エピソード1 頁2
――やがて半刻も経っただろうか。
いまだ獣は姿を見せない。野生に棲まうものとしての警戒心の高さの表れなのか、それとも周到に狩りの準備を詰めていくだけの知性を持っているとでもいうのか。
フードルはこれまでも十余年の短い人生のなかで大なり小なり野生動物と対峙したことが幾度かあったが、いまだかつてそんな獣は見たことがなかった。
いま、フードルら四人は二手に分かれて身を潜めていた。
来た道を少し引き返して、特に茂みが密集していた木陰に身を低くして息を潜めるふたりと、その頭上――樹上で眼下の様子を窺うふたりと、だ。
身軽な運動能力と、純粋な肉体や装備の重量を考慮して、地上はフードル・シバのふたり、樹上はチワとライカのふたりに分かれた。
言うに及ばないことではあるが、ただ隠れても犬や狼の類に近い猟獣の鼻にかかればかくれんぼにもならないであろうことは四人も判っていた。
シバが打った奇策は、泥臭くも確実なものだった。すなわち、獣の鼻を欺くために己の身を森そのものへと変えるというものだ。
「うっ……実家の裏手にあった林の臭いがすぶ……」
「しっ、静かに……っ! 我慢してくださいフードル」
木陰に隠れて伏したふたり組は身体の至るところに臭いの強烈な野草をすりつぶして塗りたくっていた。樹上に隠れたふたりも同様の迷彩を施している。
木を隠すなら森のなかといったところだろうか。この場合は人を森の中に隠すためにまず木にならねばならない。そのために野草に塗れ、その身を晦まそうという考えだった。
やがて低い唸り声は移動を始めた。
それなりの質量が地面の下生えを躙る音が近づく。
手がかりを追う鼻を鳴らす音が。
獲物を求めて熱を帯びる息遣いが。
フードルたちを追い詰め餌食にせんと行軍する軍靴の音が。
わずか数ヤード*にも満たない鼻先の距離を通り過ぎていく。
気づかれてはならない。体勢も陣形もまともに整っていないいま、野生動物相手に多勢に無勢では命に関わることも想像に難くない。
息を殺して。心臓の音さえいまは厭わしい。一瞬が永遠のように感じられる――。
最後尾と思われる獣の足音が遠ざかっていくその最中に、不穏に軋む音がフードルの頭上から響いた。――みしり、と。
「あっ――」
「チワっ」
一瞬の出来事だった。
チワのあっけに取られた短いうめき。チワを呼ぶライカの声。
軽やかに身を翻し迫りくる猟獣の唸り。
「――ぅあああああああああああああっ‼」
フードルは考えるよりも先に行動していた。
上体を起こして体勢を整え、茂みから飛び出すと、そこに見えたのはへし折れて落下した太い枝と、受け身の姿勢で痛みに顔を歪めたチワの姿、そして迫り来る醜い獣の痩躯。
いまにも食らいつかんと邪悪な牙を剥き出しにして、涎を撒き散らしながら突進する姿は、まさに餓えた獣のそれだ。
痛めてしまったのか足を庇うチワは、身を起こそうにもすぐには立てそうにない。
危機的状況下においてフードルはただ、脳の奥が焼けつくような熱さを感じていた。
視界は驚くほどに冴え渡り、迫り来る獣の動きが、まるで泥の中にいるかのように遅く見えた。
「お前の相手はこっちだッ!」
猟獣の進路上に割って入るように、剣を構える。
距離を測って、タイミングを読む。技術もなにもない、ただの振り下ろしだ。得物も平凡な剣で、手入れも素人の扱いで刃が生きているともいえない。斬るというより打ち付けるようなものだ。それでも重量に飽かせて打ち据えれば小型の獣ならばひとたまりもなかろう。
――当たりさえ、すれば。
*1ヤード: 91.44cm




