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アストリド・フロントライン  作者: ことり
Episode 1."Silver-Line"

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エピソード1 頁18

 夜闇《やあん》と黒霧(こくむ)が場を支配する戦場。

 その視界不良は人体の限界から人間に不利をもたらし、環境に適応した魔物に有利をもたらす。それを十二分に理解しているからこそ、ハルの次の行動は決まっていた。


 光源になりうる【ルミナスバトン】は手持ちに三本ある。光量自体は夜の闇を退《しりぞ》けるには心許《こころもと》ないが、これがハルたちにとっての命綱(いのちづな)に等しい。これを最大限に活用していく必要があった。


 一本を護衛対象のチワ・シバを横たわらせているログハウスの壁付近に。

 残りの二本は家屋の正面入り口から見てそれぞれ十時《じゅうじ》、二時《にじ》の方角、少し離れた位置の地面に放る。だがそれだけではバトンの周囲の地面がやや明るくなった程度のものだ。


 そこでハルは続けて、小袋《ポーチ》のなかから拳大《こぶしだい》ほどの麻袋(あさぶくろ)を取り出した。


 袋の中身は、【マナ・モルフォアの鱗粉《りんぷん》】。

 【暗黒地帯】内でのみ育つ大型の蛾《が》の魔物が纏《まと》う鱗粉だ。


 通常は空中に散布(さんぷ)するように撒(ま)くことで疑似的(ぎじてき)に【暗黒地帯】のなかでも一際霧の濃い場所と同様の環境を一時的に作り出し、魔物が相手であっても強力な幻覚に陥(おとしい)れることができる代物(しろもの)だった。


 だが通常の使い方では戦闘を有利に進められても少数相手のみで、霧が有効な範囲がごく限られるため”猟獣《ハウンド》”の群れ相手では有効とはいえない。

 ハルはその鱗粉《りんぷん》を、別の目的で使うために取り出していた。


 その麻袋(あさぶくろ)の中身を取り出す前に屈《かが》みこみ、地面を指で軽く撫でる。

 木造家屋(ログハウス)の付近は下生《したば》えが薄く、土が見えている部分もある。土はほどよく湿っているが、部分的に乾燥しているところも見受けられた。

 より乾燥している土くれを指で少量摘(つ)まむと、ハルは立ち上がり、自身の肩ほどの高さから土粒《つちつぶ》が細かくなるよう擦《す》りながら落とした。


 指から滑り落ちた土粒《つちつぶ》は、微(かす)かな風に乗ってハルの前方へ舞う。


 その結果に満足したように頷(うなず)き、【マナ・モルフォアの鱗粉《りんぷん》】を同様に撒(ま)いていく。


 フードル・ライカの前に出て、横に移動しつつ腕を頭上から肩あたりまで上げ下げすることで鱗粉《りんぷん》の散布範囲(さんぷはんい)に奥行きを作る。

 風に乗って撒(ま)かれた鱗粉《りんぷん》は地面に落下して、【ルミナスバトン】の光を細かく乱反射し、まるで地面が発光し始めたかのように幻想的な光景が広がっていく。


 照らされた黒霧(こくむ)のその奥から、尖兵(せんぺい)として”猟獣《ハウンド》”が六体、姿を見せた。


「さて、ここからが本番だな」


 言うが早いか、獣は熱《いき》り立って躍《おど》りかかってきた。


 間髪入(かんはつい)れずにライカは横へ滑るように飛びずさり、群れの先頭の側面に回り込む動きを見せる。

 ハルの演出した微光(びこう)を放つ舞台から飛び出ないよう細心の注意を払っていることが窺(うかが)えるところから彼女の賢《さか》しさが見て取れた。


 フードルは襲い来る二匹の”猟獣《ハウンド》”を正面から迎え撃つ。手に入れたばかりの両刃剣《ブロードソード》は以前使っていた片手剣《ショートソード》よりもやや重く、初めての実戦運用であることからも不安が残る。だが、そうも言っていられないのが現状だ。


 並んで襲い来る獣を、左手側は小円盾《ラウンドシールド》を差し出し牽制(けんせい)しつつ右手に携(たずさ)えた両刃剣《ブロードソード》を上段に振り上げて、そのまま重みに飽《あ》かせて振り下ろす。

 風を切り裂き振り下ろされた冷刃《れいじん》は、しかし空を裂くのみでそのまま地面へと吸い込まれていった。


 フードルの剣撃(けんげき)を掻《か》い潜《くぐ》った獣は身を翻《ひるがえ》して霧になかに消え、果たしてフードルの戦端《せんたん》は翻弄(ほんろう)されるに終わった。

 再度構え直して、フードルは改めて正面を見据(みす)える。


(こんなんじゃ前回ボロボロにされた時と同じだ! なんて進歩がない! 学ばなきゃ。失敗から学んで、失敗を繰り返さないようにするんだ……!)


 汗が頬(ほほ)を伝(つた)うのも忘れて、神経を集中させていく。視線を巡らせ霧の先を見通そうと試み、その際に視界の端にハルの大立ち回りが映った。


 これまでその背に担いだ荷を支える巨盾《タワーシールド》。それを手に持ち扱っている様子は、フードルにとって初めて見る光景だ。


 正面から襲いくる二体の”猟獣《ハウンド》”を迎え撃つように構えられた巨盾《タワーシールド》。前方からであればたとえ馬や牛が突進してこようと食い止められそうなほどどっしりとした構えだ。しかしそれは言い換えてしまえば、前方しか守れていないのではないか。


 フードルの懸念(けねん)通りに、身軽な”猟獣《ハウンド》”は行く手を阻む巨盾《タワーシールド》を躱《かわ》すように左右に展開し、その奥に隠れる獲物(えもの)へ向かって回り込んだ。


 対して守るハルは、まるで盾越しにその様子が見えているかのような間合いで盾を動かした。

 その様《さま》はまるで巨大な要塞(ようさい)が回転したかのようだ。ハルの左手側に回り込もうとした獣は突如として目の前に現れた壁に自慢の機敏(きびん)さも間に合わず、勢いのまま衝突し鼻柱が歪んで、悲痛な呻《うめ》きが木霊《こだま》する。


 右手側に回り込んだ”猟獣《ハウンド》”は相対的(そうたいてき)に背後を取る形となった。いまだと言わんばかりにその顎《あぎと》を大きく開き、無防備なはずの獲物(えもの)へ食らいつこうとする。そう――無防備なはず、それ故(ゆえ)に飛び込んだ一撃は間違いなく獲物(えもの)の喉笛(のどぶえ)に届くはずだったのだ。


 しかしその”猟獣《ハウンド》”の目論見(もくろみ)を迎え入れたのは、長い長い”脚”だった。


 ハルは巨盾《タワーシールド》を力《ちから》尽《ず》くで揺り動かした反動を身体(からだ)で留(とど)めず、そのまま振り回されるに任せるようにして下半身を投げうっていた。遠心力により加速したその左足が口を限界まで開けた”猟獣《ハウンド》”の下顎(したあご)を捉(とら)え、結果として間抜けに急所を差し出した獣を死角から打(う)ち据(す)えた。


 瞬(またた)く間(ま)に二体、守るための盾を中心に一連の動作(どうさ)で伸《の》してしまった――そう思ったフードルの思考は、そこからさらに裏切られる。


 ”猟獣《ハウンド》”を蹴り飛ばした脚を地面につけるとハルはそのまま踏ん張り、獣を弾(はじ)いた巨盾《タワーシールド》を背負うように身を屈(かが)めると、内側の持ち手を握る右腕が限界を越えて膨張(ぼうちょう)したように見えた。

 どれだけの重さを誇るのか想像もつかないその巨大な盾を、自身の身体(からだ)を中心にして持ち上げるとそのまま勢いまかせに振り回し、反対側の地面に叩きつけた。


 フードルの位置からでは見えづらかったが、どうやら斜め背後から回り込んだ獣がもう一体いたようだ。頭上(ずじょう)から迫り来る超質量の巨大な盾に感付《かんづ》きすんでのところで回避しようとした”猟獣《ハウンド》”だったが、あまりに大きなその鈍器にたまらず圧《お》し潰《つぶ》され、哀(あわ)れに地面へめりこんでしまったのであった。


 一連の動作(どうさ)で二体のみならず、三体の”猟獣《ハウンド》”を伸《の》してしまった。敵前にありながら、その人間離れした所業(しょぎょう)にフードルは身震いしてしまう。


 その時、霧の奥からさらに一体の”猟獣《ハウンド》”の甲高(かんだか)い呻《うめ》きが響いた。それとほぼ同時に、ライカが最初位置取っていた場所へ戻ってきたため、その手に握った小短剣《ダガーナイフ》が獣の敏捷(びんしょう)さに届いたのかもしれない。


 そうであれば、フードルが逃した二体がおそらく本隊に合流し、都合(つごう)四体は撃退し得たと思われる。迫り来る群れがはたしてどれだけの規模なのか想像もつかないが、フードルの胸には希望の灯(ひ)がさらに強く灯(とも)る。


 ――それからどれだけの時間が過ぎただろうか。


 幾度(いくど)か、背後でいまだ目覚めず眠りにつくふたりを狙った”猟獣《ハウンド》”もいたが、目敏《めざと》く看破(かんぱ)したライカがそれを咎《とが》めて未然(みぜん)に防ぎ、事なきを得ていた。


 その獣を逃《のが》してしまっているのは他ならぬフードルだ。遊撃のはずのライカの手さえ煩《わずら》わせ、後ろに”猟獣《ハウンド》”を通さないという自身の使命を果たせていない。


 得物(えもの)が重いのであれば振り方を変えては――そも振りが間に合わないのであれば一手先を予測してみては――盾をうまく活用して確実に”決められる”状況を作るのに専心(せんしん)しては――様々な思考が巡り、しかし回りまわってそれが雑念となってしまい、却《かえ》って身体の動きを鈍らせる。


 気付けばフードルの身体(からだ)には小さな傷がいくつも出来ていた。滲(にじ)む痛みが、自身の不甲斐(ふがい)なさを責め立てる。


 汗が顎を伝い、それを厭《いと》うように身動《みじろ》ぎ拭《ぬぐ》う。


 フードルはその瞬間、その所作(しょさ)を通じて、先《せん》だって”猟獣《ハウンド》”と相まみえた瞬間の感覚を思い出した。


 あの時は、ただがむしゃらだった。脳裏には状況を冷静に見て判断する自分がいながらも、身体(からだ)を突き動かす動力源は至って単純なものだったはずだ。

 それは、憧憬《しょうけい》に焦《こ》がれて見様見真似(みようみまね)しようとする浅ましい思考でも、自身の拙《つたな》さに焦燥(しょうそう)する見苦しい内省《ないせい》でもない。もっともっと、原始的な感情。


 そう、それは生《せい》への執念。


 仲間のために、故郷のために、こんなところで膝をつくわけにはいかない。


 そうだ。あの時と比べればまだマシだ。剣がある。盾がある。


 あとは”自分”だけだ。

 ”自分”だけが足りていなかった。


 そう気づいた瞬間、あの低く響く声が脳裏を掠《かす》める。



『――振り回されるな。おまえはおまえだ。おまえらしくいけ』



(そうか。オレ、とっくに答えをもらってた)


 知れず、フードルは笑っていた。苦境にありながらも、まるで宝物を見つけた少年のようにあどけない笑みを浮かべていたのだ。


 ”自分”というものを言葉にするには、まだ”自分”を知らなさすぎるけれど。

 あの時に感じた”生《なま》の感情”は、紛れもない、偽りようのない真実だ。それは、それだけは愚鈍(ぐどん)な自分でもわかっていた。


 ――余計な思考を削(そ)ぎ落(おと)せ。無駄な企図《きと》を手放せ。そんな高尚(こうしょう)な戦い方ができる器じゃあない。ただ、執着しろ。生きて還《かえ》る、ただそれだけを冀望《きぼう》しろ――!


 繰り返される獣の連係、まるで蠢《うごめ》く巨大なひとつの生物のように立て続けに襲い来る脅威(きょうい)に、その身をあえて投げ出す。


 フードルの急所を抉《えぐ》り取らんと差し出された鋭い爪牙《そうが》を盾で防ぐ。


 まだだ。まだ”考えて”、”動かしている”。これでは混じりけのない純粋な執着には至らない。


 勢いをまともに受け止めた左腕の骨の芯まで痺れが響く。


(研ぎ澄ませ。思考の空白を、縒《よ》るように細く細く研ぎ澄ませろ)


 躍(おど)りかかる”猟獣《ハウンド》”。それは奇《く》しくも、この戦いにおいて、そしてフードルと”猟獣《ハウンド》”たちとの因縁(いんねん)においても最初にぶつかったのと同様の構図だ。しかしそのような雑念はいまフードルの思考には片隅にも存在しない。


 ただただ、徐々に最適化されていく動きが反射的に出力される。


 これまで見てきた”盾の扱い方”が、フードルの執念の末《すえ》に最適解として弾(はじ)き出(だ)され、その動きを身体(からだ)が独(ひと)りでになぞる。


 左方(さほう)から襲い来る”猟獣《ハウンド》”、その突撃を盾で受け、いなす。受け流された獣の姿勢は崩れ、動きが鈍(にぶ)る。

 盾でいなすために流れた上体をそのままに。右手の剣を身体(からだ)の内側、左脇腹で溜め込む。まるで弓を引き絞るように窮屈(きゅうくつ)な体勢で溜め込まれたその切(き)っ先(さき)は、右方(うほう)から飛び込んできた”猟獣《ハウンド》”目掛(めが)けて、解き放たれる。


 ボッ――。


 空気が爆(は)ぜるような短い音と共に、剣閃(けんせん)が奔(はし)った。


 軌道上に差し出された獣の頭部が、まるで紙細工(かみざいく)に鋏《はさみ》を入れるが如(ごと)く、いとも容易(たやす)くなます切りとなった。


 そのあまりの勢いに骨まで両断(りょうだん)された”猟獣《ハウンド》”は、ともすれば切られた直後には自身の絶命を理解できていなかったのではないか。

 獲物(えもの)に届かず地面に着地した胴体から伸びる四肢(しし)は余勢《よせい》を駆《か》り数歩歩くと、そこで糸が切れた人形のように、力なく頽《くずお》れるのであった。


 その様子を盾とフードルの身体(からだ)の隙間から垣間《かいま》見《み》たもう一体の”猟獣《ハウンド》”の瞳には、様々な色が混じって見えた。

 当惑(とうわく)、驚愕(きょうがく)、不可解(ふかかい)。それらが入り混じり織りなす色は――純粋な恐怖。


 身が竦《すく》んだ獣の顔に差す影。

 振り上げられた凶刃《きょうじん》が、これまでは他者へと容赦(ようしゃ)なく突き立ててきた命を奪う鋭利(えいり)さが、いま自身へと無慈悲に振り下ろされるのを待つことしかできない。


 刃(やいば)は果たして振り下ろされ、あまりに流れるような軽快さに獣は断末魔(だんまつま)をあげる間(ま)もなく絶命した。


 ◇◆◇


 ――初めはいつものように一方的な狩猟《かり》のつもりだった。

 獲物(えもの)を甚振《いたぶ》り、脆《もろ》い命を弄《もてあそ》ぶ。そうすることで見られる獲物(えもの)の諦念と絶望が綯《な》い交《ま》ぜになった感情に触れた時に、自身という存在が満たされていくのだ。


 諦めは肉を醸成《じょうせい》させ、絶望は血を極上の味へと昇華《しょうか》させる。それこそが狩りの醍醐味《だいごみ》。

 それはまさしく、猟獣としての信念にも似たものだ。


 ――だが、それがいまはどうだ?

 遣《つか》わせた先槍《さきやり》はことごとく打倒《うちたお》されていく。これまで築き上げてきた群れが、群体《ぐんたい》としての戦力が見(み)る間(ま)に削(そ)ぎ落(おと)されていく。まるで一本また一本と腕を捥《も》がれていく羽虫(はむし)のようではないか?


 復讐(ふくしゅう)を果たす筈《はず》ではなかったのか? 左の眼《まなこ》を奪われた雪辱《せつじょく》を雪(そそ)ぐために追い立てていたのではなかったのか?


 今宵《こよい》の狩場において、”脆弱な筈の存在(やつら)”に狩られるのは”猟獣《われら》”だったのか?


 原初に刻み込まれたその本能は、闘争心か、それとも――。


 震えを自覚した”猟獣《ハウンド》”の頭領《リーダー》は、知れず後ずさる四肢《しし》を、逆巻く尾を、もはや自身では制御できなくなっていた。


 ◇◆◇


 がらん――。


 場違いにも思える鐘(かね)の音(ね)が響く。


 それまで統率(とうそつ)の取れた動きで、うねる大きな生物のように連係して襲い掛かってきていた”猟獣《ハウンド》”たちの規律(きりつ)が乱れを見せる。


 フードルに向けられた敵意の多くが、ハルの方へと向き直っていた。


 一際《ひときわ》体躯《たいく》の大きな個体もまたハルの一挙手一投足を窺(うかが)い、いまにも襲い掛からんとしている。


 その個体の背後、霧のなかから音もなくちいさな人影がゆらりと現れた。

 低い姿勢から前肢《ぜんし》の腱《けん》と、首筋を掻《か》き切《き》るように明確な殺意を持って煌《きら》めく二挺《にちょう》の小短剣《ダガーナイフ》。


 しかしその軌道が”猟獣《ハウンド》”の精鋭を捉(とら)えることはなかった。


 その他大勢の個体と比べてはるかに洗練(せんれん)された身のこなしで翻《ひるがえ》ったその屈強な肢体《したい》は、獣の本能とでもいえる恐るべき直感によってライカの不意打ちを回避せしめた。


 不発に終わったライカもまた霧に紛れて退《しりぞ》こうと試みるも、霧を纏(まと)って背後に回るのはなにも彼女だけの独擅場(どくせんじょう)というわけではない。

 攻勢に回るため、一瞬の隙を晒(さら)したライカの首筋に、折(おり)しも一匹の獣の牙が迫(せま)っていた。


 回避は間に合わない。ライカの唖然(あぜん)とした表情。フードルは事態に気が付き、しかし無我(むが)に至っていた思考の空白《ブランク》に、回避行動を促す言葉さえ紡(つむ)ぐことが叶わない。


 これまで戦況を巧(たく)みに繋ぎ留めていた要《かなめ》が、失われてしまう――。


 その運命を左右したのは、思いがけず振り下ろされた鈍器だった。


 破砕《はさい》に特化すべく角ばった先端が伸びる、その武器は鎚矛《メイス》。

 面《おもて》に生真面目(きまじめ)な表情を張りつけ、青年は鈍器をかざしていた。


「間に合ってよかった。無事でしたか、ライカ」


「~~~~~っ! バカッ、バカシバ、おっせーんだよバーカ! 心配かけさせやがってこの大バカ!」


「すみません! こんな事態に眠りこけてしまっていたなんて……はずかしい限りです」


 フードルも叫びだしそうになった。シバの目が醒《さ》めた。そのことを喜ぶのもそうだが、もっと違う部分で声を上げそうになる。いや、無意識に叫んでいたかもしれない。


 肩を並べたシバとライカに向けて、回避体勢から身を翻(ひるがえ)した精鋭個体が、敵意を纏(まと)って躍《おど》りかかろうとしていたのだ。


 あの隆起《りゅうき》した体躯《たいく》は、かつてフードルの片手剣《ショートソード》による剣撃(けんげき)を受けてなお刃(は)が立たなかった。


 ライカの小短剣《ダガーナイフ》では動きを止められるだけの深手(ふかで)を負(お)わせるのは難しいだろう。シバの打撃は破壊力こそあれど”猟獣《ハウンド》”の軽(かろ)やかな身のこなしを真正面から捉(とら)えられるかどうかわからない。


 いまだ最悪の未来は手ぐすねを引いて待ち受けている。それを弾き返せるとしたら――。


 フードルは心の奥底で、たとえ戦いに没頭(ぼっとう)し無我(むが)に至っていたとしても無意識の片隅で、信じていた。いまにも彼女の目が醒《さ》めることを。


 ぴゅうと矢羽《やばね》が風切(かざき)る音が響き、精確無比(せいかくむひ)な射撃が精鋭個体の肩口に突き刺さる。


「チワ……っ!」


 振り向くと、そこにはしゃがみ姿勢のまま弓を構え、次《つ》ぐの矢を番《つが》えるチワの姿があった。


「ごめんね、おまたせ」


 チワが引き絞った弓矢を放つと、射出された矢弾(やだま)は再び空を裂き、今度はフードル目掛けて飛びかかろうとしていた”猟獣《ハウンド》”の眉間を貫いた。


「ようやくだな」


 【ヒードベル】によって引きつけた”猟獣《ハウンド》”の群れを十把《じっぱ》一絡《ひとから》げに巨盾《タワーシールド》の押し込みで薙(な)ぎ倒(たお)し、ハルが呟いた。

 その言葉はまさにというところで、まったく同じ言葉がフードルの胸を撫でおろさせていた。


 ようやく、ようやく形勢は建て直せた。

 昏睡《こんすい》していたチワとシバは目覚め、ハルの破竹(はちく)の勢いを筆頭に”猟獣《ハウンド》”の群れをことごとく迎撃せしめ、傍《かたわら》に侍《はべ》る精鋭個体までも手傷を負わせ、ようやく因縁(いんねん)の相手に手が届くところまできた。


 あ(・)の(・)時(・)は『来い』と、隙の糸口を晒(さら)して手の届くところまで出て来いと念じていたが、今度はこちらから向かって行ける。


 仲間の無事に胸を撫でおろすのもほんの一瞬だけだ。


 再びフードルは意識を戦闘に向ける。いま、ここに因縁(いんねん)が向かい合う。


 隊列が疎《まば》らになった”猟獣《ハウンド》”たちの群れを裂いて、フードルは一歩前へと進み出た。


 霧さえ道を明け渡すかのように、二者の間に遮(さえぎ)るものはなにもない。その傷痕《きずあと》によって閉じられた左目を震わせる”猟獣《ハウンド》”の頭領《リーダー》を正面に見据(みす)える。


 おそらく、勝負は一瞬で決する。どうしようもなくそう予感していた。


 息を整える。先ほどまで滝のように流れ出ていた汗さえも止まったかのように思える。


 いまこの瞬間に。待(ま)ち侘(わ)びたその時がきた。

 紙一重《かみひとえ》を掴み取れ。この瞬間にすべてを賭けろ――。


「――行くぞッ!」


 フードルが叫ぶ。

 その咆哮《ほうこう》に、相対(あいたい)する獣は何を想うのか。振りかざした剣を迎え撃つかのように、凶悪な顎《あぎと》をこれでもかとかっぴらく。

 喉の奥から憎しみの呪詛《じゅそ》にも似た低い唸《うな》りが轟《とどろ》き、血肉(けつにく)を求めて涎《よだれ》が滴《したた》る。


 左手に掲(かか)げた小円盾《ラウンドシールド》を差し出す。少年は盾越しに、相対(あいたい)する相手の挙動を確《しか》と見据(みす)えた。

 その盾を避けるように足運(あしはこ)びを変える獣。牽制(けんせい)として擦《す》れ違《ちが》い様(ざま)に、そのあまりに鋭利(えいり)な鉤爪《かぎづめ》が盾の表面を掠《かす》める。


 それだけで盾を持つ腕の骨身(ほねみ)にまで衝撃が伝わる。だがこれだけでは終わらない。


 横合いに襲い来る噛みつきに、身体(からだ)を引き再度盾を構える――否《いや》、それだと間に合わない。ならば――。


 身体(からだ)を捻(ひね)り、脇腹の隙間から両刃剣《ブロードソード》を突き出す。その刃(やいば)は肩口を嚙み千切ろうとするその口に吸い込まれていく。


 顎《あぎと》を受け止めた冷刃《れいじん》が、鋭い牙とぶつかり合いガチンと不快な音を立てた。そのまま嚙み砕こうとする”猟獣《ハウンド》”の渾身(こんしん)が、刃(やいば)を伝(つた)って感じ取れる。その目論見(もくろみ)を、そのまま通させるつもりはフードルにはなかった。


 あらん限りの力を振り絞って、両刃剣《ブロードソード》の柄《え》を握り締め、引き切る。

 まるで万力《まんりき》に固定されているかのように重いが、こめかみに浮かんだ血管が切れそうになるほどの渾身(こんしん)で以《もっ》て応酬(おうしゅう)する。


 果たして両刃剣《ブロードソード》は所々で詰まりながらも引き切り、”猟獣《ハウンド》”の口の端を切り裂くことに成功した。


 激痛に呻《うめ》く獣の、その死角となる左目側――フードルの右手から、両刃剣《ブロードソード》の切(き)っ先(さき)を狙い定めて――突き刺す。


 ずぶっ―――。


 肉を裂き、貫いた感触が掌《てのひら》に伝わってくる。

 間違いなく、急所に決まった。


 今度こそ、今度こそは、完全なる勝利の確信だ。

 間違いなく仕留(しと)めた手応(てごた)えをその手に感じていた。

 前回は根本(ねもと)から折れた剣だったが、今度は間違いなくその頭部を完全に穿《うが》っていた。


「オレのっ、――勝ちだ!」


 その獣の右目は驚愕(きょうがく)に見開かれ、戦慄(せんりつ)のままに色を失う。魔物の命を摘《つ》み取《と》った実感だけが、その手に残る。


 力なく頽《くずお》れた群れの統率者を前に、残された精鋭個体の太く響く遠吠(とおぼ)えが、群れの撤退を指示しているようだった。


 霧のなかへと消えていく敗残兵を見送りながら、息も絶(た)え絶(だ)えに額(ひたい)の汗を拭《ぬぐ》う。

 剣を握る手も、掲(かか)げた刃(やいば)も血まみれだ。

 全身の節々(ふしぶし)に鈍く響く痛みを自覚した時に、ようやく雑多な思考が戻ってくる。


 疲弊(ひへい)しきった全身を大地に投げうちたくなる欲望を搔(か)き集(あつ)めた意思で抑え込んでいると、肩にぽんと大きな手が置かれた。


「やったな」


 フードルが見上げると、そこには満足げに頷(うなず)くハルの顔があった。


「……はい! やりました、オレ!」


 どこまでも霧が深まるその夜に、ひとつの大きな因縁(いんねん)に決着がついた。





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