18
二人は電車のボックスシートに並んで腰を下ろして窓の外を眺めていた。
修は幸福を味わいながら、葵の幸福についても想いを巡らせた。この前、わざわざ会いに来た清野楓という女が、本当に彼女の敵ではないのかと疑問に思った。
「清野楓って室生さんにとってどんな存在?」なんとなく尋ねた。
「……え?」表情が強張った。
「あ、いや、なんとなく気になってさ」
「どうだろう……」そう言いスマートフォンを取り出すと何か文字を打ち込んでから修に見せた。
せっかくの楽しい時間だから、あまりその話はしたくない。と、修は読んでハッとして彼女の眼を見た。修は口に出すのも嫌なのだろうと察した。黙って頭を下げた。葵は修の顎を持って頭を上げさせると、その肩に凭れ掛かり修の腿の上に手を置いた。
葵が密着すると金木犀の香りが修を刺激した。それだけでなく、甘ったるい態度や妖艶な手つきの全てが修を唆し誑かした。
暴走する欲求の棲家のその真横を葵はくすぐるように撫でた。修はトートバッグで海綿体の膨らみだけは隠していたが、頭は膿んでいるように感じられ、口端には動物的本能から涎が滲んだ。身体は彼女のあらゆる性的な情報を受信するための過敏なアンテナとなり、そのために理性というのは抑え込められていた。もちろんその理性を論って踏みつけて押さえ込んでいるのは、修が普段から腹の底へ押さえ込んでいるの欲望であった。しかし理性も健闘してみせ、踏みつけられたその足にしがみつき、欲望を捉えて必死に離さなかった。
凭れ掛かかる彼女の肩を抱き寄せ可愛らしい額に口付けをすれば、彼女はそのくらいの罪ならば受けれてくれるのか、修にはその心が量りきれなかった。
修の劣情を煽り立てる葵の色香に次第に鼻息も荒くなった。葵の官能的な肉線がハッキリと露わになる身体にフィットした薄いブラウスは、下着が水色であることを隠さなかった。
葵をものにして自分の欲求のままに穢してやりたかった。だがどうして修は劣情を素直に受け止めきれないのだろうか。理性とはまた異なる与えられた罪、その十字架の姿をハッキリと感ぜられるのだった。女性を穢して殺めた罪を、血と共に受け継いでいた。自分の血が沸るのを感じた。
どうせこんなにも辛く苦しいのなら、もうその罪に手を染めた方がいっそ楽なのではないか? 犯していない罪を背負うより、犯した罪を背負う方がどんなに気持ちがすっきりするだろうか。
修は隣座るその媚態で情欲を煽る肉について薄暗く後ろめたい思考を働かせた。心臓は意志を持った生き物のように激しく動いていた。
修は腿の上で挑発するように動く手を握った。葵は凭れていた頭をゆっくり離して、修の表情を覗き込んだ。
「ごめん、嫌だったよね」
「嫌じゃない、むしろ嬉しいよ。けど、ただ辛く苦しく切なくて」
「京谷くんがさっき辛そうだったから少しでも助けになればと思ったんだけど、逆効果だったね」申し訳なさそうだった。
「いや、そんなことはないんだよ。強い薬と同じでそれだけ副作用があるってだけのことなんだ。室生さんが処方しれくれた薬の効果は抜群だったよ。俺はすごい幸福を味わって、生きる活力がこれでもかって溢れてきて、ただ……」
「……ただ?」その眼は細められた。
「……それと同時に悪い欲求もでてきちゃってさ」
「悪い欲求?」
「……うん、口にするのも悍ましいほどの」
「……京谷くんが苦しんでいる理由は潔癖すぎるからじゃないかな?」顔を修の顔に寄せた。
「どういうこと?」少し冷たく尋ねた。
「あっ、ごめん。分かったような口を聞いて」そっと身を引いた。
「謝らないでよ。ハッとして、確かに心当たりがあるんだ。室生さんの話を聞かせてくれない?」
「……誰だって人には話せない悪い欲求を一つや二つ抱えているのは当然だと思うんだ。それで人を傷つけるわけでもないんだったら、自分で自分を受容してあげないとどんどん苦しくなっていっちゃうような気がして。ごめんね、こんな当たり前の話をして。それができないから苦しいんだよね?」
「……そうだね。室生さんも悪い欲求を持ってるの?」
「知りたい?」嬌羞を帯びた艶っぽい表情だった。
「あ、え、うん……。内容はともかく、それで室生さんも苦しんでるのかなって」
葵は深く頷いた。
「そうだよな。みんな同じだよな」
「あまり思い詰めないでね」声は慈愛に満ちていた。
「そうするよ。ごめんね、こんな暗い話しちゃってさ」冗談めかして一人で笑った。
「私なんかでよければいつで相談に乗るし、私にできることでよければなんでもするから」その艶かしく色っぽい声に多くの意味を含ませていた。
「……できることって例えば」声は震えた。修は自分がいけないことを聞いていると自覚した。
「身体に溜め込むと毒になる悪い欲望の捌け口になるよ……」左手を自分の胸に添えた。
修はその言葉を疑ったが彼女は実際にその肢体を用いて修に希望を与えていた。もう一度彼女の言葉の意味を咀嚼した。既に熟れた欲望は葵に矛先を向けていた。それを彼女は了承したということだった。左手が示しているように、自らの肉体で修の肉欲を受けいれるとハッキリと宣言していた。修の頭では現実の出来事であるのかいまいち判断がつかなかった。自分の葵に受け入れられたい欲望が見せた幻覚と思えばしっくりきた。
「……ほ、本当にいいの?」確認した。
「……うん」修に握られている手を握り返して返事をした。
修は酷く胸が苦しくなった。卑怯な手口で葵を追い詰めている自覚があった。修が東に行動を起こして東の行動を制限させたからには、葵は修をなんとしてでも自身と繋ぎ止めておかねばならない。修が離れてしまえば、今まで以上に熾烈な虐めにあうのは火を見るより明らかなのだから。
彼女に自分を本当に好いてくれているのならそうしてほしいと打ち明けようと思ったが、その質問さえ圧倒的な力を擁することは明らかであり、自分の罪を悪戯に増やすだけだった。
「……ごめん、ちょっと調子に乗ってた。その気持ちだけで本当に嬉しいよ。ありがとう」
葵は黙って俯いたがその手を離すことはなかった。修も葵の気持ちに感謝して小さく柔らかい手を握りしめた。
もし葵が東の呪縛から解き放たれて、それでも尚優しい愛情を注いでくれるのならば、その時に修の罪はようやく注がれるのかもしれない。この爛れて腐った肉欲を彼女が浄化してくれるのかもしれない。修はそれだけを希望にして前を向いた。
目的の駅で電車を降りた。
修はスマートフォンの地図を片手に葵を案内した。小さなビルの地下一階に個展は開かれ、見物に来ているのはたった一人だけだった。
壁一面に飾られる豊かな精神の抽象画はそれだけではなく、その世界の上にサブカルチャー的な世界を構築していた。ヘッドホンをして宙に浮かんでいる少女は、日本の漫画やイラストレーターに影響を受けていた。
しかし芸術的な抽象の精神と面白いように合わさっていた。最近はこのような絵を描く人も多くなっていた。
「これ面白いね」葵もじっと見つめていた。
小さな一室だったのですぐに見終わった。二人はそれから画廊を梯子した。
「額に飾ってない絵が多いんだね」
「だからみんな迫力あるでしょ」
「そうだね。すごい近くで観られるしね。絵の具の立体感とかあんな感じなんだね」
修は葵が少しは楽しんでくれているようで安心した。
「結構歩いたね。ちょっと遅いけどお昼ご飯でも食べる?」
「いいお店あるかな?」
「近くにハンバーガー屋さんがあって、評判もいいみたいだから行ってみない?」
葵は頷いて修と腕を組んだ。修は動揺したが彼女の優しさを受け入れた。
修がハンバーガーを選んだのには理由があった。まともな教育を受けていない修はテーブルマナーというものに軽いコンプレックスを抱いていた。だがしかし、ハンバーガーであれば何も考えずに喰らうだけでよかった。修のしょうもない悪知恵だった。
二人は米国かぶれの店主が経営する店でハンバーガーを頼んでテラス席で食べた。大きいハンバーガーをその小さな口で必死に頬張る様子を修はじいっと眺めていた。葵もその視線に気がつき恥ずかしがり、修に抗議の視線で仕返しをした。
「ほっぺにソースがついてるよ」葵の視線をものともせずに言った。
葵は恥ずかしそうにナプキンで頬っぺたを拭った。修は心から愛おしく思った。葵のサングラスは日光を浴びて徐々に色が変わっていった。
食事を終えた二人は残りのギャラリーも観てまわった。




