第十話 願いが呼んだ力(仮)
木々の奥 暗がりの中で
“それ”は現れた
音もなくゆっくりと
黒い影が滑るように近づいてくる
気づいたときには もう“そこ”にいた
「……っ」
息が詰まる
足音はほとんどしない
それなのに 確実に距離が縮まっている
しなやかな体 無駄のない筋肉
闇に溶け込むような黒い毛並み
赤く光る瞳がまっすぐこちらを射抜く
一歩 また一歩
静かに近づいてくる
葉がわずかに揺れる音だけが
やけに大きく聞こえる
(……なに……あれ……)
ウルフリルが小さく震える
「クゥ……」
怖がっている
当然だ
あれは——明らかに“格が違う”
(……守らなきゃ)
頭の中で その言葉だけが浮かぶ
それなのに 足が動かない
震える
自分でもはっきりわかるほど震えている
黒い魔物はじっとこちらを見つめている
動かない いや
動けないのは——自分の方だった
(……動いたらやられる)
本能が警告する
目を逸らしたら終わる
背を向けたら終わる
そんな圧
息が浅くなる 肺がうまく動かない
(無理……勝てるわけない)
それでも 逃げるという選択肢だけは
浮かばなかった
そっとウルフリルを見る
(まだ子どもなんだよ……)
ぎゅっと拳を握る
「……っ」
声を出そうとするが出ない
それでも 両手を前に出す
(何か……召喚……)
(何でもいい……)
(今……この場を切り抜けられる何か……)
指先が震える
声が出ない
喉が締め付けられる
(だめ……息が……できない……)
黒い魔物が 一歩 近づく
ひしひしと距離が縮まる
「……っ」
体がびくっと跳ねる
(くる……!)
反射的にウルフリルを抱き寄せる
庇うようにぎゅっと抱きしめる
目を閉じる
(た……)
声にならない
(たすけて……)
その瞬間だった
——ふわり
何かが肩から離れる気配
「……え?」
目を開けると視界の前に 小さな影
ゼルカディアの体が 淡く光っている
「ゼル……?」
どんどん光が強くなる
次の瞬間
ぶわっと炎が巻き上がる
「っ……!?」
熱風が頬を打つ
思わず後ずさる
ゼルカディアの体が
膨らむ 広がる 形を変えていく
小さな羽が 大きく開く
炎が絡みつくように
その身を包む
赤い光が 森の中を照らす
「……なに……これ……」
息を呑む
目の前で起きていることが
理解できない
やがて光が収まる
そこに立っていたのは
見上げるほどの巨体
燃え上がる炎を纏った 巨大な竜
「……ゼル?」
信じられないまま 名前を呼ぶ
竜はゆっくりと動く
心春の前へ
「……グルル……」
低く唸る
その声だけで 空気が震える
黒い魔物の動きが止まる
赤い瞳が細められる
明らかな警戒
いや
——恐怖
さっきまでとは
完全に立場が逆転している
(……ゼルが元の姿に戻った……?)
心春は動けない
ただ 目の前の光景を見ていることしかできない
黒い魔物は じっと竜を見つめている
動かない
いや 動けないのだ
ほんの少しでも目を離せばやられる
そう悟っている
それがわかる さっきまでの自分と同じだ
静寂
張りつめた空気と睨み合いが続く
炎を纏う竜と黒い魔物
互いに一歩も動かない
——そのとき
「——はぁ」
聞き慣れた声
その一言だけで
張りつめていた何かが ふっと緩む
「やっぱりこうなるよなぁ」
背後から ゆっくりとした足音
「……アルト」
「なんかこの光景 既視感しかないんだけど」
思わず名前がこぼれる
その声は かすかに震えていた
胸の奥がじんわりと熱くなる
さっきまで押し潰されそうだった恐怖が
一気にほどけていく
「……っ」
気づけば 目の奥が熱い
ほっとした瞬間 涙がにじむ
アルトはいつも通りの気だるそうな顔で
こちらへ歩いてくる
まるで何事もないかのように
この異様な空気の中を 平然と
「だから言っただろ」
一瞬 心春に視線を向け
そのまま黒い魔物へと向ける
一歩 前に出る
その瞬間 空気が変わる
さっきまでの緩さが消える
鋭い視線 張り詰めた気配
黒い魔物が低く唸る
だが アルトは微動だにしない
次の瞬間——
姿が消える
「……え?」
視界から消えた
ほんの一瞬 黒い影が揺れる
ドンッ!!
鈍い衝撃音と共に
黒い魔物の体が横に弾き飛ばされる
木々をかすめ 地面を滑る
「……っ」
思わず息を呑む
魔物はすぐに体勢を立て直し
低く唸りながら アルトを睨みつける
だが その目には
はっきりとした警戒が浮かんでいる
アルトは何事もなかったかのように
鼻をほじりながら立っている
「……」
場違いすぎるその姿に一瞬 空気が止まる
(あれが勇者の姿……なの……か……?)
(普通にしてれば完璧なのに……)
思わずそんなことを考えてしまう
だが 次の瞬間
アルトの鼻をほじる手が止まる
ゆっくりと 視線が上がる
黒い魔物を真っ直ぐに捉える
空気が変わる
さっきまでの気の抜けた雰囲気が すっと消える
そして 一言
「……まだやるのか?」
静かな声
それだけで 場を支配するには十分だった
黒い魔物がぴくりと動く
ほんの一瞬 睨み合う
——次の瞬間
魔物は身を翻した
音もなく 森の奥へと消えていく
「……ったく」
アルトが小さく息を吐く
そして ゆっくりと視線を動かす
炎を纏う竜へ
その瞬間 空気が変わる
わずかに目を細めじっと見つめる
「……おい」
低い声
「……まさか」
一歩、近づく
炎の揺らめきの中
その姿を見据えながら
ゆっくりと口を開く
「お前——」
間
「滅国の炎竜……ゼルカディアか?」
その言葉に 空気がわずかに張りつめる
だが アルトはそれ以上何も言わなかった
ただ一度だけ 竜の姿を確かめるように見上げて
「あー……」
小さく息を吐く
「やっぱりな」
ただそれだけ
まるで珍しいものを見た程度の反応
炎を纏う巨大な竜へと視線を向け
アルトは一歩だけ前に出る
まるで距離を測るように
じっと見上げる
そして 軽く肩の力を抜いたまま 口を開く
「ゼルなんて呼んでるからまさかとは思ってたけど」
少しだけ目を細める
「お前、本当にあのゼルカディアだったんだな」
静かな声
確認するようでいて
すでに確信している響き
炎の竜は 何も答えない
ただ じっとアルトを見下ろしている
張りつめた空気
だが アルトは気にした様子もなく
ぽりぽりと頬をかく
「まぁ……色々事情はありそうだな……」
一瞬だけ心春に視線を向け
それからまた 竜を見る
「よろしくな」
軽くそう言った
そのとき
炎がふっと揺れ竜の体が
ゆっくりと光に包まれていく
「……あ」
思わず息を呑む
大きな体が 少しずつ縮んでいく
巻き上がっていた炎が収まり
光が消える
そこにいたのは 見慣れた小さな姿
「……キュ」
ゼルカディアが いつも通りの声で鳴く
「……っ」
力が抜ける
その場にしゃがみ込み
そっと抱き上げる
「よかった……」
ふいに
あのときの声がよみがえる
——『その子は 君が願えば元の大きさに戻れる』
魔法使いのおじいさんの言葉
(そっか……あの時 私が助けてって願ったから……)
「ゼル……助けてくれたんだ……ありがとう」
ゼルカディアを抱きしめる
その様子を アルトが横目で見る
「……おい」
低い声
「ん……?」
顔を上げるとアルトは少しだけ目を細めていた
「軽く使うなよ」
ぽつりと落ちる言葉
「その力」
いつもの気の抜けた調子じゃない
少しだけ重い
「……お前が思ってるより」
間
「厄介だぞ」
それだけ言うと ふいっと視線を逸らす
まるで これ以上は話す気がないみたいに
「……」
何も言えない
ただ ゼルを抱きしめたまま
立ち尽くす
「帰るぞ」
アルトの声
―――――
「本当にありがとうございました!」
ベルクが明るく頭を下げる
ウルフリルも嬉しそうに鳴いている
「いえ!無事でよかったです!」
自然と声も明るくなる
さっきまでの出来事が嘘みたいに
穏やかな空気
「すっかり懐いちゃいましたね」
ベルクが笑う
「ですね!」
少しだけ寂しい
でも嬉しい
ウルフリルを撫でる
「元気でね、ウルちゃん」
小さく手を振る
「またいつでも来てください」
ベルクの言葉に
「はい!」
元気に返事をした




