エピソード1 頁16
「チワ、シバ――なっ、なんだこれ……」
フードルが仲間を起こそうと仕切り布を捲り上げると、室内は不自然に靄がかかっていた。
まるで、霧が烟る野外のよう、いや、それ以上に。
「――っ、中には入るな! ライカ、外から窺える範囲に蛙みたいなやつは見えるか⁉ 中に滞留している煙は決して吸い込むな!」
「はあ? うーん……げっ、梁にキモいのが引っ付いてやがる!」
ライカが言われるまま口許を押さえて中を覗き込み注意深く見渡すと、果たしてそれは天井近く、家屋の梁にぶらさがるようにして居た。
まるまるとした輪郭の背から無機質な口が生えており、その噴出口のような部位から白いベールのように靄を垂れ流している。
「やれるか?」
「うっせー、いまヤろうとしてたところ……だッ」
素早く器用に小短剣を取り出すと、梁にひっつく蛙目掛けて弾くように投擲する。
ライカの放った小短剣は見事その魔物に突き刺り、魔物はまるで牛のような野太い断末魔を上げて地面へと落下した。
空気が抜けたかのように萎んで潰れたその様は、道端で干からびた蛙そのものだ。
「やはり”夢霧牟の煙嚢”……くそ、俺の不注意だ。しっかり確認したつもりだったが、潜んでいたのか。フードル、中のふたりを外に連れ出すぞ。中に入る際、室内に充満している霧は吸い込まないよう気をつけろ。この布を口許に巻きつけろ」
ハルとフードルは口許を布で覆うと、室内へ。内部は白く濃い霧のような気体が空間を余すことなく充満しており、まるでこの家屋のなかだけが別の世界かのような様相だ。
奥に横たわるチワとシバは安らかに眠っているように、目を覚ます気配がまるでない。
フードルがチワの上体を起こし、自身の肩にチワの腕を回して身体を支えながら立ち上がる。
当然、意識のないチワは脱力しきっている状態のため、フードルが担ぐような形になる。チワの身体を痛めないように細心の注意を払いながら抱え、すぐ横を見た。
すぐ横ではハルがシバの身体を肩に担ぎ上げ、すっくと立ちあがっていた。
大きな体躯のハルが高身のシバを担いでいると、それだけで得も言われぬ威圧感があると、そんな場違いな感想を抱いてしまっていた。
「大丈夫か? 問題なければ速やかに外に出るぞ」
頷いたフードルは、軽々と人ひとり担いだまま出口へ身を翻したハルに続き、チワを担いで外へ出た。
”猟獣”は未だ霧のなかから姿を見せない。
隊列を揃え、布陣を敷き、狩りの準備を進めているのだろうか。そう思うと、フードルは獣の本能への恐怖心、忌避感を拭いきれない。
地面へ寝かせたふたりは依然として目を閉ざしたままだ。
「ライカが仕留めた魔物”夢霧牟の煙嚢”は、日中に溜め込んだ霧を夜になると煙として吐き出す。その煙を吸い込んだ人間は深い眠りに誘われるという」
「それって……朝になるまで目覚めないということですか?」
「朝になれば目覚める、とも限らないようだ」
ハルの言葉が理解できない。フードルは呼吸が浅くなってしまっていることに気付いていた。口内に溜まる生唾がうまく呑み込めない。
「じ、じゃあ、どうすれば……?」
「本人の意志の強さによって目覚めるまでにかかる時間が異なるとも聞く。すぐ目覚めるかもしれないし……」
二度と目覚めないかもしれない。その言葉をハルが発することはなかったが、フードルの脳裏には自然と過ってしまっていた。
強い衝撃が頭の内側から響いたような錯覚がした。ぐわんぐわんと頭部が揺れているような気がして、思考がまとまらない。
未だ危険は去ってはいない。むしろここからが正念場なのだ。しかし大切な幼馴染と友人の身に起きた大事に、茫然自失となってしまっている。
「――しっかりしろ!!」
肩を強く掴まれ、フードルの意識に生じていた空白が唐突に色を取り戻した。
一度、ゆっくりと揺さぶられる。実際に身体が揺すられたことによって、頭部の揺れが錯覚だったと思い知った。
「お、オレ……」
「しっかりしろ。嘆くのも省みるのも後にしろ。いま、俺たちがすべきことはなんだ? 身動きができないふたりを守れるのは動ける俺たちだけだ。いいか、俺たちで守るんだ」
ゆっくりと戻ってきた思考の隙間にハルの言葉が浸透していく。知れず、震える手を持ち上げ顔を覆いそうになる。その手は、もっと大きな手によって覆われた。
その大きな手は関節部が肉刺のように固く隆起し、至るところに薄く傷痕が残っていて、見るだに痛ましい。しかし、深く冷たい夜霧のなかにあって不思議なほどにあたたかい。
「信じろ、仲間を。おまえの仲間の強さを信じて耐えるんだ。やれるな?」
そう確かめるような言葉は、低く地の底から響くような声音だった。広大な大地のうえに両の足で立っているような錯覚に陥る、底知れない安心感で包み込むような深い声音。
ふと顔を上げると、フードルを見つめるその目には失望も悲観も見られない。そこにあるのは、ただただ強い意志の光だった。
――そうだ。その強さに憧れた。霧の世界にあって、力強く立ち、魔物を前にして怯まず、勇ましく果断に。
後ろに立つ誰もを守るその大きな背中に。
「――はい。すみません、取り乱しました。オレ、ビビッてました!」
勢いよく頭を下げ、自身の頬を両手で強かに打ち付ける。叱咤と共にひりつく痛みをもたらす小さな手は、もはや震えてなどいなかった。
フードルが面を上げると、ハルは穏やかに笑みを浮かべていた。
「ああ、その目だ。面構えもだいぶよくなった。心配は無用だったな」
その大きな手を拳の形を変え、フードルの胸をとんと叩いた。それだけで心臓の鼓動が跳ね上がっていくのを感じる。
「これは老婆心だが、助言しておく。振り回されるな。おまえはおまえだ。おまえらしくいけ」
そう言うと、ハルは改まって小円盾をフードルへと手渡す。ここにきて遠慮などしている場合ではない。フードルは大きく一度頷き、受け取った。
――重い。ずっと使っていた急拵えの棒切れを繋ぎ合わせたようなみずぼらしい盾とは重みが違う。ずしりと感じるその重厚感に、フードルは身が引き締まる気持ちを抱いた。
振り回されるなと、大きな助言ももらった。憧れの対象から譲り受けた”守る力”に振り回されるのではなく、自分のものとする。
「おまえの師ではない」と言われてしまったが、このように教えを訓じてもらっては、結局師のようではないかとフードルはほくそ笑んでしまう。
ひとつ、大きな息を吐き、前を見据える。左手に盾を、右手に両刃剣を携えて。どちらも新たに持つ武具だ。だが、不思議と馴染む。
「よし。俺とフードルは未だ目を覚まさないふたりを中心に、”猟獣”を寄せ付けないよう立ち回る。だがそれだけではそう遠くないうちにこちらの体力が尽きる。そうなる前に形勢を変える必要がある。ライカ、おまえが遊撃して敵の数を減らせ。できるか?」
両の拳を合わせ、気合を入れるようにしてハルが告げる。鋭く視線を向けられたライカは、不敵に笑い、犬歯を剥き出しにした。
「だれに言ってやがる。アンタこそヤられんなよ? フードルひとりじゃァ心配でしかたねー」
吊り上がった瞳に自信を漲らせ、ほそい人差し指で器用に小短剣をくるくると回す。
「……はやく目ぇ覚ませよな、バカシバ。アンタがおっちんじまったらアタシはまた根無し草だろーが」
ちいさく何事か呟き、爪先でこつんと横たわるシバの腕を小突いた。いまも安らかに眠る青年の顔を見て、少女はなにを想うのか。
くるっと身を翻すと、姿勢を低くして、ライカは臨戦態勢を取った。
ついにやってくるのだろう。この深い霧を背に、獣の群れが。
ハルは自身の身体に巻き付けた小袋を幾つか確認し、巨盾を持ち上げる。フードルもまた、力みのない姿勢で盾と剣を構えた。
霧が深く立ち込めるその夜に、フードルらにとっての因縁に決着がつく。それも間もなくのことだ。




