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「え……」
修は驚きから間の抜けた顔をしてゆっくり振り返った。時間が止まったかのように思えた。袖を摘まれたほんの僅かな繋がりが、圧倒的で絶対的なものに思えた。葵の控えめながらも必死に手を伸ばしている様子がどうにも愛らしく、全ての言語を僅かの間に失った。
あぁ、どうにかなっちまいそうだ。
回復してきた言語も未だ抽象的だったが、なんとか声を振り絞った。
「……どうしたの?」声の震えを自身でも自覚していた。踊り場で会った頃は頭に血が登っていたので、ここまで緊張せずに済んでいた。
「……さっきは失礼なことを言っちゃったから謝りたくて、あとお礼も言えてなかったし」
修は葵の手が袖から離れていくのを物悲しい心持ちで見送った。
「ああ、別に気にしなくて良かったのに」
さっきは気が動転していただけで、本当は義理堅くて優しい子なんだろうな。俺と話しているだけでも悪い噂が立つかもしれないのに。
相手の心が読めるはずもないので、修は好意的な解釈を持って彼女の精神を慮ったつもりになっていた。修は皮肉屋ではあったが、この世の全てを冷笑しているわけではなかった。できることなら、多くの人の役に立ちたいと素直な考えを持っていた。まだ彼は人類を見捨てなかった。
葵が俯きモジモジとしているので何か言うのかと思って待っていたが、結局何も言い出さず沈黙のみが場を制圧していた。
「またあいつらになんかされたら言ってよ、恐ろしい目に遭わせてあげるから……じゃあね」片手を上げて踵を返して歩き始めた。無論、葵と少しでも話していたい気持ちはあったが、悪評が相手にも及ぶかもしれないことや、彼女の善性に漬け込んでいるようで気が引けたので立ち去ることにした。彼女が再び会いに来てくれただけで、得も言われぬ幸福であり、報われた気持ちだった。
「ちょっと待って……」消え入るような言葉と共に再び袖を掴んだ。
修は目の前の女の子が何かを言おうとしてるなら、黙って待っているべきだろうと思った。それでも言い淀み、緊張している彼女の態度が修にまで伝播した。
「……京谷さんのこと誤解してました。ごめんなさい」
「いいよ別に、それよりさっきは大丈夫だった?」
「あの……そのことについても謝らないといけなくて」
「ん、何が?」
「もしかしたら次の標的が京谷さんに変わってしまうかも……」
「それを君が謝る必要なんて全くないじゃないか。寧ろそうなってくれると嬉しいな、あんまり張り合いがなくてね、しかもそれで君が助かるなら良いこと尽くしだよ」
「……ごめんなさい」と俯いた。
あまりに当て付けっぽかったかな、と反省した。
「本当に気にしないでくれよ、俺は平気だからさ。ね?」
修はどうやって女を慰めてやればいいのか全く分からなかった。慰めという行為自体が信頼関係の上に構築されるものだと思えば、自身に彼女を慰める術がないことは明白だった。しかし葵はゆっくり頷いた。
「俺はもう帰るよ。あまり一緒にいると、君にまで悪い噂が流れるかもしれないしね」
「私は気にしないから……」ようやくハッと顔を上げて修を見た。
修は雷に打たれたような衝撃を受けた。丸メガネの奥にある潤んだ瞳が修の心をを貫いて連れ去った。心の底から彼女を救い助け出したいと思った。
「……ああ、ごめん」
葵は黙って頷いた。
その時携帯の着信音が鳴った。修は自分かと思って思って確認したが違った。葵は携帯の画面を確認してその表情を硬直させた。
「ごめんね。ちょっと用事があるから」
「ああ、じゃあ気をつけて」
葵は何処かへ走って行ってその電話を耳に当てていた。その小さくなる後ろ姿をぼんやりと眺め、修も孤児院へ帰った。
大きな拳が修の顔面をぶん殴り絶え間なくその攻撃は続いていた。修は幼い時から父親に暴力を振るわれていた。しかしそれは虐待と呼ぶには体面を整えて過ぎていた。
親子はグローブとヘットギアつけリングの上でそれを行なっていた。側から見れば格闘技の練習に励む親子であった。
「そんな軟弱な男があるか! 早く立て! 男らしくあれ!」膝をつく息子に怒鳴りつけた。
へえ、自分より小さな餓鬼をボコボコにすることが男らしいことですか。大変勉強になります。それでしたら私も、すぐに男らしくなれそうです。と、内心では舌をだしていた皮肉屋の修は、再び殴られるために立ち上がった。
この頃から母親の精神状態がおかしくなり、夫婦の間にも亀裂が入った。父親はそれを自らの責任だと認めたくなかったようで、それが自身の子供にあると考え、体育的な教育としてこのような暴挙に出ていた。
父親の思惑とは裏腹に修にはささやかなセンスが備わっていた。父親のパンチを紙一重の僅かな動きで交わし、そのパンチで死角となった部分から腕を通して父親の横っ面を捉えた。
一瞬の静寂が場を支配した。
「お前父親を殴りやがったな」と絶叫し修をボコボコに殴りつけた。
修は必死に頭だけを守っていた。
そして父親は修の小さな身体に馬乗りになって拳を力一杯振り下ろした。
ガタッと音を立て、修の身体はビクッと跳ねて目を覚ました。時折見る夢だった。それから修は大きく息を吐いた。
「修くんまた悪夢?」
下から聞こえてきたのは、同室の二つ年下のナオキの声だった。壁に目をやるとデジタル時計は二時過ぎだった。額の汗を拭ってゆっくり目を瞑った。
「まだ寝てなかったのか?」
「学校で散々寝たからね」
「そうか」ふっと笑った。「俺はちゃんと受けてたから眠らせてもらうよ」
「なんかそういえば今日は機嫌が良かったね」
「まだ二時間しか経ってないだろ、悪夢を見て最悪だよ」
「ほら、そういうところ」
「ナオキ、お前結構鋭いな」
「よく言われる」へへっと笑った。
「まあいいや、おやすみ」
ナオキは修に対して偏見を持たなかった。そして修の境遇をまだ理解できない幼い子供達も、偏見を持たずに接していた。その孤児院では上下関係がはっきりしていて、小学一年生の子でも目上には敬語を使って話していたが、外様の修はそんなことを気にせず、気さくに接していた。そのそのため子供たちも無邪気に接して、修はその無邪気さが嬉しく、チビどもの面倒をよく見てやっていた。一緒に絵を描く時も、修は絵がうまかったので子供達が好きなキャラクターの下書きを描いて塗り絵にしてやったり、有島武郎の児童文学や宮沢賢治を読み聞かせてやったり、小さな電子鍵盤で流行りの歌を一緒に弾いたりしていた。これは修にとっても心の支えになっていた。が、一部の人達は風紀と秩序を乱していると噂をしていた。
翌朝学校へ着き、上履きを取り出すとカラッと音がした。見てみると画鋲が入っており、修はすぐにその証拠を写真に残して取り除いた。
あの子の言ってた通りだな。しかし、よくもまあこんな古典的なことをするもんだ。
半ば呆れながら教室へ入ると、クラスの視線が一斉に集まった。
そして自分の机の上にはゴミが散乱してあった。修はそれも写真に収め、大きな息を吐き掃除用具を取り出して掃除を始めた。
「言っておくけど、それウチらじゃないからね。特進の気の弱そうな丸メガネの女子がやったんだから、証人もいるからね」女生徒は怯えたように周りを見渡すと数人が頷いた。
タチが悪いな、わざわざあの子にやらせてるのか。俺が証拠を集めて告発してもあの子が責められるって魂胆か。それをやるってことは、何かあの子の弱みを握っているってことだろうな。じゃないと、あいつらに強制させられてたって言えば終わりだもんな。実行犯としての責任は多少はあるかもしれないが、わざわざあの子を使って嫌がらせをする悪辣さを説明できればって……。結局あの子が弱みを握られてるんじゃ、どうしようもないな。あれだけ俺に対して申し訳なさそうのしてたのは、あの子は先にこうなるってことを予見してたんだろう。まあ、いいや。俺があつらの弱みを握ってやればいいだけの話だ。あいつらもそう思うかもしれないが、俺にはもう痛いところが一つもない。あの不良どもなんて、調べればいくらでもボロが出るだろうな。いいじゃねえか、やってやるよ。俺に絡んだことを後悔させてやる。
なんで笑ってるのよ、気持ち悪い。とさっき弁明した女子生徒は修を見て気味悪がっていた。




