25記念
二人の姿は幸福な恋仲として整然としているように見え、修の入り込む余地はどこにもないよう思えた。
二人とも美しく、爽やかに輝き幸福を放っている。修は呆然と二人の姿と会話を眺めていた。
自身には得ることのできない圧倒的な幸福をまざまざと見せつけられていた。
恋をする葵はあまりに美しかった。
「ね、いいでしょ? 京谷くん」
ふとその幸福の残滓が修を掠めた。
「あぁ、構わないよ」と、訳もわからずに返事をしたが、それは失敗だった。
「楽しみだね。三人で美術館に行くの」葵は嬉しそうに笑った。
「でも、なんだか申し訳ないな……」鈴木も流石に修のデートに割って入ることになって困った様子だった。
「だってせっかく二人が長い時間を経てお互いの誤解が解けたんだからさ。仲良くしてくれた方が私も嬉しいよ」あくまで、二人の中を取り持ちたいというスタンスをとった。
修は阿呆ではあったが、愚者ではなかった。修は葵の本当の姿を全く知らなかった。
すると修は肉体的な欲求で飴を与えないと、葵を見捨てるような愚か者だと思われていたのではないかと不安に思った。恋心ではないにせよ、彼女の優しい同情から与えられたのもであればいいと願った。が、やはり修は阿呆であった。まさか彼女を身を粉にして助けている自分が嫌われているなどとは夢にも思わなかった。それどころか葵が自分をやはり好いてくれているのではないか、自身が葵と話をする時に今でも緊張してしまうのと同一の気持ちでいるのではないかと一縷の望みに縋っていた。
「最近は絵を描いてるの?」蚊帳の外だった修に気を遣い鈴木は左を向いた。
「描きたいのは山々なんだけどね。施設に世話になってる以上、あまり自分勝手に振る舞うわけにもいかないしな。腕が落ちないように練習はしてるけど」
「卒業後はやっぱり絵を描いていきたいって思ってるの?」
「俺がどうやって生きるなんて、そんなことどうでもいいだろう」投げ捨てるように笑った。
「どうでもいいわけないだろう。俺たちはただ心配してるんだよ」
鈴木はそう言いながら修の腕を引いて二人の場所を入れ替えた。真ん中に修がその脇に二人が並んだ。鈴木は修の彼女への愛情を察して気を遣った。
ただ葵は離れてゆく鈴木を名残惜しそうに見遣った。
「そうなの?」と、修は意地悪く葵に尋ねた。自身を心配して気にかけているのかと。
「……え、なにが?」困惑した様子だった。
修の身の上話など彼女の耳には届いていなかった。
「ほら、この通りだよ。お前が変わり者なんだよ」ふっと笑って鈴木の肩を気安く叩いた。
「ごめんね。ちょっとぼうっとして聞いてなかった」
「卒業後の進路が気にるかってね」
「え、どっちの?」悪気なく言った。
「どっちって、それじゃあまるで片方には興味がないみたいだね」修は自身を嘲ってケラケラ笑った。
葵は申し訳なさそうに顔を伏せ、鈴木はひどく心配した様子で修の目を見つめて言葉を失っていた。
修は左右を見て、急に居た堪れなくなった。場は凍りつき、先程までの二人の和やかな空気は一瞬にして損なわれていた。
修はなんとか口を開いて素直に弁解した。
「……ごめん。二人があまりに楽しそうに話して俺だけ蚊帳の外いるみたいだったから一人で拗ねちゃって。本当は美術館も二人で行けることを楽しみにしてたんだ。室生さんが俺たちの仲の取り持つため気を利かせてくれたのは当然わかってるんだけど……そのことでずいぶん心配してくれてたしね。ごめん、ほんと餓鬼みてぇな態度でさ、俺……」
修は阿呆だが愚者ではなかった。こんな時は素直に謝り、自分の非を認めることが最も大切であると知っていた。
「俺がでしゃばり過ぎたわ。やっぱり美術館も二人で行ってきてよ。俺は芸術のことなんてさっぱりわかんないしさ」修の言葉を聞いて途端に申し訳なさそうな態度を示した。
葵は二人を交互に見た。
修も葵を見返した。修は彼女を独占して味わい尽くしたかったが、それができない性分だった。
彼女の申し訳なさそうな潤んだ瞳が修を捉えた。修は彼女を第一に考えていた。
「そんなこと言わないでくれよ。せっかく室生さんが俺たちの仲を取り持とうとしてくれてるのにさ。お前は俺の幼稚さを笑って許してくれたらそれでいいんだよ。こんな空気になって二人で行って楽しめるわけないんだからさ」いつものように笑って見せた。
鈴木は深く頷いた。彼は修を周りが思うよりも高く評価していた。女に無条件に愛され続けた鈴木には修の苦悩が理解できるはずがなかった。
彼は修も自分と同じように他者から愛されていると信じて疑わなかった。いいえ、鈴木は他者に愛される自覚すらなかった。彼にとって愛されることは普通のことであり、呼吸をすることとなんら変わりはなかった。
つまり鈴木は葵が修に向ける悍ましい負の感情に気がつくどころか、好意さえ抱いていると勘違いをしていた。
葵が自身の好意に絶対的な信頼を置いているからこそ、平気で自分をデートに誘ったのだと鈴木は思った。しかし、心に深い傷を負った修にはその信頼はまだ伝わらなかったのだから、自身が潔く辞退するべきだったと後悔しながらも、修の言う通り自身が参加しなかったら葵の思い遣りを無に帰すこととなるのだから、そういうわけにもいかなかった。
修は窶れた葵の表情を見た。
なんとも言えない温度のこもった視線が修を見据えていた。彼女の口は硬く結ばれていた。
修は手を伸ばして彼女の頭を撫でた。愛と感謝と謝罪と励ましがその手にはこもっていた。
鈴木はその手つきの意味をほとんど完璧に把握していた。
葵は振り払いたかったが、鈴木の手前なのでそうもいかなかった。彼を傷つける行為を最も嫌うであろうと彼女は察していた。
修は手を下ろして三人で静かに歩いた。
駅につき修以外の二人は同じ方向の車両に乗るため、修とは別れることになった。
自分を残して二人はどんな会話をし、どうやって通じ合い、どうやって仲を深め合うのかを考えると修は居た堪れない気持ちになった。自身の精神的な疾患が二人の話題に上って軽蔑されるに違いないと悲しくなった。
修は二人と別れ、しょぼくれた足取りで孤児院に帰った。
「……ごめんね、私が余計なことをしたせいで二人の仲を損ねそうになって」電車の中での沈黙を破ったのは葵だった。
「気にしないでよ。あいつは昔から自分の使命を果たそうと強がってはいるんだけど、メランコリーなところがあるからね」
「なんでも一人で抱え込んでしまうきらいがあるから」
「昔からそうなんだよ。だから室生さんが支えてあげてよ」慈愛が滲む笑顔だった。
葵は頷いたが、私が支えたいのは貴方だとその視線は強く訴えかけていた。
鈴木は彼女の熱烈な視線を修への愛情だと勘違いした。
「そういえば、鈴木くんの今度の大会って来月だっけ?」
「ああ、市大会ね。そうだよ来月の第二土曜日」
「それって私みたいな部外者も応援に行っていいのかな?」
「部外者って、クラスメイトじゃないか。是非、修と一緒に応援しにきてよ。二人が来てくれたら百人力だよ」爽やかに笑った。
「ありがとう、でもエースなんだから凄いよね。尊敬しちゃうな」
「昔は修の方が上手かったんだぜ。修がいるチームには結局一回も勝てたことがなかったなぁ」懐かしそうに微笑んだ。
「意外だね」
「そう、だから一緒にバスケを習いに行こうって思ったんだけど、ほら、修は修で格闘技の練習で忙しかったからさ」
「格闘技なんて習ってたんだ」どうでも良さそうだった。
「聞いてなかったんだ。親父さん結構スパルタだったらしくてさ、いつも怪我したり青痣作ったりしてたよ」
「そうなんだ。大変だったんだね」
「あんまり修に父親の話はしないでね。あと母親も」
「うん」と深く頷いた。「……そういえば、鈴木くんって恋人とかいるの」顔を真っ赤にして瞳を輝かせて尋ねた。
「今はいないよ、バスケに集中したいし。でも二人を見てるとやっぱり憧れるな」
「私と京谷くんは、鈴木くんが思ってるような関係じゃないよ」笑って否定した。
「え、そうなの? ……まあ、なんていうんだろう。支え合うって言うのかな、室生さんは修に助けてもらってるって言ってたし、それで室生さんは修のことを思い遣ってるし」
「でもそれは恋愛感情とは別のものなんだ。京谷くんもそう思ってるよ」
「……そうかな?」
「うん、少なくとも私は京谷くんに恋愛感情は抱いてないよ」
「……そうなんだ」修が葵に惚れ込んでいることは、鈍った鈴木の目からしても疑いようがなかった。「室生さんは付き合ってる人はいるの?」
「……いないよ」
「じゃあ、好きな人って……」
「……うん、いるよ」
その潤んだ瞳は誰を好いているかを悉く物語っていたが、鈴木はあまりにもその視線を向けられていて気が付かなかった。
「そっかぁ……」これはまずいことになったっと思った。「そっかぁ……」繰り返すしかなかった。
「鈴木くんは好きな人いるの?」
「え……今はいないよ」
「鈴木くんを好きな人は沢山いるのにね」ふふッと艶かしく微笑んだ。
鈴木は眉を顰めて眼を逸らした。頭に浮かぶのは修の哀れな姿だった。彼が想い人に拒絶されている姿を想像するのは鈴木も苦しかった。どうすればいいのか全くわからなかった。
電車が激しく揺れた。混み合っている人に押されて葵は鈴木に密着した。
「あっ、ごめんね」
「気にしないでよ」
「ちょっと体勢がキツくて掴まっててもいいかな?」甘く囁いた。
「あぁ、構わないよ」
「……ありがとう」
葵は自身の柔らかく温かい肉体を惜しみなく押し付けて、鈴木の腰に手を回した。鈴木の脚を自分の脚で挟み込んで股を擦り付けた。
「室生さんは、修のことどう思う?」
「どうして、気になるの?」
「いや、修に助けてもらったって言ってたからさ。なんとなく……」
「お人よしだからなんとか幸せになってほしいなって思うよ。誰かいい人と出逢ってね」
その言葉は残酷な響きを持って鈴木の耳に届いた。
「……もし、室生さんの好きな人に彼女ができたらどうする?」
「酷いなぁ、どうしてそんなこと言うの?」可愛らしく頬を膨らませた。
「聞いてほしいんだ。その時に室生さんは好きじゃないけど快く思ってる人に告白されたらどうする?」声は深刻な響きを持っていた。
「断るよ。私、絶対諦めないから」その瞳と声はどこまでもまっすぐだった。
鈴木のその腰に当てられていた手は背中まで伸びて背中に絡みつき、その軽い体重を鈴木の胸に預けた。彼女は鈴木の肩に自身の額を当て全身の熱を感じた。美しい男の逞しい肉体に媚び諂い屈服した。一時も自分を忘れないように自身の匂いを男に擦り付けた。
彼女の全身は喜びに打ち震えていた。下腹部が切なく、心臓を見えない手にギュッと握られているようだった。彼女は自身が誰に恭順するべきか、その屈強で逞しい身体に教え込まれていた。自分がただのいやらしい肉欲に支配された雌であることをはっきりと実感させられていた。雄の体に触れて喜びを感じることができるのか、今まではっきりと信じることができなかった。しかし今、脳が震えて充足した幸福と快楽を噛み締めていた。
彼の全てが欲しいと思った。肉体と心の全てを、そして全てを捧げたいと思った。彼に護られて、彼を支えたかった。
今までの人生は偽りのように思え、これからが本当だと信じた。
赤らんだ幸福な表情をそっと上げた。鈴木は虚空を見つめて、自身のことなど眼中にないようだった。
鈴木はただ、可哀想な修を心の中で慰めていた。
あとちょっとで終わりだから。ちょっとだけだから




