第9章 9 火中の狐
「とにかく、これ以上この都市の情報が知りたけりゃ、俺じゃなく当事者に聞け。くぁ〜……」
祖之は腕を上げ、大きくあくびをしながら身体を伸ばす。
美咲は腰に手を当て、首を振った。
「露骨に面倒くさがらないでよね……」
明鏡止水が手を掲げると、祖之のもとに一通のメールが届く。
メールには数字の羅列が記録されていた。
「情報提供の対価だ。その中には、私の設計に関わるデータが複製されている」
「いいのか、そんな御大層なデータをおいそれと渡して……?」
「仮想世界のメインシステムに許諾を得た上で複製している」
「ちょっと! 私にもその情報ちょうだいよ!」
美咲は身を乗り出し、明鏡止水へ駆け寄る。
「取引をしていない貴様に渡す理由はない」
明鏡止水は美咲を振り払い、冷たくあしらった。
「……えぇ〜?」
祖之は届いたメールを確認し、満足げに口角を上げる。
「今日は終いだ。話の続きがしたかったら、明日また同じ時間に酒場へ顔を出しやがれ」
「ちょっと! そっちはデータ貰えたからって、まだ話終わってないでしょ!」
「終わりだ、終わり。仕事が溜まってんだ、出ていきな。」
祖之は有無を言わさず、美咲と明鏡止水を工房の外へ追い出した。
扉が閉まる直前、工房の奥で無数の機材が低く唸り始める。
美咲は肩を落としながら、そのままログアウトする。
現実世界が視界に映る。
美咲は深く息を吸った。
止まっていた時を再開するかのように、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
三度ほど呼吸をしてから、喉の渇きに気がついた。
手元にあったエナジードリンクへ手を伸ばす。
「……」
すっかり炭酸の抜けたそれは、室温でぬるくなっていた。
妙な感覚に、美咲はわずかに眉をひそめる。
「気のせい……かな」
机に缶を置き、椅子に体重を預ける。
美咲は静かに目を閉じた。
朝――。
迅はいつものように街を走っていた。
澄んだ空気が肺へ入り込み、朝特有の静けさが気持ちを落ち着かせる。
一定のリズムで地面を蹴る。
だが、どこかまだ気持ちの整理がついていなかった。
二ヶ月後に控えた試合。
期待と不安が入り混じり、意識がどこか浮ついている。
迅は浮ついた思考を踏み締めるように足へ力を込めた。
強く地面を蹴り、速度を上げる。
ジョギングを終え家へ戻ると、迅はそのままシャワーを浴びた。
浴室はまだ冷たく、温水によって微かに湯気が立ち昇る。
床へ跳ねる水音だけが静かに響いた。
汗と共に、力んでいた身体の力が水へ流れていく。
浴室の鏡には、全盛期と比べまだ少し頼りない身体が映っていた。
だが、不思議と罪悪感はなかった。
今なら、自分自身をしっかり見ることができる。
途絶えていたはずの道が、その先へ確かに続いているように見えた。
まだ、自分は戦うことができる。
鏡の中の自分を見つめながら、迅は静かに息を吐いた。支度を終え、迅は通学路を歩く。
見慣れたいつもの道。
だが、冬の終わりが近づいているのか、吐く息はもう白くなかった。
代わりに、重苦しい雲が空を覆っている。
駅のホームへ向かい、改札を通る前――。
迅はいつもの場所に立つ美咲を見つけた。
「美咲……!」
声をかけようとする。
だが、美咲はどこか上の空だった。
迅の存在にも気づかないまま、ホームへ到着した電車へそのまま乗り込む。
扉が閉まり、電車は低い唸り声を上げながら遠くへ進んでいった。
「……どうしたんだ、あいつ」
釈然としない中、そのまま学校に着いた。
「おっはよー!」
紗良の弾んだ声が玄関ホールへ響く。
下駄箱へ体重を預けながら靴を履き替えていた迅は、声のした方向へ視線を向けた。
遅れて登校してきた紗良は、機嫌が良さそうに笑顔を振りまいている。
「なんか企んでるのか……?」
迅は怪訝そうに問いかける。
「企んでないわっ!」
「迅がまた試合することになったし、あたしも負けてらんないな〜って思って!」
紗良は拳を握りながら嬉しそうに話す。
「今日も練習、もちろん来るでしょ?」
「ああ……」
迅は、美咲が既に通り過ぎていったであろう廊下の先を見ながら答えた。
「どしたの? 何かあった?」
紗良は迅の視線を追うように、同じ方向へ目を向ける。
「……いや、何でもない」
「ほら、早く教室行こうぜ」
迅は上履きへ履き替えた。
午前中は自習が続く。
迅はノートへ置いていたペンを止める。
前の席のクラスメイトは、もうしばらく姿を見せていない。
斜め後ろの席も、一番前の席も先週から空いたままだ。
黒板はよく見える。
だが今日に限っては、その前に立つ教員の姿がなかった。
まるで、噛み合っていた歯車が少しずつ狂い始めているような感覚だった。
ふと、隣のクラスメイトが後ろを向いて話し始める。
「やっぱヤバくね? 数学の橘先生も辞表出したんだろ……?」
「仮想世界の企業に就職するって話か?」
「俺は良いと思うけどな〜。ベンチャー起業も今は仮想世界の市場が主流だし」
「俺も将来、仮想世界の企業にしよっかな〜」
二人の会話を皮切りに、教室のあちこちで話し声が広がっていく。
「放課後どうする? ゲーセン?」
「いやいや、仮想世界のハワイで優雅に海水浴だろ。めっちゃ綺麗なアバター見れるぜ?」
「あはは、何それ。ゲームの話でしょ……?」
迅は周囲の会話を聞きながら、脳裏に仮想世界の熱気を思い出していた。
プレイヤー達の熱狂。
あの世界には、人を強く惹きつける熱と衝動が確かに存在している。
迅はゆっくりと瞼を閉じる。
そして意識を切り替えるように、再びノートへ視線を落とした。
放課後――。
迅は通学路を歩いていた。
隣には紗良が並んで歩いている。
駅前の大型電光掲示板では、仮想世界についての討論番組が流れていた。
『……全くもって仮想世界は危険ですよ』
『現実の社会機能を著しく停滞させています』
『データでは、未成年が仮想世界へ興味を抱いている割合は六割』
『その内、実際に利用している割合は四割にまで達している』
『これから社会を支えていく若者達が、仮想世界へ閉じ籠もり始めているんです』
評論家は、苦笑いで場を宥める司会者へ強い口調で言葉を重ねていた。
「なーんか、仮想世界がどんどん当たり前になってるよね」
「クラスの子も、仮想世界の話ばっかりだし」
紗良は電光掲示板を見上げながら呟く。
「俺のクラスでもそんな感じだった」
迅は小さく答えた。
「少しずつ……何かおかしくなってる気がする」
「どういう事……?」
紗良は不思議そうに首を傾げる。
迅の脳裏には、朝の美咲の様子が浮かんでいた。
どこか上の空だった表情。
呼びかけにも気づかなかった姿。
喉元まで言葉が出かかる。
だが、それを紗良へ打ち明けることに躊躇ってしまう。
言い淀む迅を見た紗良は、その場で立ち止まった。
そして、ゆっくりと迅の手を握る。
「いいから…話してよ」
「あたしはこの前ちゃんと迅の話聞いてもらったから」
「今度はあたしが、ちゃんと聞いてあげる」
厚い雲の隙間から、夕暮れの茜色の光が差し込む。
その光に照らされ、紗良の顔がはっきりと迅の視界へ映った。
暖かな言葉。
優しい表情。
握った手の温もりが、ゆっくりと迅の中へ伝わっていく。
迅は小さく息を吐いた。
そして、紗良へ正直に打ち明けることにした。




