エピソード1 頁14
待機中の三人と合流したハルとチワは、廃村の状況を詳らかに共有した。
あまりに恐ろしい状況に、最初はどの程度の脅威なのか、説明を聞き頭で理解したつもりでも理解しきれていなかっただろう。
しかし、血の気の失せたチワの、小さく震える肩を見て。あるいは予断を許さない現状に鋭く前を見つめるハルの眼差しを見て。
三人は事の重大さを改めて理解した。
「安全なはずの【街道沿い】に至る道が、今となっては危険な道へと変貌してしまった。……となると、多少危険でも、最短で突っ切る【森林地帯】に入るのが次善の手、だが……」
「では、そうしますか?」
「いや……おまえたちを尾け狙う”猟獣”の群れが気にかかる。大回りしても、迂回して平野を回って、【街道沿い】を目指すのがいいかもしれん」
そう言ったハルが指差す先は道なき道。
【街道沿い】は村落道との分岐点を通過ししばらくすると大きく曲線を描き、【沼地】方面から遠ざかる。その曲線に合流するよう平野を行進するとなると、村落道を真っ直ぐ往くよりも距離を要する。
一度道を外れるとどのような魔物が出るとも知れず、危険の度合いも予測がつかない。だが、それでもその道が、現状採れる選択肢のなかで最も生存できる可能性が高いと踏んでの判断だ。
ハルの判断に、四人は従う以外の選択肢はない。
どうするのか決まったのであれば、行動は早ければ早いほど良い。
道を外れて、視界を遮るものは霧の他にない広大な平野を往く。
右手に見える廃村の風車を目印に、霧でやがて影さえも見えないほどの距離まできたら、右手へゆるやかに曲線を描き曲がっていく。角度の付け方を誤らなければ、やがては【街道沿い】へと合流していくはずだ。
そうして歩き始めて間もなく。廃村のあった方角に目を向け、立地の位置関係を頭の中で整理しながら、ハルは違うことなく脳内で地形図を展開していく。
目測を誤れば全員が危険に足を踏み入れていくことになる。だからこそ細心の注意を払っていた。
――その集中が、事態の急迫に気付くのを遅らせた。
唐突に「ヒュッ」と息を詰まらせる音が聴こえた。それはフードルのものかもしれないし、チワのものだったかもしれない。ただ、只事ではないことだけは一瞬のうちに理解できた。
ハルが首を振ると、すぐ横を、奇怪な生物――生物ではないかもしれない。それを生物と認めるにはかなりの胆力を要した。――が悠々と通り過ぎようとしている。
その外観は、ハルの知りうるどの生物とも似て似つかない。否、似てはいるが、どの生物だと断定ができない。複数の生物の特徴を継ぎ接ぎしたかのような違和の塊のような魔物だ。
それは果たして――肉を食らうのか? 植物を食らうのか? 地上棲なのか? 水棲なのか? 地を這うのか? 空を飛ぶのか?
その実態の何もかもが、一目見えただけでは杳して知れない。そんな得体の知れなさだけがかろうじて見て取れた。
目前の魔物をハルは、知識としてのみ識っていた。
その特徴は紛れもない。霧深き奥地で、余程の幸運かはたまた不運かでなければ遭遇することも能わない、もはや幻獣の域の魔物――”支離滅裂漫ろ歩き”。
視界の端にその輪郭を捉えた瞬間から、思考がすべての理解を拒み、脳裏をちりちりと焦がすような感覚に見舞われる。
視覚は焦点をうまく結ばず、見るとも見れない。
聴覚は右耳から入ってきた情報が左耳から出ていくかのように浸透していかない。
嗅覚は場違いな磯臭さを捉え、まるで海原にいるような誤認を誘う。
思考、が、散逸して、いく。この、まま、では――。
「――振り向けッ! そして走れッ! はやくしろ、急げッ!!」
ハルはあらん限りの大声で叫んだ。
あまりの絶叫に、喉の奥で血が滲む鉄の味を覚えた。幸いなことにその痛みが、霞みゆく思考に一筋の明瞭さを取り戻させてくれた。
走れ、ここから逃げろと全身に訴えかけて、ハルは脇目も振らずに走り出す。
やがて視界の隅が赤黒く滲み始める。眼球を内側からがんがんと殴りつける何者かが瞼の裏で存在感を訴えかけているのかもしれない。
鼻から冷たく滴るなにかが唇を湿らせる。最初は唐突に鼻水が垂れたかと思っていたが、よくよく見れば鼻血が噴き出してしまっていた。
大きく揺れる視界の隅では、四人の小さな背がばらばらと遠ざかっていく。
脱兎のごとく逃げ出した四人もまた、その頭部から鮮血を撒き散らしている。
それがなにやら滑稽に思えて、ハルは自ずと知れず歪な嗤いを浮かべている自身にふと気付いた。
いま、振り向いたら――己のうなじを、あの魚の死んだような瞳が見詰めている。もしかしたらあの馬のような鬣を揺らし、狗のような鉤爪をいまにも突き立てようと手を伸ばしているかもしれない。
そんな、そんな恐ろしいことは、とてもとても堪えられない。
目の端から涙が滲み出る。痛み始めた側頭部を押さえながら、ハルは駆ける。
残された思考力をかき集め、四人を追い駆け、この後の展開を想像しながら。
少しでも、一瞬でもはやくこの場を離れるために。
走った。ただ、がむしゃらに。
◇◆◇
息も絶え絶えに走り続け、気付けば【森林地帯】の外周まで辿り着いていた。
近くの木に身体を預けて、ハルはようやく思う様息を吸いこんだ。
頭のなかが割れてしまいそうな鈍痛も、掻き乱されてまとまりのなかった思考も、かなりの時間を要したがすこしずつ落ち着きを取り戻してきている。
鉄の不快な臭いに舌打ちしながら、鼻を押さえて一息に残った血を噴き出す。指で拭うと、血はもう止まっているようだった。
「……全員、無事か?」
視線を回すと、四人ともしっかりといた。いはしたが、木に凭れて膝を抱えたチワも、その横で立ちすくむフードルも、地面に膝をつき自身の肩をきつく抱いたシバも、一様に項垂れ、その表情を窺い知ることはできない。
ただひとり、仰向けに寝転がったライカは、鼻血が流れるのも構わず、ただ虚ろな瞳で空を見詰めていた。
おそらくほかの三人も同じような表情をしていることだろう。
ハルは先ず、周囲を見渡した。
すでに【森林地帯】へ片足を突っ込んでしまっているようだ。
まだ深く踏み入っていなかったとしても、”猟獣”や”地蝕の土竜”、”林蝕の樵”など注意すべき魔物は多い。
耳を澄ませても、目を凝らしても、不幸中の幸いというべきか霧の向こうに魔物の気配は感じない。
続けてハルは荷物を地面へと下ろし、巨盾を大地に突き立てた。
大きな荷を前に屈みこむと、横に括り付けた小袋からひとつの小瓶を取り出す。
麻布と木栓で密封した中身を開栓すると、その中の液体を少量口に含んで一気に呑み干した。
液体は口内から喉奥へ、そして体内へ。灼けるような感覚が次第に広がっていくと、いまだ微かに靄のかかった思考の一部が晴れていく。
大きく一度呼気を吐き出すと、鼻のなかを酒精の臭いが駆け抜けた。
「さあ。おまえたち、しっかりしろ。ここは安全だ。ここにはおまえたちを脅かすものなどありはしない。気付け薬を一気に呷って、呑み込むんだ……」
残った酒精を空き瓶に少量ずつ移しては、順繰りに呑ませていく。
どうやらシバだけは酒に慣れていないらしく、色の抜け落ちた空虚な表情から一変、急激に青褪めて咳き込んだかと思うと、次第に顔中真っ赤になってしまい、様子が落ち着くまでに実に半刻を要した。
「――あれはいったい、なんだったのでしょうか」
シバを介抱しながらフードルが紡ぎだした疑問への答えは、この場ではハルしか持たない。それを判っているからこそ、全員の視線はハルへと集まる。
「まず、おまえたちに謝らせてくれ。すまなかった。あの場で最善の経路を選んだつもりだったが、結果としては最悪の展開を引き寄せてしまった。あいつはおそらく、”支離滅裂漫ろ歩き”――遭遇した者の精神に異常を来す恐るべき幻獣――と、思われる。俺も実際にこの目で見たのは初めてのことだ」
曰く、目撃例は極めて少なく、またその精神に働きかける感応特性から、たとえ遭遇できたとしてもその実態を暴くことは至難であるとのこと。
風の噂では、エーロ・コスキネンを【暗黒地帯】への狂信的な調査へ駆り立てる原因となったのはかの幻獣との遭遇であり、そしてその遭遇をしてエーロは狂ってしまったのだと言われている。
「いずれにせよ、【街道沿い】に戻る経路は潰えたと見ていいだろう。なるべくであれば、予期できる面倒事は避けて通りたかったが……こうなってしまっては致し方ない。――【森林地帯】を通る」
それが意味するところは、フードルも理解していた。また、あの獣の群れと見えることになるだろうことを。
「俺の記憶が正しければおそらく、付近に樵がかつて使っていたであろう木造家屋がある。そこは俺が過去に【フォワードタグ】を残して定期的に利用しているから、多少手入れが入っていて簡易的な野営地として使えるだろう。街までの最短距離から少しずれるが、間もなく日も暮れる。霧深い大森林を夜行するよりはマシだろう」
シバを除く三人は、顔を見合わせて頷いた。
やがて覚醒したシバを含めた五人は、夜が更ける前にとただちに行動を開始した。
濃霧は月明かりを分散させ、幻想的な光景を演出する。夜の帳が木立を包み、静けさが森を駆り立てる。
生きとし生ける者を囚える狩場の檻へと――。




