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修は朝早く飛び起きて身支度をした。殆ど眠ることはできなかったがそれでも頭は冴え渡り、世界にはこれでもかと言わんばかりに贅沢に絵の具が塗りたくられているように思われた。
修が持っている服は、母方の祖父から譲り受けた物が殆どだった。修は深いタックが入った綿と麻が混紡されたざっくりとした亜麻色のトラウザーを履いて横の尾錠を締めてサイズを合わせた。
ネクタイをするわけではないのでシャツはカッタウェイかボタンダウンか迷い、白いオックスフォードのボタンダウンシャツを着た。ジャケットはこれまたカジュアルに見える紺色のホップサックブレザーを羽織った。
あまり若者が着る今風の装いとは言えないクラシカルな雰囲気だったかが、美術館に行くならこれでもいいだろうと自身を納得させた。ネクタイもやはりつけようかと迷ったが「そのままでいいよ」と、アキラの助言に従った。
普段見慣れない服装をしている修に幼い子供たちは興味津々だった。
「お出掛けするの?」小さな女の子が修のそばに駆け寄った。
「ああ、美術館にね」
「デート?」
幼いがしっかり女の子なんだなぁ。と、修はびっくりしながら紅茶を飲んだ。
「まあね」
「私も一緒に行く!」元気いっぱいに言った。
「また今度ね」
「ダメ! 一緒に行く!」
「わがまま言わないでくれよ。な?」と、女の子の頭を撫でたが、そんなんで言いくるめられる安い女ではないと言うような表情で修の手を払いのけた。頑なであった。
ヒデも意味は分かっていないが一緒になってわあわあ言いながら、修の身体にしがみついてぶら下がってた。
「こら、修くんを困らせちゃダメでしょ」ミサキは颯爽と現れて女の子の手を握って引っ張った。それから修に引っ付いているヒデを抱き上げた。「修くんの服に皺がついちゃうでしょ、せっかく昨日アイロンかけたんだから」
「ありがとう、ミサキ」
「どういたしまして」お淑やかに微笑んだ。「今日はアキラくんに遊んでもらおうか?」言い聞かせるようにヒデを見た。
ヒデは小さく頷いた。
「えぇ、めんどくさ」アキラは言いながら食パンを頬張っていた。
それでもミサキからヒデを受け取ると膝の上に乗せて揺らしていた。
修が紅茶を飲み終えて立ち上がると、ミサキは椅子の背もたれにかかっていたジャケットを手に取り修に着せて、トートバッグを手渡した。
「あんまり世話を焼かれるとダメ人間になっちゃいそう」冗談ぽく笑った。こんなことしなくて良いと暗に伝えていた。
「なってもいいよ。私がずっと面倒見てあげるから」イタズラっぽく薄く妖艶に笑った。襟のあたりを整えてジャケットのボタンを留めた。「あれ、三つある場合は上の二つを留めるんだっけ?」
「段返りだから一番上の方ボタンは飾りだよ」
「あっそうなんだ」と一番上のボタンを外した。「やっぱりなんか変だと思った」
修はミサキという少女が自身の世話を焼いてくれるのは、ミサキが自分を下に見ているからだと誤解していた。しかし修は下に見られること自体になんの不快感をも感じていなかった。それどころか彼女が世話を焼いてくれるのを嬉しく思っていた。
「ありがとう」
「すごく似合ってるよ、デート楽しんできてね」修の髪を整えてウインクした。
修はこの少女があまりにもいい女すぎて、却って将来が心配になった。上手く彼女の尻に敷かれる男が現れたらいいがと願った。
そしてミサキは修の耳元に顔を寄せた。
「私との約束も忘れないでよね」
「ああ、もう予定は組んであるんだ。まだ無名の台湾の画家が丁度今日本で個展をしていてね。その人すごい上手いんだよ。ほら、この前一緒に調べて見ただろう? そのあとは近くの画廊も巡ってご飯を食べて帰ろう。再来週の週末は空いてる?」
ミサキは修に抱きついた。嬉しかったのもあるが、最後に自分の匂いを修になすりつるためでもあった。顔も見たこともない葵に対する牽制である。
「喜んでもらえてよかったよ」
ミサキはようやく年相応の無邪気な笑みをこぼした。
玄関に歩いて行く修の後ろをウキウキステップで追随し、修が下駄箱からローファーを取り出すとミサキは靴べらを手渡してローファーを履くと受け取った。
「じゃあ行ってくるね」修は小さく片手を上げた。
「いってらっしゃーい」大きく両手を振って修を見送った。
修は葵との集合場所である駅前の時計塔の前に向かった。集合時間にはまだ早かったので葵は到着していなかった。修は胸を高鳴らせながら、時間がゆっくりと過ぎ去っていくのをぼんやり楽しんでいた。睡眠不足といつにない高揚感から、修の思考は普段とは全く異なるものになっていた。
「お待たせ。ごめんね、待たせちゃった?」すぐに葵もやってきた。
「俺も今着いたところだよ」定型の会話を行った。「あ、今日はサングラスなんだね。凄い似合ってるよ」
「ありがとう。これ、日光に当たると色が変わるレンズなんだ」
「そんな便利な物があるんだね……」葵の姿を上から下まで見た。白いブラウスは丈も短くよく身体のサイズに合っていて、その小ぶりな胸は普段より存在を主張していた。長いスカートは深い青色でプリーツが揺らめき、波の打つような上品さは葵とよく調和していた。開いた襟から見える鎖骨は、骨の持つ美しさを修に知らしめて打ちのめした。
「……なにか変かな?」視線に気がついて恥ずかしそうにはにかんだ。
「すごく綺麗だよ。アシュケナージの月光を初めて聴いたときくらいの衝撃を受けたよ」
「冗談はやめてね、大袈裟だよ」口元を押さえて微笑み修の肩を軽く叩いた。
「冗談でも大袈裟でもないよ。澱みなくどこまでも澄んでいて、室生さんの精神の美しさがそのまま反映されているみたいだ」
「もう、ホントにやめてよ、恥ずかしくなっちゃう」と修に背を向けた。
意地悪な修は背を向ける葵の顔を覗き込んだ。その表情は耳まで真っ赤に染まっていた。葵は再び顔をプイと背け、修の胸を押して自分の表情を見られないように守った。
修は幸福という飴玉を口の中で転がしているような心持ちだった。最近、本当に葵が心を開いてくれているような気がするのであった。
「ごめんって」
「だーめ、許さない」口調は柔らかく冗談であることは明らかだった。
「特急電車でのお菓子とか俺が買うからさ。ほら、コンビニ行こう」胸を押している葵の手を取り、コンビニの方へ少し引っ張った。
葵が深く頷く様子を背中越しに確認した。二人は並んで最寄りのコンビニへ向かった。葵はポカポカと冗談のように修を叩いていた。




