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修は楓を最寄りの駅まで送り届けるために並んで歩いた。
「分かってるとは思うけど、学校では話しかけてこないでね」
「当たり前だろ」
「個人的には私はあなたに興味がないわけじゃないの」
「……え?」その首は古びた人形のようにゆっくりぎこちなく楓の方を向いた。
「例えば高校を卒業したらどうする予定なの?」淡々と尋ねた。
「まあ、働くしかないだろうな」彼女の意図は読めなかった。
「進学しないの、他の子はどうしてる?」
「大学への進学率は滅茶苦茶低いよ。支援はあるけどやっぱりね」
「そう、あなたは絵の才能があるんじゃなかったかしら、それを伸ばそうとは考えなかったの?」
「本当に俺のことをよく調べたんだな」驚いて言った。
「そうね。調べて出てくることなら大体なんでも知っているかも」そのくらいは大した労力とも思ってなさそうだった。
「それはちょっと恥ずかしいな」
「好きなジャズピアニストはキース・ジャレットでしょ」
「清野さんも知ってるの?」
「いえ、知らなかったから調べて聴いたんだけど、ダニーボーイが一番好き」
「いい曲だよな」
「あ、そうだ。小学生の頃好きな女の子のために“お前が欲しい”って曲を練習してピアノで聴かせたって本当?」
「そんなことまで知ってんのかよ」頭を抱えた。
「じゃあ本当なのね」ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべていた。
「その後に振られたって書いてなかったか?」
「書いてあったわ」
「じゃあその話はしないでくれよ。配慮に欠けてるよ」冗談めかして怒った。
「ごめんなさい。あなたが面白い反応をしてくれるからつい」
「見た目とは違って随分お茶目な性格なんだね」
「それをあなたが言う?」眉を顰めて言い「それで絵はもう描いてないの?」
「描いてるよ。別に大学に行かなくても絵は勉強できるしね。働きながらそのうち尊敬できる人に弟子入りするよ」
「あなた、立派な考えと志を持っているのね」意外ね。と、その驚きの表情には言外にその意味が込められていた。
「素直に褒められた気がしないな」苦笑で応えた。
「頭でも撫でてあげようか?」目を細めて覗き込んだ。
「じゃあ、お願いしようかな」冗談だと疑わなかった。
「意外と素直なのね」手を伸ばして修の頭を撫でた。その手つきは優しく修は恥ずかしさから顔を赤くしていた。
「まさか本当にしてくれるとは思わなかったよ」
楓は最後に修の頬を摘んで手を下ろした。
駅に着き二人は別れ、修は帰路に就いた。修の心は揺れ動いていた。彼女を信頼してもいいのかどうか、既に彼女の術中に嵌っているのではないかと、彼女に解きほぐされそうになった心を戒めた。
それにしても清野楓とはあまり緊張したり気が動転したりせずに、気負わず会話をすることができたし、何よりその時間で安楽を享受することできた。
修にとって清野楓は面白い女性であり、修を理解しようとしてくれる女性だった。その理解は単に修を利用するために行われたものに他ならないかもしれない。
修は葵のことを考えた。彼女は自分自身を理解しようとしてくれているのだろうか、と。彼女は未だにその硬い表情を崩して、修に少しでもその精神のかけらを与えることはなかった。
俺は室生さんを愛していいのだろうか。俺にその権利と資格が備わっているのだろうか。俺の持つ利権とは一体なんなのだろうか。俺はどうやって罪を贖えばよいのだろうか。自身に流れる血の罪を注ぎ、どうやって人々に愛されたらよいのだろうか。自分自身も愛せない愚かな男に……。
修は意味のないことを遂に考えずにはいられなかった。
修の頭の中は自責と美しい女で占められていた。修に流れる血は女を汚して害したために汚されたのだから、その罪を注ぐのも自身を愛してくれた女性であるべきだと、そんな観念に囚われて押しつぶされそうになっていた。
孤児院に帰ると大勢の子供達が修を迎え入れた。そうして漸く修のくだらない思考が絶たれ、あらゆる幸福を享受した。しかし修は自分を慕ってくれる子供たちと接している時でさえ罪悪感に駆られた。
この子達は俺の罪を知らないからこうやって笑顔を向けてくれる。そして俺もそれを利用して自らの罪を告白せずにいる。言っても確かに彼らに理解できるものではないかもしれない。だが、この不誠実さを彼らが大きくなったときにどう思うだろうか。俺はどうしたらいいのか、このままこの子たちを騙し続けてもいいのだろうか。
真夜中に脂汗に塗れて目が覚めた。修は孤児院に来てから本当に深く眠れたことは一度たりともなかった。それは同室のアキラが最もよく知っていた。修はいつもうなされていた。彼が一体なんの罪を背負っているのかアキラには分からなかった。
修は額の汗を拭い水をコップ一杯飲むためにそおっと音を立てずに二段ベットの上段から降りてきた。共用の台所で自らのコップに水道水を注ぎ、一気に飲み干した。
暗い部屋の奥のさらに奥の物置として使われている部屋からはガタガタと音が響いていた。そこでは若く暴走する性的な欲求の発露が行われていた。
恋愛禁止の不文律が有りながらも、生まれてくる欲求はどうにか処理をしなければならず、この部屋の存在が黙認されていた。その部屋の使用には厳格なルールが定められており、避妊具の着用は勿論のこと、入室は同時に二人まで、暴力的なものや部屋が汚れるなどの行ってはならない行為も定められ、さらには金銭のやりとも禁止されていた。部屋の前にぶら下がっているカレンダーには暗号のような予定がびっしりと書き込まれていた。それは子供達もいるので名目上は倉庫の掃除当番となっており、確かに使った後には掃除をするルールがあるのでそれもあながち間違いではないのだが、大きな物が多く崩れると大変だからと言い訳をして、掃除当番は十四歳からしか使えないことになっていた。
共に部屋に入るからといって恋愛関係にあるわけではなく、何人もの男性を相手にする女性もいたし、その逆もいた。決まった組み合わせでしか入らない初心なアベックもあった。
当然、修には自分の相手になってくれる女性はいなかった。修の呻き声が余りに酷いときアキラはハシゴを登って上段のベッドを覗いた。修の寝巻きのズボンは破けそうなほど膨れ上がっていた。アキラは見兼ねて誰でも相手をしてくれる女性を紹介しようと提案したが、修は断固として拒否した。
修は自身の欲求を発散させようとはせずに腹の底に全て溜め込んだ。自身で慰めたりするようなこともなかった。
修はむしろ救いよりも苦しみを求めていたのかもしれない。苦しみや悲しみは修にとって友だった。喜びという奴は薄情で、一日や二日もすればどこかに消え去ってしまうが、苦しみや悲しみはずっと修の傍にあった。
物置の激しい音が一瞬にして静まり返り、数秒間の快楽は静寂の中で享受されていた。
修は生唾を飲み込み、自身の肉欲を腹の奥底へ流し込むためにもう一度コップに水を溜めて薄汚れた欲求と共に流し込んだ。
修には酷く辛い環境だった。
修は生涯で自分を受け入れてくれて進む道を示してくれるであろうベアトリーチェを想像してみた。その姿は室生葵そのものだった。彼女は光輝いて修をじっと見つめていた。なんとかして彼女を手に入れたく手を伸ばした。するとその姿はあの中学生の頃想いを寄せていた女生徒の姿に変わっていった。彼女は涙で頬を濡らしながら、修を恨めしそうに睨め付ける。
「お母さんを返して!」悲痛な叫びは修の脳内で響きわたっていた。
修は苦しくなり自分の胸をぐっと押さえ込み、その場で横になった。
「修くん、修くん、大丈夫?」
修はアキラの声を聞きハッと目を覚ました。そこはいつもの二段ベットの上段だった。
「なんだ。夢か……」修は大きく息を吐いた。
「本当に大丈夫? 相当うなされてたよ」
「悪いな。迷惑かけて」
「いや、別にそれはいいんだけどさ」
「もう一寝りしよう。疲れたよ」
「そりゃ疲れるでしょうよ」
修は大きく息を吸い込み目を瞑った。
アキラは溜息を吐いてハシゴを降りていった。修はこの頃、淫夢ばかり見るようになっていた。面白いのは、彼はその淫らな夢の中でさえ、女性に触れることすら叶わなかった。




