エピソード1 頁4
パキッ――。
その希望は、か細い金属音と共に砕け散る。
刃が猟獣の前肢に1/2インチ*ほど食い込み、そのまま刀身は根本数インチを残して折れてしまっていた。
安物の片手剣だ。骨董品のような状態のものを、新米冒険者のあまりに頼りない稼ぎのなかから捻出して買ったボロの中古品だ。初めからこうなることはわかっていたようなものだ。
こんな時でさえなければ。
堪えきれないほどの諦念が肩に重くのしかかる。
そして、一瞬の弛緩が、均衡を大きく揺るがす。
「ぅぐぁッ!」
「フードルっ」
猟獣の巨体による体当たりで吹き飛ばされたフードルの身体は、もはや受け身を取る気力さえ残されていない。
チワのフードルを案じる声でさえ、彼の意識を支えることはできそうになかった。
剣は折れた。全身傷だらけで満身創痍だ。己の限界を越えた無茶を繰り返したせいで満足に立つことさえできない。
力なくうなだれる少年の鼻先からぽたりと滴る雫が地面に吸い込まれ、消えていく。
その珠のような雫に映える表情は――。
「――……ら……っ。……だから……どうした……ッ!」
それはもはや、執念だった。
理屈も理性も存在しない。そこにあるのは意思の力だけだ。
武器もない、体力も残されていない、それでもまだ立ち上ろうとする。
こんなところで終わるわけにはいかないと、諦めるわけにはいかないと、ただの少年の胸裏に灯る執念が希望を手放すことをよしとしない。
◇◆◇
虫の息の獲物を前にして、猟獣の頭領個体はようよう前へと歩み出た。
己が指揮を執り、群れを操って獲物を甚振り、消耗させ、絶望の淵へと突き落とす。
そうして這いつくばった獲物の死を悟った表情をして、初めてその空虚な欲望は満たされる。
諦めは肉を醸成させ、絶望は血を極上の味へと昇華させる。それこそが狩りの醍醐味。
下卑た笑みを思わせる表情を浮かべ、猟獣は獲物の顔を覗き込み――そしてぴたりと固まる。
この脆弱な存在は確かに虫の息だ。もはやその命は風前の灯。ざらつく舌の上で転がされている肉に過ぎない。
なのに、それだというのにどういうことか。その眼差しに一点の曇りも見えない。
諦めだとか、絶望だとか、そのような負の感情など微塵も感じさせない。
そのようなことは到底許すことなどできない。できようはずもない。
狩場において、”狩られるもの”は、”狩るもの”を楽しませる存在でなければならない。
それこそが自然の摂理だったはずだ。
あまりの怒りに、猟獣の親玉は目の前が赤くなっていくのを感じていた――。
◇◆◇
ようやく、フードルの眼前に活路は開かれた。
群れを統率する脳みそともいえる頭領個体が、群れの最奥に控え決してこちらの刃が届く位置まで出てくることがなかった相手が。
いま、フードルの手の届く位置まで来ようとしている。
あとは賭けるしかない。群れの頭領が討ち果たされた末に、群れが散り散りに逃げ去っていくのを。
この最悪の展開のなかで、最高の結末を手中に描いて掴み取るだけだ。
幸いにも、目の前の目標は怒りに震え冷静さを失っている。
(そう。そうだ。そうだ。そうだ。あと少し、もう少し――)
「――こいッ!」
フードルが叫ぶや否やに、怒りに顰めたその双眸を吊り上げ、凶悪な顎をこれでもかとかっぴらく。
喉の奥から憎しみの呪詛にも似た低い唸りが轟き、血肉を求めて涎が滴っていた。
喉笛を嚙み砕かんと迫るその凶器に対して、フードルは左手に掲げた盾を差し出す。
粗雑に揃えて結いつけられた木の枝の盾は、その役割を全うできずして砕け散った。
あまりの牙の鋭さ、あまりの咬合力。
猟獣は邪魔な盾を破り、そのままフードルのもとへ迫る。
盾を持っていた上腕部を覆う籠手に牙がめり込み、突き破った。
鉄板をへし曲げて作られた粗雑な防具が砕け散っていく。
ひび割れた隙間から鮮血が噴き出し、左腕が激痛に苛まれる。
これから起きることを考えると、フードルは場違いな憂鬱さを抱いていた。
顎を受け止めた手の先端が痺れて感覚が失われていく最中に、胸中に湧いたその感情は――。
勝利と、そう確信していた。
「――おかえし……だッ!」
右手に持ったままの剣。折れてしまった歪なその断面は、複雑な形状で尖っていた。ともすれば、折れてしまう以前よりも鋭利に。
ぐじゅ、と。
赤く血走った煌々《こうこう》と光るその双眸の、その片方へ目掛けて振り下ろされた剣が抉りこむように突き立てられる。
飛び散る血飛沫と、苦しげな呻きが悲痛に場を支配する。
群れ全体に戸惑いが波及していくのが見て取れた。
やがて痛ましく鳴り響く甲高い遠吠えが森の木立を駆け抜け、群れは一匹、また一匹と霧の奥へと逃げ去っていく。
呆然とその後ろ姿を見届けていると、霧に隠れた獰猛な光がひとつ。
フードルを激しく睨めつけ、憎しみの色を宿して、そのうちに霧の奥へかき消えていった。
「終わっ……た、のか……?」
もはやまともに動けそうにない。フードルはいまにも崩れ落ちそうな身体をどうにか支えて、歯の根の隙間から震える声が漏れ出た。
「無事ですかっ、フードル‼」
ようやく群れの執拗な攻めから解放されたであろうシバと、ライカに支えられたチワがフードルのもとへと駆け寄ってきた。
死線を越えた。一先ずは。
これから痛む身体を引きずりながら安全な霧の外まで退避しなければならない。
用意して早々だめにしてしまった装備たちのことを考えると頭も痛む。
「あー……めちゃくちゃ腕痛ぇ……」
*1インチ = 約2.54センチ




