第9章 火中の狐
イベントが終了して三日。
嵐が過ぎ去ったあとのような静けさと、
急に戻ってきた日常に、迅はどこかやるせなさを感じていた。
リリカからは、毎日のようにメッセージが届く。
その日あった出来事を、嬉しそうに綴った文章。
内容を見るとサオリとも少しずつ話せるようになったようで、
関係は確かに前へ進んでいた。
仮想世界の東京都市では、
アジアのマスコットキャラクターとして
リリカのポップな動画が電光掲示板に流れている。
イベントの熱は、まだ冷めていない。
むしろ、日を追うごとに賑わいを増していた。
その中で――
自分だけが、少し取り残されているような感覚があった。
そんな時、紗良から通知が入る。
『大ニュース!明日の土曜日、ジムに来て!』
間を置かず、もう一通。
『絶対だからね!』
迅は苦笑しながら『了解』とだけ返した。
翌日。
ジムに入ると、紗良の父・和正と会長が話しているのが目に入る。
軽く頭を下げて近づく。
「おー、迅。来たか」
和正の顔を見た瞬間、なんとなく察した。
「その顔、ちゃんと覚えてるみたいだな」
満足そうに頷く。
「会長がな、お前の対戦相手を各ジムに当たって見つけてきたらしい」
「ったく……久しぶりに顔出したと思ったら、老いぼれをこき使いやがって、初試合で失禁してた小僧が偉くなったもんじゃ」
会長が和正の背中をバシンと叩く。
「おい、昔の話すんなって、勘弁してくれ!」
会長と和正は二人は楽しそうに笑う。
「で、対戦相手って誰なの!」
迅の後ろから紗良が顔を出す。
会長がニヤリと笑う。
「お前らもよく知ってる――沖縄に行った風松の小僧だ」
「……!」
空気が変わる。
迅と紗良の表情が同時に固まった。
中学時代の記憶が、はっきりと蘇る。
ジムでサンドバッグをひたすら打ち付けていた背の小さい後ろ姿が目に浮かぶ。
「風松って……太壱!?」
「わざわざこっち来るの?」
紗良が驚いたように聞く。
「ああ。試合の一週間前から学校を休んでこっち入りするらしい」
会長が顎髭を触りながら答える。
和正が、まっすぐ迅を見る。
「迅――生半可な試合すんじゃねぇぞ」
その声音は、さっきまでとは別人のように重かった。
「太壱は沖縄に行ってからの一年間、非公式は数えきれねぇほど試合してる」
「戦績は公式は6勝3敗。直近13戦無敗。地区大会も2連覇だ」
言葉が、ジムの空気を締めていく。
「沖縄に行く前は戦績を振るわなかったが」
一拍置く。
「お前が立ち止まってる間に、あいつはその分、沖縄で積み上げてきた」
迅は、自然と拳を握りしめていた。
胸の奥が、熱を帯びる。
「……そうか」
小さく呟く。
「ほっほっほ、あの和正が人に説教とはな」
会長がけらけらと笑う。
「……人が真面目に話してんのに、水差すなよ」
和正が肩を落とす。
「まぁ迅や」
会長が軽く手を振る。
「お前も風松も、まだひよっこじゃ」
振り返らずに階段を上がっていく。
「先は長い。――今を楽しめ」
その言葉が、静かに残る。
迅は深く頭を下げた。
この場所で、またリングに立てる。
それだけで――十分だった。
迅の表情が変わる。
試合への決意が、そのまま顔に出ていた。
その様子を見ていた紗良は、
思わず緩みそうになる口元を必死に抑える。
(……よかった)
胸の奥で、小さく安堵する。
その時――
和正が、そっと紗良の耳元に顔を寄せた。
「で、お前ら――もう付き合ってんのかよ」
「はぁ!?」
顎が外れたように口を開ける。
一瞬で耳まで真っ赤になる紗良。
「な、なななな……ま……まだ、だけど……」
語尾がどんどん小さくなる。
「てか!お父さんに関係ないでしょ!!」
次の瞬間、鋭いスナップの拳が飛ぶ。
バシンッ。
「っふ……」
反動で空気を吐きながら、和正はにやにやと笑っていた。
「……成長したな」
娘の拳を受け止めながら、どこか嬉しそうに呟く。
その光景を見ていたジムの面々がざわつく。
「殴られて笑ってるぞ、あのおっさん……」
「女子高生に殴られて喜んでんじゃねぇのか?」
「変態だな……」
好き勝手な声が飛ぶ。
それでも和正は気にも留めず、
ただ紗良の拳を受け止めていた。
迅もその様子に気づく。
「……どういう状況だよ」
思わず呟かずにはいられなかったー。
――その夜。
迅は、今日の出来事を美咲に報告していた。
『2か月後、ボクシングの試合決まった』
少し間が空いて、返信が来る。
『……そっか』
『じゃあ、しばらくゲームできないねー』
その一文に、ほんの少しだけ引っかかる。
『悪い…せっかく慣れてきたのに』
そう打ちかけて――。
すぐに、次のメッセージが届く。
『言っとくけど私の事は気にしてたら怒るよー』
『試合に集中しろいボクシングボーイ(一一")』
「……なんだそれ」
思わず小さく笑う。
『了解』
短く返して、デバイスを置く。
部屋の明かりを落とす。
目を閉じる。
――なのに。
心臓の音だけが、聞こえてくる。
まだ二か月も先の試合のはずなのに。
(……太壱)
名前を思い浮かべるだけで、
身体の奥が熱を帯びる。
久しぶりに会う楽しみと、緊張と。
全部が混ざって――
なかなか眠りにつくことができなかった。




