19
「そろそろ帰ろうか」まだ早い時間だったが、あまり葵を連れ回すのも悪いような気がした。
「そうだね」
駅に向かい再びボックスシートに並んで座ったが、今回は向かいに女子大生くらいの二人組が座っていたので、手を繋いだりはしなかった。
「眠そうだね」笑いながら修の疲れた表情を見た。
「楽しみで昨日全然眠れなくてさ」
「じゃあ私の肩に寄りかかって寝ててもいいよ。着いたら起こしてあげるから」
「緊張して寝られないよ」
「目を瞑っているだけでもいいから、ほら」と修の頭を自分の肩へ運んだ。
修は緊張しながら目を瞑り、心地よい熱と匂いを感じながら過ごしていた。目を瞑ると他の感覚はやけに過敏になり、却って眼は覚めた。それでもなるべく力を抜いて彼女が休んで欲しくてしているのならしっかり休まなければならないと変に律儀な心持ちで過ごした。
ずる賢い修は降車する駅に着いた時は目覚めていたのに、せっかくなら葵に起こしてもらおうと寝たふりをしていた。
「もう、起きてるでしょ。悪い子ね」わざとらしく言った。
「せっかくならギリギリまで堪能したくて」
葵は艶やかに微笑んだ。
二人は改札を通り、修はホームで別れを惜しんだ。
「今日は俺のせいで予定通り行かなくてごめんね」
「ううん、今日すごく面白かったよ」首を横に振った。
「そっか、よかった。俺が言えるようなことじゃないけど、また今度彫刻のリベンジ行きたいね」
「うん、絶対行こう」
「じゃあ」と、片手を上げた。照れ隠しのようなものだった。
「ねえ、お菓子のこと忘れてない?」
「ああそっか、ロッカーに預けてるんだったね。取りに行こうか」
二人は特急電車に乗るわけでもないので、邪魔になるお菓子が入った袋は駅のロッカーに預けていた。二人はロッカーの扉を開けて袋を取り出した。
「どうしようか?」
「まだそんな遅い時間じゃないし、ゆっくりできるところに行ってお菓子でも食べる?」
「え、いいの?」まだ一緒にいられることに喜んだ。
「なんかやっぱり反応がわざとぽいな」
「もう名残惜しい気持ちだったからさ」
「そう、じゃあ行こっか」
二人は駅の近くのネットカフェのカップルシートを借りて、その狭い空間で二人きりになった。
「京谷くん、上着どうする?」とは言いながら、ハンガーを持って修の方に手を伸ばしていた。
「ああ、脱ごうかな」
修はジャケット脱ぎハンガーを受け取ろうとしたが葵は修にジャケットを取ってハンガーに掛けた。
「あ、ありがとう」
「いい服なんじゃないかと思ってたけど、メイド・イン・イタリーだって」中の織りネームを見て驚いて言った。
「じいちゃんの形見なんだ」
「大切に着てるんだね」
「あんまり俺は覚えてないんだけどね。赤ん坊の俺が抱っこされてる写真で着てたんだよ」
「でもそうやって形見を大事にしてもらえて喜んでると思うよ」
「そうだといいな」
その時修の持ってる携帯が鳴った。修はポケットから取り出してみるとアキラからだった。しかもビデオ通話だった。
「外にでてようか?」
「いや、孤児院の子からだよ。大丈夫」修は通話に出た。
沢山の子供達が画面に映っていた。そして各々わあわあと喋っていた。
「お前らアキラの携帯勝手に使っちゃダメだろ?」
デートが楽しいかとか、いつ帰ってくるだとか、相手の子を見せてだとか、どこにいるのだとか、修の言うことなど聞かずに好き勝手に喋っていた。
「帰ったら相手してやるから、もう切るよ」
そうするとみんな喋りながらもバイバイと手を振った。
「本当に子供達から慕われてるんだね」揶揄うように笑いながら修の隣にピッタリとくっついて座った。
「もしかして信じてなかった?」葵を側で感じながら、アキラはわざと電話をかけさせたのではないかと思った。わざわざビデオ通話を使い、子供に好かれる悪い男ではないと相手に知らしめるために。アキラは気遣いのできる男だった。
「そんなことはないけど」目を細めて妖艶な表情でくすくす笑った。「京谷くん本当に優しいもんね。子供達もそうだし、朝のおばちゃんだってそうだし、鈴木くんも京谷くんのことを大切に思ってるようだし、それに私も……」そう言いながら修に寄りかかった。
「お、俺は当然のことをしてるだけだよ」密室に香り立つ甘さに幻惑された。
「当然のことじゃないよ、普通はできない。京谷くんは自分の心が美しいことに気がついてないんだよ。一時の欲求に伴う濁った感情を自分の本質だとよくない勘違いをしている」そう言いながら修のシャツのボタンを上から外していった。
修は理解が追いつかず、されるがままにされていた。
「京谷くんの心に触れていい?」修の耳元で囁いた。
「は、はい……」声になっているのかもわからなかった。
彼女の手はボタンを開けたシャツの隙間から這うように入っていき、左胸にその手を重ねた。素肌を撫でられる快楽に修は雷に打たれたような衝撃を受け、声が漏れた。
葵は胸を愛撫し続けた。修の身体は快楽からビクビクと跳ね、声は押し殺そうとしたが止めどなく漏れ続けた。
修は快楽を享受しながらも、彼女のもう片方の手が悪辣な肉欲が凝縮された根源へと触れてくれないので、切なさも溢れていた。
修はもう遂に我慢の限界を迎えて、自ら慰めようと手を伸ばした。しかし丁度胸を弄る手が抜かれて修の右腕は掴まれた。自ら慰めることを葵は許さなかった。修を潤んだ瞳で穴が開くほどじっと見つめ、その手を離した。修の腕は彫刻のようにそこに浮かんでいた。
「お菓子でも食べようか?」あざとくふっと笑った。
葵はチョコレートを修の口元に運び、それから唇をゆっくり撫でたり摘んだりした。
修は唇が感じる快楽というものに衝撃を受けた。そして、ある話を思い出した。漱石をはじめとする大人でも大便の排泄を快楽に感じる人がいるが、それは赤ん坊の時の生理現象をしっかりと行うために排便と快楽が結び付けられた名残りだと云うのだ。そして修は唇の快楽にも通じるものがあるのではないかと呑気に考えた。
「美味しい?」頬に手を添えて親指で唇を撫でながら尋ねた。
修はチョコレートは食べ終えて終えていたが、指のせいで声を出すこともできずに頷いた。
その手は頬から耳に触れて離れた。
「私も」葵はあーんと口を開いた。
「あ、えっあぁ……」
焦りながらチョコレートを取り修はなるべく葵には触れなくて済むようチョコレート端をつまみ葵の口の中へ運んだ。
葵はチョコレートが口に運ばれた途端に、修の指に口付けをした。わざと音を鳴らして修の情欲の火に薪を焚べて風を送った。
修は遂に自制心を失い、彼女の頬へその手を伸ばした。
手が触れるか触れないかのところで、葵は顔を逸らし、修の手を払った。それは修には完全なる拒絶に見えた。血の気が引き、身体一瞬にして冷めてゆくような感覚だけが残った。
「……ごめん」咄嗟に謝った。
葵は自分の耳に手を当て、修を見た。それから微笑み首を左右に振った。
「ううん、お化粧してるからさ。ごめんね、びっくりさせちゃって」
「あぁ、そうだよね。本当に無神経だったよ」
「ねえ、大丈夫だから、そんな顔しないでよ」笑いながら修の頭を撫でて、視線を落とした。欲望の膨らみの姿はどこかに消え失せてそう簡単には戻ってこなかった。「あっ、そうだ」袋へ手を伸ばした。
葵が袋から取り出したのは、助けた老婆が買ってくれた精力剤だった。
「これ飲んで」修の手に握らせた。
「飲んでって言われても……」言葉を詰まらせた。
「せっかく買ってもらったのに飲まないのは申し訳ないでしょ」
「それはそうだけど……」
「大丈夫だから」
大丈夫とは、何が大丈夫なのだろうか。修は疑問に思ったが問いただす勇気はなかった。
「わかったよ」大丈夫という言葉を限りになく自分の都合のいいように解釈し、缶の蓋を開けた。
修は一気に飲み干したが、あまりに癖が強く顔を顰めた。
葵は口直しのためにチョコレートと口元へ運んだ。
修の隣に腰を下ろすと腕を取って自分の肩を抱かせた。修は細くしなやかな肩の肉を撫でた。
葵は効果が現れるのを今か今かと待ち構えて一点をじっと見ていた。
本当に効果があったのかは定かではない、寧ろ葵に精力剤を飲むよう懇願されその効果をじっと待っている様子にやられたのだろうが、すぐに欲望は膨らんでいった。
「本当に効果があるんだね」恥ずかしそうに笑いながら顔を上げた。
「……ちょっと恥ずかしいな」つられて笑った。
「気にしなくていいよ」
「気にするよ。さっきからこんな一方的にやられちゃってさ」
「やり返したい? いいよ」目を細めて揶揄った。
「ずるいなぁ。そう言われると、やり返しても手のひらの上で転がされてるような感じだよ」
葵は自らブラウスのボタンを上から二つ外した。白い生地に隠されていた水色の下着と、控えめな谷間が現れた。
修の視線はそこへ吸い込まれて注がれた。
「本当だ。恥ずかしいね……」なんてくすくす笑い、ボタンを再び閉めようとはせず、片手で胸を隠そうとした。
修の心臓は張り裂けてしまいそうだった。




