エピソード1 頁10
一行は【街道沿い】をしばらく道なりに進み、そのうちに小ぶりな風車の残骸がいくつか点在する小規模の廃村が見えてきた。
このような人の営みが途絶えた村落や市街は【暗黒地帯】内にいくつもあるが、大抵の場合は魔物の巣窟となっている場合が多い。
ハルに教えを受けるまでもなく新米冒険者たちにも周知の事実であったため、一行は足早に廃村横の村落道を抜け、徐々に細まっていく獣道へと踏み入っていく。
人や荷車の往来が廃れれば道は荒れ果て、野との境界も薄くなる。やがて道なき道へと景色を変え、険しき自然の顔が見え隠れする環境へと移り変わっていた。
「この辺りから足場も悪くなってくる。おまえたち、【沼地】まできたことは?」
フードルたちは一様に首を横に振る。
その様子を一瞥すると、ハルは腰の帯革に後ろ手を回し、小ぶりな短剣を一本取り出した。
すぐ脇の木々から垂れ下がる蔓を手際よく短剣で切り、それを何度か繰り返すことで何本かの”縄”を入手した。
「【沼地】では足場の悪さをどうにかしないことには行動が大幅に制限される。そのために対策は必須だ。――この先に水場がある。そこに自生する蓮が撥水と泥濘に沈み込むのを抑制する不思議な特性を持っている。それを採取してくるから、それまでここで一旦待機だ。おまえたちの中で一番手先が器用なのはだれだ? ひとり手伝いが欲しい」
顔を見合わせた四人の視線がそのなかのひとりに集まる。その人物はおずおずと右手を胸元で申し訳なさげに小さく挙げた。【街道沿い】から村落道、そして獣道と、これまでの往路を先行し警戒にあたっていたチームの目であり耳である野伏見習い――チワだ。
身軽な軽装に腰丈ほどの頭巾付き外套を羽織り、簡素な弓と矢筒を背に携えている。
「いいだろう。ついてきてくれ。ほかの三人はここで待機。まだそこまで危険な魔物は現れないと思うが念のためこいつを貸しておく」
ハルは首紐から下がる呼子笛を、代表としてフードルに手渡した。その小さな笛は、神秘的な紋様が刻印されていた。
「そいつは野生生物や魔物の注意を惹くことなく周囲の人間に合図を送れる”静寂の吹枝”と呼ばれる逸品だ。使いこなすには相当な肺活量を要するが――」
「まかせてください!」
自身ありげに胸を張るフードルに、ハルはにやりと口の端を上げる。
「そうだと思っていた。まかせたぞ。チワ、ついてきてくれ」
「はいっ」
フードル・シバ・ライカの三名を開けた草地に残し、ハルとチワは先行して叢をかき分ける。
これまでは見晴らしの良さと行進速度を考慮して知覚に優れる野伏のチワに先行させていたが、下生えの背丈も高く霧も相まって視界不良、草をかき分ける音や野鳥の声などが不気味に響き、音ひとつ取っても神経をすり減らすこの環境で新米冒険者のチワを先行させるのは危険が伴う。
そう判断したハルが先行して叢を薙ぎ倒し、すぐ後ろでチワに警戒させる陣形で前へと進んでいく。
「間もなく【沼地】だ。【沼地】に棲まう大抵の魔物は動きが緩慢だが、その分特殊な特性のものが多い。特に知覚に頼る野伏のおまえは”深霧の鳴き袋”や”菌糸の管理総監”といった魔物は要注意だ。前者は聴覚に、後者は嗅覚に揺さぶりをかけてくる」
チワは周囲の警戒をしながらも、ハルの話に意識の大部分を割いていた。
後続が通行しやすいように先行するハルが、その大柄な身体で背の高い草を踏み均し引っ掛かりそうな低木を薙ぎ倒してくれるため移動に難がないというのもそうだが、なによりその一言一句に『学び』が多く、思わず言葉の端から端まで復唱しそうになる。
傭兵というのは冒険者に雇われ随行する性質上自然と博学になるのか、それともこの大柄な男が特別そうなのか。
”伝説の傭兵”などと呼ばれたことは一度もないとのことだったが、なるほど行動を共にしてみればそう呼ばれるのも頷けるとチワは内心で感嘆しきりだった。
やがて立ち並ぶ木立の隙間を抜け、足許の泥濘を感じ始めてきたころには正面に大きな沢が現れていた。
水面にはハルの話にあった大きな蓮がいくつも浮かんでいる。
「――まずいな」
姿勢を低くしたハルは、沢を一瞥するだに小さく呻いた。
すぐ横でハルの巨体に半身を隠しながら、倣うようにチワも沢を見る。
水辺では、一匹の大きな輪郭がその首を垂れている。
それはまるで、水面から樹木が生えてきているかのような光景だ。
「アレは”牡鹿”だ。果たして霧の影響で魔物化しているかここからでは窺い知れないが、【暗黒地帯】内で遭遇する野生動物は魔物化していなくても極めて獰猛だ。道中は出くわしても多少迂回するか少し待てばやり過ごせたが、目的はもう目の前まで来ている。立ち去るのを待つのも危険性が高い――彼には悪いが追い払うぞ」
「は、はい!」
ハルは背負っていた荷物を、近くの木の根元に下ろした。地表で波打つ根と根の間に挟むように安置することで荷が泥濘に埋もれるのを避けるためだ。
多くの荷を固定するために背負われていた背負子の型枠代わりとなっていたのは、ただの枠ではない――あまりに大きな盾。いわゆる、巨盾だ。
その表面には”牡鹿”を象った意匠の紋様が施されている。
丁寧に手入れされ、長く使われた歴戦の盾という趣きを感じさせながらも、一方で使い古されているようなぼろさは微塵もない。
「俺が先行する。人の気配に驚いて去ってくれれば一番良いが。荒ぶりでもして襲い掛かってくるようであれば、そのままコイツで組み合う。俺が引き付け続けるから、気勢を削ぐのはおまえに任せる」
そう言うと、ハルはゆっくりと木陰から離れ、沢の近くへ歩いていく。
チワから見て二時の方角、およそ20ヤードほど離れて後に、その手に持つ大盾を構え、指笛を吹いた。
か細く響き渡るその音に、水場を堪能していた牡鹿は発生源を疾く捉え、鼻息荒く前傾する。――奇しくも対面し睨み合う獣と大盾は、互いに”牡鹿”と”牡鹿”。
憩いを邪魔され気色ばんだ牡鹿はそのしなやかな四肢が膨れ上がるほどに全身を撓ませる。
溜め込まれた活力がやがて爆発し、弾むように推進力を生む。その雄々しくねじれた枝角が空気を切り裂き、甲高い音が鳴り響く。
そのまま激突すれば、いくら鍛え上げていようと人間の脆い身体など襤褸切れも同然の結末を迎えることであろう。
風を切り襲い来る凶弾は果たして、ハルが構える”牡鹿”の巨盾に正面からぶつかり、火花を散らすほどに激しく拮抗する。
その衝突の勢いたるや、踏ん張るハルの足元が地面の泥濘に埋もれ、圧されて少しずつ後方へずり下がっていくほどだ。
大盾を押さえるその肉体が膨張し、まるで丸太のようだ。牡鹿と押し合い圧し合いするハルのその姿は、さながら野獣のようでさえあった。
やがて力比べが均衡し、組み合ったその奇妙な輪郭が完全に静止する。
(――ここ!)
チワはしゃがみ姿勢のまま鋭く狙いを定め、引き絞った弓矢を放った。
矢羽が風切り音を奏で、一直線に獲物の下へ吸い込まれていく。
鋭い鏃が牡鹿の後肢大腿部へ突き刺さった。血飛沫が舞い、苦しげな呻きが周囲をたゆたう。
そこでチワは一瞬、気が緩んだ。
肉厚とはいえ、機動力の要である後肢を鏃に抉れらた獣は、そのほとんどが怯み逃げようと背を向ける。狩りであれば次ぐの矢を番えるが、今回は撃退が目的だ。追撃は不要、と。
――緩く息を吐いた、その刹那。
「―――」
苦しみ戦慄くその首がぐるんとチワを捉える。
20ヤードの距離など如何程にも感じさせないその恐るべき形相、その牡鹿の血走った眼は、牡鹿でいながらまるで山羊のように瞳孔が横長で、さながら伝承に語り継がれる恐るべき悪魔のようではないか。
チワは失念していた。ここは【暗黒地帯】。ハルも言っていたではないか、ここでは魔物化していなかったとしても野生動物は極めて獰猛になる。ただの獣など呑気に生息できているはずもないと。
背筋に氷を滑らせたかのような怖気が走り、チワは背中の矢筒へ無意識に手を伸ばしていた。しかし、焦りで手が震え矢を掴めない。次の瞬間には躍りかかる牡鹿の枝角に絡めとられ、まるで早贄のように無惨に轢き殺され吊るされる――その数秒先を幻視する。
だが、そんな未来はいくら時間が経とうがやってはこない。
代わりに、不思議な鐘の音が辺りを支配していた。
「――おまえの相手はこっちだ」
盾を構えたまま不動のハルの、低く響く声と、がらんと澄んだ鐘の音が不可思議な空気を織りなす。
一時チワを捉えていた悪魔のような視線が、再びハルへと向けられる。首をもたげて凶器のような枝角を一度、二度と振り回すと、肢体を震わせ再度突進を図った。
再び交わる角と盾。
しかし今度は、正面からぶつかるのではなく、まるで受け流すような”逸らす”動きで盾は半円を描き、組み合ったその枝角と牡鹿の首、そこから連動する胴体・肢体を明後日の方向へと吹き飛ばした。
四肢をもたつかせながら体勢を整え直した牡鹿は、位置関係が変わり一直線上に並んだハルとチワを恨めしげにひと睨みすると、ふいと首を振り木立の隙間へと走り去った。
その場には痛ましく残された血痕だけを残して。
「大丈夫かチワ」
「……はい」
やがて沢に静寂が戻り、ハルは大盾を担ぎながらチワの下へと歩み寄った。
何事もないように装っていたチワではあったが、その少女然とした長い睫毛が、近くで見なければわからない程度に震えていた。
恐れを押し殺す少女の様子を知ってか知らずか、ハルはその小さな肩に手をやさしく置く。
「よくやった」
身体の芯まで冷え込むような恐怖は、安心で薄めるしか慰められない。
そしてまだそこは【暗黒地帯】の渦中だ。安心とは対極にある環境で、年端もいかぬ少女を安堵させる術をハルは持ち得ない。
ぶっきらぼうな大男にできることは、早く仲間と合流させてやることくらいであろう。
「さあ。蓮を採取しよう。先ほど手に入れた蔓の先に木の枝を括り付けて。チワ、ここはおまえの器用さが頼りだ。うまくこいつを引っかけて蓮を引っ張り込めるか。無理だったら最終手段になるが……俺が、この何が巣食うともしれない沢に入って回収しなきゃならん」
チワの強張った身体に張り巡らされた緊張をほぐすための冗談かと思ったが、どうやら至って真面目に言っているようだ。
それも、水場に踏み入るのを想像して心底嫌そうに眉を顰めるその様子がどこか可笑しく感じて、チワは思わずくすっと笑ってしまった。
その様子は、先刻感じた遠く前を往く頼もしい大きな背中とはまた違った、そう、たとえるなら記憶のなかでチワの母のじっとりした目線をはぐらかし堪える父のような、そんな親しみの感じる気配だ。
すこしだけ落ち着いた胸中にそんな感想を抱いたチワは、差し出された鉤縄擬きを受け取り、ハルと共に水辺へと向かった。




