エピソード1 頁12
「あれが”混濁の坩堝”だ。――が、通常の個体よりもかなり巨体だな……。これはもしかすると、それなりに期待できるかもしれん」
ハルの見つめる先で、その魔物は形容しがたい動きで微細に流動している。シバが興味深げに観察していると、どうやらその蠕動に混じって時折、水に含まれる空気が抜け出るような破裂音がごぽごぽと鳴ると、その魔物が蒸気のような――否、霧のようなものを吐き出しているのが見て取れた。
「まさか、霧を生み出しているのか……?」
驚愕に目を瞠りながら呟いたシバの言葉に、ハルは小さく頷きながら応える。
「なかなか面白い考え方だ。かつてこの魔物を見たエーロ・コスキネンも同様に考えたと聞く」
「え⁉ あっ、あのエーロ氏が⁉」
――エーロ・コスキネン。
”狂人”と呼ばれるその人物は、冒険者ではないにも関わらず、私費で冒険者を雇っては【暗黒地帯】の調査へ日夜繰り出し、昨今の踏査へ多大な貢献を為したとされる人物だ。その命懸けの調査活動は驚くべきことに冒険者組合からの依頼やノルリス王朝からの王命などという使命に駆られたものでもなんでもなく、すべては彼の人の”知的好奇心”を満たすためだけに行われていると言われており、それがゆえに人々は彼をこう呼ぶ。――”狂人”と。
彼が実地でまとめた記録――通称”コスキネンズ・ペーパー”は冒険者組合へと提供され、原本は厳重に保管されている。その内容は組合が冒険者たちに広く開示しているが、その委細を手元に置きたがる冒険者や好事家も多く、手癖の悪い何者かによって複製されたものが闇市などを通じて高値で流通しているようだ。
シバは”コスキネンズ・ペーパー”の熱狂者のひとりであり、蒐集こそしないまでも植物系の魔物の頁を複製した切れ端をいくつか所持していた。
興奮した様子のシバの前のめりさにやや気圧されながら、ハルは淡々と説明し始めた。
「ああ。魔物にはさまざまな生態があるが、この”混濁の坩堝”のように霧を吐き出しているように見えるものもいれば、道中見かけた”深霧の鳴き袋”のように霧を吸い込み活用するものもいる。未だ謎に包まれた【暗黒地帯】の黒霧がどのように生まれ、どのように作用しているのか……エーロを中心として、冒険者たちがその全貌を暴こうとしているということだな。当然、おまえたちもその一端を担っているんだぞ」
唐突に降って湧いた規模の大きな話に、フードルとチワは目を丸くして口を開けている。対してライカは退屈そうに欠伸を噛み殺し、耳をほじっていた。
「だったらあの毒スライムを片っ端からブッ殺していきゃーこのクソったれな霧も晴れるんじゃねーの?」
「そんな簡単な話なら人類は数百年も苦労してないだろうな。霧を吐き出すような機能を果たしている魔物はまだまだ他にもいるし、生物以外にも霧が発生する環境があるようだ。そも、事が始まった時代には魔物なんか存在しなかったそうだしそう単純な話でもないのだろう」
「……ケッ。で、どーすんだよこっから!」
つまならさそうに地面を蹴り上げようとライカが脚を振るも、地面の泥濘に爪先がめり込むばかりで、周囲に鈍い水音だけが響く。
話込んでいる間も粘体は蠢き――しかし見たところでは然程も移動していない様子。緩慢な動きは極まり、そもそも種としてあまり活発に動き回るようなものでもないのかもしれなかった。
「通常はここまでの大きさのものはそういない。流動している粘体の中心付近に必ず”核”を持つはずだから、そこを狙って剣や弓で攻撃するのだが……あの巨体ではな。――シバ、確認したいことがあるんだが……おまえの薬籠のなかにカンドクダミはあるか?」
「『カンドクダミ』、ですか? はい、道中摘んだばかりのものが」
「すこし融通してくれ」
ハルはシバから数束の野草(フードルらにはただの雑草にしか見えなかった)を受け取る。
その草を一頻り眺め回すと要望通りだったのか満足そうにひとつ頷き、腰の小袋から出した小さな器へと根をちぎり入れ、小ぶりな短剣の柄で擦り潰し始めた。
「なにに使われるんでしょう? 薬研もありますので僕がやりましょうか」
「いや、それには及ばない。必要なのは根の部分のみだからこちらは返そう。あとで金も払う」
「いえいえ、お金は結構です。そんな、売り物になるようなものでもないですし……」
「そうか? おまえにとっては商売道具だろうと思ったんだが。……『カンドクダミ』はおまえもよく知る通り【暗黒地帯】のなかでありふれた薬の材料にもなる薬草だ。その根は擦り潰すことで特殊な成分を抽出できる。……本当はよく乾燥させた方が良いようだが」
慣れた手つきで擦り潰したその根に、今度は白い粉末を取り出し、混ぜ込んでいく。
全員の好奇の目が注がれていることに気が付き、ハルは軽く肩をすくめながら絹の袋を掲げて見せた。
「こいつは、まあ普通の海塩だ。それと清潔な水を混ぜる」
革の水筒から少量の水を注ぎこみ、混ぜていくと次第に泥のような練り物が出来上がる。
「これは……膏薬ですか?」
「いや? 塩は薬にもなるのか?」
「い、いえ、聞いたことはありませんね……」
「そうなのか。こいつは、な――”混濁の坩堝”を弱らせるのに使うのさ」
そう言うと、ハルは口の端を歪めて笑った。
ハルは左手に持った小円盾に、その”混ぜ物”を塗りたくっていく。
準備ができたのを見計らって、一歩前に出ようとしたシバをハルの右手が制止した。
「ここで待て」
そう言い、ゆっくりと蠢く粘体へ向かって歩き出した。
フードルたちのなかで一番上背があるシバと並んでもさらに大きいハルのその体躯が近づいていくにつれ、”混濁の坩堝”の巨大さもまた露わになっていく。
もしもその粘体が広がって覆いかぶさってしまったら、その背に担いだ荷ごとハルを呑み込んでしまいそうな雰囲気さえ漂っている。
そんな得体の知れない相手(フードルたちから見れば、だが)を前にして尚、ハルの歩みは止まらない。急くでもなく、臆して緩むでもなく、ただ飄々と前進していく。
ついにあと一足飛びで接近戦の間合いというところまで来たところで、突如として粘体が収縮を始めた。
離れた位置で待機する四人からはよく見えないが、それはまるで何か引き絞っているようにも見える。目前まできたハル自身もそれを判ってか、そこで立ち止まった。
――次の瞬間。
ばちっと何かを強く弾いたような音が鳴り響く。耐えきれず、四人は足場の悪い湿地帯を前進する。しかし何事か起きた魔物の正面に立ちすくむハルは依然として動かない。
ようやく様子が窺える位置まで近づいて、先頭を歩くフードルは何が起きたのか理解した。
遠くから見て思った通り、”混濁の坩堝”は『引き絞って』いたのだ。自身のその粘体を極端に収縮させ、引き絞った後に急膨張し、悍ましい光沢を放つその身体を射出していた。
そしてその身を削って放たれた弾丸を、ハルはその手に持った小円盾で的確に防いでいた。弾丸と化した粘体の一部は小円盾の表面に付着し、毒々しい色の煙を撒きながら蒸発していく。
フードルは、ハルの扱う盾が腐蝕してしまうのではないかと、脳裏に懸念が瞬間過ったが、どうもそうではないようだ。
その煙は小円盾の表面が熔けて上がっているものではなく、表面に塗された”混ぜ物”が魔物の粘体と反応して蒸発しているようだった。
「”中身”を吐き出されても面倒だ。こちらもいくぞ」
フードルらの下へ、地の底から響くような低音が風に乗って聴こえてきた。
その瞬間、ハルの大きな背中がさらに一段と大きく膨れ上がったような錯覚に陥る。
フードルが見ている限りでは、さしたる大仰な構えはない。ただ手元で盾を構えた体勢で上半身を固定し、脚から腰までの捻りだけで前へ押し出しているだけ。それだけの動作が、まるで巨岩が転がり込むような圧迫感を見たものに抱かせる。
「し、シールドバッシュ……?」
【沼地】に至るまでの道すがら、何度かハルの立ち回りを見る機会があった。小型の魔物や野生動物の出没によって。
だがそのいずれの機会でも、ハルは盾で自分とフードルたちの安全を守るだけだった。
しかし、事ここに至って危険な魔物と対峙した時、その時はいよいよハルが何がしかの”武器”を携えて戦う姿が見られるものだと、フードルは漠然とそう思っていた。
たとえばオリバー・ディアスと一度だけ肩を並べて戦う機会に恵まれた時に見たのは、二振りの大剣を担ぎ、常人であれば両手で扱うそれを片手で軽々と振り回して魔物を圧倒していた。
たとえばオリバーと背中合わせに戦うビョルン・ヨトゥン――”隻眼狼”と並び立つ”大髭熊”の異名を取る老爺。彼は普段はビヤ樽のような丸さだが、本人曰く『少し腹に力を入れる』とたちまちに逞しい熊のような体形へと変貌する。その状態のビョルンはまるで破城槌のような巨大な棍棒を振り回す。
ほかにフードルがこれまでに見知った冒険者たちは例外なく武器を用いて戦っていた。
それでは翻って、”伝説の傭兵”と噂されるハル・ヴァール・ヴィーダルはどうか?
その体躯に見合った大型の武器――それこそ大剣や長両手剣といった得物が似合うのではないだろうか。あるいはその屈強な太腕であれば戦槌や戦斧といった重量級の武器の得手があるかもしれない。
そう思っていたフードルの予想はまったくの見当違いだったのだろうか。
いま、目前で繰り広げられている光景は、その答え合わせになりうるだろうか。
盾で粘体の巨躯を押し込み、魔物の反撃の一手をことごとく防ぐ。
弾き出した粘弾は本体に戻ることなく、熱された鉄板に一滴落とされた水滴のように蒸発して消えゆく。
そして押し付けられる盾が触れた本体は焼き鏝を当てられる罪人がごとく、痛ましい音を立てて泡立つ。聴こえるはずのない悲痛な叫びが聴こえてくるかのような光景に、フードルだけではなく居合わせた四人が息を呑んでいた。
「――いまだ!」
唐突に上がったハルの声に、フードルの思考に一瞬の空白が生まれる。
その刹那に合わせられたのは、四人のうちただひとりだけだった。
「――シッ!!」
横に飛びずさり、射角を確保した後に、ライカは手元から小短剣を投擲した。
放たれた切っ先は果たして、元々の巨体をいまや幾回りも小さくしてしまった”混濁の坩堝”の粘体へと正確無比かつこれ以上ないほど鋭利に突き立てられた。
その瞬間、粘体が急速に沸騰した水面のような反応を示し――その様子を音で表すのであればまさしく『ビクン』といったところだ――それまで個体とも液体ともいえない状態だった魔物の身体は、力なく湿地帯の地面へと広がり、物言わぬ屍体となった。
「ほう。良い腕だ」
「……ちっ。べつに指図に従ったわけじゃねー。あまりに無防備だったモンだからつい手が出ただけだ」
「賞賛は素直に受け取れ」
「うっせ!」
フードルたちは一歩遅れて動き出す。ハルのすぐ横まで警戒しながら近寄ると、そこには油をぶちまけたような異臭だけが漂っていた。
「すごいよライカ!」と頭を撫でようとしたシバの腕に噛みつくライカと、それを止めようとするチワ。フードルだけはハルに向き直ると、不意に胸に湧き上がった疑問をぶつけていた。
「オレたちがすぐ後ろまで近づいてきていたことに気づいていたんですか? 待ってろって言われたのに、言いつけられたことを破って近づいたオレたちに……」
「ん? ああ……あれだけ慌ただしく駆け寄ってきていたら、な。なに、仮におまえたちが来なくてももう二、三回殴りつけてやったらあとはコイツで同じことをしていたさ」
そう言いハルが掲げたのは、【沼地】に踏み入る直前に木から垂れ下がる蔓を切る際使っていた小型の短剣だ。
見るからに戦闘用ではないそれは、ともすれば調理用にさえ見える。少なくとも、フードルにはそう見えた。
あの、ほぼゼロ距離で魔物と殴り合いをしながら、死角から駆け寄る四人に気づくだけの余裕があったことを示唆する発言。それと、フードルの疑問に対して答えを明示するかのように掲げられた短剣。
――ハル・ヴァール・ヴィーダル。あのオリバー・ディアスが推挙した、曰く”伝説の傭兵”。
本人は否定していたが、実際に目の当たりにしたその異質な”強さ”に、フードルは憧憬にも似た感情が引き起こす身震いを自覚していた。




