第9章 10 火中の狐
「ふーん……そういうことね」
紗良は納得したように小さく息をついた。
「美咲の様子も変だったし、迅もしばらく仮想世界に行けない」
「だから、なんとなく後ろめたさを感じてるってわけね」
迅は気まずそうに視線を逸らした。
「……別に、気まずいとかそういうわけじゃない」
歯切れの悪い返事に、紗良は首を傾げる。
「じゃあ直接聞けばいいじゃん」
「朝ちょっと様子変だったけど、大丈夫?って」
迅は答えられなかった。
言葉が喉につかえたまま、足を止める。
紗良はそんな迅を見て、少しだけ笑う。
「ほら、やっぱり気まずいんじゃん」
「素直に言いなよ」
迅はしばらく黙り込んだ。
視線を落とし、観念したように小さく息を吐く。
「……その通りだよ」
「俺の都合で途中で投げ出したみたいな感じになったし」
「美咲に、なんて言えばいいのか分かんないんだ」
紗良は頷く。
責めるでもなく、からかうでもなく、まっすぐ迅を見ていた。
「……そっか」
少しだけ間を置いて、紗良は静かに続ける。
「まあ、二ヶ月も行けないってなったら、このままゲーム引退かなって考えてもおかしくないよね」
迅は何も言わなかった。
口には出せなかった思いを、紗良が代わりに言葉にしてくれる。
その言葉を、迅はただ黙って受け止めていた。
「あたしはさ……」
紗良は少しだけ言葉を探すように視線を揺らした。
「やっぱり、迅がどうしたいかが一番大事だと思ってる」
「美咲のことも、あたしのことも考えてくれるのはすごく嬉しいよ?」
「でも、ボクシングをもっとやりたいならゲームを引退したっていいと思うし」
「両立したいなら、試合が終わってからまた続けてもいいと思う」
紗良は真っ直ぐ迅を見つめた。
迷いのない瞳だった。
「今は試合に集中!」
「それで、美咲にはちゃんと自分の気持ちを伝える!」
「それでいいんじゃない?」
そう言って、紗良は拳を差し出す。
少しだけ照れたように笑っていた。
迅はその拳を見つめる。
そして、小さく笑って自分の拳を合わせた。
「……紗良、ありがとな」
拳が触れた瞬間、紗良ははっとしたように目を見開く。
次の瞬間、顔を真っ赤にして慌てて拳を引っ込めた。
「べ、別に……」
「……あたし、何もしてないし」
俯いたまま、紗良は小さな声で答えた。
迅はデバイスを付け美咲へとメッセージを送る準備をする。
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美咲は帰り道を歩いていた。
車道を走る車の音。
すれ違う人の会話。
風に揺れる草木のざわめき。
そのすべてが、どこか遠く曇って聞こえる。
まるで水の中に沈んでいるような感覚だった。
視界に映る景色も、少しずつ色彩を失っていく。
見慣れたはずの街並みが、どこか輪郭の薄い別の世界のように見えた。
「寝不足かな…」
それでも身体は道を覚えている。
意識を向けなくても足は進み、気づけば家の前へ辿り着いていた。
美咲は身体を預けるようにドアノブへ手をかける。
静かに扉を開いた。
家の中は、しんと静まり返っていた。
美咲は無言のまま靴を脱ぎ、カバンを廊下の隅へ置く。
そのままリビングへ進む。
キッチンの蛇口から、水滴がぽたりと落ちる音だけが響いていた。
「……ただいま」
返事はない。
写真立てへ向けて零れた言葉だけが、静かな部屋へ吸い込まれていく。
美咲は、返ってこない返事を待った。
短い静寂。
現実をゆっくり飲み込む時間だった。
胸の奥がわずかに軋む。
飲み込んだ空気をゆっくり吐き出し、美咲は自室へ戻った。
部屋には好きなものがたくさん並んでいる。
ゲーム機。
可愛いキャラクターのポスター。
棚の上に並べたリリカのフィギュア。
さっきまで色褪せて見えていた世界とは違う。
ここだけは、淡いながらも確かに色が残っていた。
美咲は小さく目を細める。
――少しだけ、安心した。




