」
「すぐもどる?」
ルナは答えるまでに、少し時間がかかった。
「……うん」
それから、カイの頭を優しく撫でた。
「すぐ戻るから」
そう言って、廊下の奥へ歩いていった。
銀色の髪が角を曲がり、見えなくなる。
カイは窓のそばに立ったまま、その背中を見送った。
まだ、約束の小指が温かかった。
*
最初の異変は、床の振動だった。
ごとん、と何か大きなものが動く音がした。
続いて、照明が一度だけ消えた。
「……?」
カイが顔を上げる。
照明はすぐに戻った。
けれど、白かった廊下の端に、赤い光が灯っていた。
『警告。中枢同期異常』
機械の声。
『月側制御網、応答停止』
別の場所で、誰かが叫んだ。
「接続を切れ!」
「切断命令を受け付けません!」
「第一共鳴者を中枢から離せ!」
「駄目です! 制御系が――!」
轟音。
施設全体が大きく揺れた。
カイは床に尻もちをついた。
「……いたっ」
遠くでガラスが割れる音がした。
天井から白い粉が落ちてくる。
赤い照明が、次々と点滅を始めた。
『全職員に通達。緊急退避を開始してください』
足音が響いた。
大人たちが走っていく。
誰かがカイの前を通り過ぎた。
けれど、誰も立ち止まらなかった。
「……おかあさん?」
カイは立ち上がった。
待合室へ戻ろうとした、そのとき。
窓の外で、空が光った。
青白い光だった。
まるで、夜空の向こうにもう一つ太陽が生まれたような。
カイは思わず窓を見上げた。
月が、光っていた。
いつもとは違う。
月の表面に、細い青い線が走っている。
一本。
二本。
無数の線が、蜘蛛の巣のように広がっていく。
「……おつきさま?」
小さな声が漏れた。
次の瞬間。
月に、亀裂が入った。
*
施設の奥深く。
巨大な円形の実験室で、ルナは青い光に包まれていた。
彼女の前には、空中に浮かぶ複雑な機械構造があった。
幾重もの金属環。
その中心にある、脈動する青い結晶。
研究員たちが操作卓に向かって叫んでいる。
「共鳴率、九十一パーセント!」
「月側の中枢がこちらの制御権を上書きしています!」
「第一共鳴者を切り離せ!」
「不可能です! 生命維持系まで接続されています!」
ルナは歯を食いしばった。
胸元が熱い。
何かが、自分の内側へ流れ込んでくる。
声ではない。
言葉でもない。
けれど、無数の命令が頭の中を通り過ぎていくのがわかった。
維持。
保存。
排除。
再起動。
理解できない情報の奔流に、意識が引き裂かれそうになる。
「……やめて」
ルナは小さく呟いた。
「お願い……もう、やめて……」
誰にも届かない。
そのとき、操作卓の一つに映像が現れた。
施設内の監視カメラ。
崩れ始めた廊下。
赤い非常灯。
そして――
「……カイくん?」
画面の隅に、小さな少年が映っていた。
誰もいない廊下で、必死に何かを探している。
ルナの胸が締めつけられた。
自分は、あの子に約束した。
すぐ戻ると。
一緒に帰ろうと。
「……あの子を、逃がしてください」
ルナが言った。
研究員は振り返らなかった。
「今はそれどころじゃない!」
「まだ小さな子供が中にいるんです!」
「全区画の退避は自動処理されている!」
「でも……!」
画面の中で、カイが転んだ。
ルナは息を呑んだ。
その瞬間、胸元の青い光が強くなった。
彼女の意識に、見知らぬ経路図が浮かぶ。
施設の通路。
非常扉。
避難用の搬送装置。
そして、カイのいる場所。
どうしてわかるのか、自分でも理解できなかった。
ただ一つだけ、確信した。
この装置は、まだあの子を救える。
「……お願い」
ルナは震える手を、青い結晶へ伸ばした。
「私のことは、どうなってもいいから……」
指先が光に触れる。
「……あの子だけは」
機械の環が、一斉に回転を始めた。
*
「……おねえちゃん!」
カイは泣いていた。
廊下には煙が流れ込んでいた。
どこかで火花が散っている。
母親も、ルナも、見つからない。
帰り道もわからない。
「……こわいよ」
足が震える。
もう歩きたくなかった。
そのとき。
閉じていた非常扉が、突然開いた。
青い光が、床を細く照らした。
『避難経路を再設定しました』
聞いたことのない、柔らかな機械音声。
カイは顔を上げた。
廊下の奥に、銀色の髪が見えた気がした。
「……るな?」
返事はない。
けれど、青い光が先へ続いている。
カイは立ち上がった。
一歩。
また一歩。
光を追って走り出す。
その途中で、右腕が熱くなった。
「……あつっ!」
袖の下から、青い光が漏れていた。
見たことのない模様が、右の前腕に浮かんでいる。
痛みは一瞬だった。
そのあと、不思議な感覚が胸に広がった。
誰かが、自分の手を握っているような。
さっき、窓の前で小指をつないだときのような。
『……カイくん』
声がした。
カイは振り返った。
「おねえちゃん?」
『……そのまま、走って』
ルナの声だった。
遠くて、かすれていた。
でも、確かにルナの声だった。
「おねえちゃんは?」
返事がない。
「いっしょに、かえるんでしょ?」
少しだけ、沈黙があった。
そして。
『……うん』
優しい声が答えた。
『だから、先に行ってて』
カイは頷いた。
「……わかった!」
青い光を追って、少年は走った。
もう少しで出口だった。
大きな扉の向こうに、夜の街が見えた。
けれど、その空は――
もう、いつもの空ではなかった。
*
月が砕けていた。
巨大な光の破片が、夜空をゆっくりと広がっていく。
白く輝く欠片。
青い閃光。
遠くで燃え上がる建物。
地平線の向こうから、低い轟音が響いていた。
カイは立ち止まった。
「……おつきさま……」
あんなにきれいだった月が。
ルナと一緒に見た月が。
ばらばらになっていた。
空から何かが落ちてくる。
流れ星のように見えた。
けれど、それは星ではなかった。
黒い金属の塊。
赤い光を灯した、異形の機械。
地面へ落下したそれが、ゆっくりと脚を伸ばす。
そして、動き始めた。
人々の悲鳴が上がる。
カイは、その光景を理解できなかった。
ただ、怖かった。
帰りたかった。
母親に会いたかった。
ルナと、もう一度月を見たかった。
「……おねえちゃん」
そのとき、背後の施設が激しく揺れた。
爆発音。
吹きつける熱風。
カイの小さな身体が、地面へ投げ出された。
視界が白く染まる。
耳鳴りがした。
遠くで誰かが叫んでいる。
けれど、もう何も聞き取れなかった。
意識が薄れていく。
最後に見えたのは、砕けた月だった。
そして。
その光の中に、銀色の髪をした少女の姿が見えた気がした。
『……カイ』
懐かしい声。
『いつか、また会おうね』
少年は、手を伸ばした。
けれど、その手は誰にも届かなかった。
*
その夜を境に、世界は変わった。
砕けた月の破片が地上へ降り注ぎ、数え切れないほどの都市が失われた。
未知の機械群が現れ、人類は長い戦いを強いられることになる。
生き残った人々は巨大な城壁を築き、その内側に新たな都市を作った。
城壁都市エリュシオン。
最後の楽園と呼ばれるその街で、人々は砕けた月を見上げながら生き続けた。
そして、十七年が過ぎた。
あの夜、少女の手を握っていた少年は、二十二歳になった。
失われた幼少期の記憶。
右腕に残された青い刻印。
理由もわからないまま、繰り返し見る夢。
白い廊下。
大きな月。
銀色の髪。
そして、誰かの声。
――いっしょに、かえろう。
少年は、まだ知らない。
あの日の約束が、今も果たされないまま残っていることを。
砕けた月の下で、止まっていた運命が再び動き始めようとしていた。
もう一度、出会うために。




