エピソード1 頁17
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――少年は芝生のうえに立っていた。あたたかな陽だまり。頬をくすぐる青い初夏の匂い。雲はおだやかに流れ、その後を追って大地に影が差す。
少年の前には父と母が立っていた。
身なりの良い服装に身を包んだ父はやさしげな瞳で少年を見つめている。母もまた愛しいものを見つめるやわらかな視線を少年へ向けていた。
父母の愛をひしと感じて、少年の心に日差しよりもあたたかな感情があふれ出す。
このうえない幸せ。このぬくもりをただただ感じていたい。
ふいに首筋を刺すような違和感を覚え、少年は振り向いた。
少年が立つ場所は家の庭だ。背後にはおおきな木があったはずだ。少年のちいさな背丈に対してとてつもなく大きい木が。
振り向いたその先にはたしかに木があった。しかしその木は黒く不吉な霧に覆われ、その木の立つ場所を境にその先は見通すことさえ叶わない。
その霞みがかった風景を見ていると、身体の芯から冷えてくる。
少年は知れず一歩、二歩と後ずさってしまう。
そんな少年のちいさく震える肩を、あたたかな手が覆った。
少年が再び振り向くと、父と母が少年のすぐ背後に立ち、その肩を支えてくれていた。
少年はたまらず父母の胸へと飛び込んだ。途方もないあたたかさが少年を包み込む。
「こわい。こわいよ、おとうさんおかあさん」
ぐずつく少年の背を、母がやさしく撫でてくれる。
黒い霧なんか見たくない。家のなかに戻って、おかあさんの淹れてくれるミルクをのんで、おとうさんの膝のうえでご本を読んでもらう。そうすればそのうち眠くなってきて、きっとこんな怖い思いも忘れてしまう。
――ほんとうに?
ほんとうに、忘れてしまっていいのだろうか。この思いを。怖いと思うその感情を。
忘れてしまったら、きっともう戻らない、戻れない。――いや、戻る必要なんてない。どうして怖い思いを抱えて生きる必要があるんだ?
少年は不思議な感覚に陥ってしまっていた。
なにかが喉元に引っかかって取れないような、もどかしい感覚。
ほんとうは怖いことなんて忘れてしまいたい。
このあたたかな場所で、あたたかな胸のなかで、このぬくもりに溶けてぐずぐずになってしまいたいのだ。
だが一方で、だれかが、なにかが叫んでいる。
忘れちゃだめだ、と。たいせつなものを手放すなと。冷たいその霧のなかへ引き返せと。
どうして? 少年は答えの出ないその問いにあえぎ、顔をあげる。
そこには変わらずおだやかに笑う母と父がいる。きっと家に帰れば祖父も――。
「――お祖父ちゃん……?」
少年は、シバは思い出した。
そうだ。自分には、父と、母と、祖父がいる。
母は病気に臥しがちで、いまも王都の家にひとりでいる。
父は遠く離れた地で誇りをもって仕事に従事している。
祖父は――お祖父ちゃんは。きっといまもシバを心配し、帰りを待っている。
それに、友だちがいる。
こんな自分を助けてくれる、こんな自分を必要としてくれる、こんな自分をきっと待ってくれている。
フードル。
チワ。
それに、ライカ。
「ぼく――僕、行かなきゃ」
ぬくもりが、離れていく。
父と母が、陽だまりのようなぬくもりが、初夏のような青い匂いが離れていく。
変わらず微笑みそこに立つ父母の顔をしっかりと見る。
そこにある父の顔立ちは思い出のなかよりさらに若い。
そこにある母は血色もよく壮健そうでこんな様子は記憶をたどっても見たことがない。
けれど、シバをみつめるそのやさしい表情は、愛にあふれたそのしぐさは、紛れもなく両親のそれだ。
「きっとまた、会えるよ。お母さんは元気になる、僕がしてみせる。そうしたらお父さんも帰ってくる。黒霧が帰路を遮っているのなら僕が迎えにいくよ。そうしたら、お父さんが帰ったら、お祖父ちゃんを連れて、王都にいって、また、またみんなで」
視界が滲む。言葉が、胸で詰まる。
行かなきゃ。名残惜しさにすくむ足を叱りつけ、踵を返す。
深い闇が手招く霧の向こうへ。
「シバ。気をつけていってらっしゃい、ね?」
背後に投げかけられたやわらかな声音に、一度だけ足が止まる。
少年は――青年は、強く頷く。
「うん」
決意を胸に、振り向くことなどせず駆け出した。
霧をかき分けて、闇を切り裂いて、はやく、もっとはやく。友だちがきっと、待っているから――。
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