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第5話 あなた専用の店にはしません

古いパン屋の持ち主は、マダム・ドーラという人だった。

 腰を痛めて、店を閉めたという。

 大きな窯と、広い調理台。

 水桶の置き場も、風の通り道もある。

 ただ、使っていなかった道具は、手入れが必要だった。


「お嬢さん、店を見てうれしそうね」

「台所が、広いので」

「表の窓じゃなくて?」

「窓もうれしいです。でも、鍋がぶつからないんです」


 ドーラさんは、大きな声で笑った。

 借り賃を聞き、前払いに必要なお金を聞く。

 私は、帳面を開いた。

 開いた途端、夢から、計算へ戻った。


 今の売上なら、暮らしと仕入れは続けられる。

 でも、店を借り、道具を直し、人を雇うには足りない。

 無理に一日何倍も売るつもりで借りたら、借り賃のためだけに働くことになる。


「考えさせてください」

「それがいいよ。うれしい顔だけで借りる子には、貸したくない」


 私は、店を出た。

 買いたいものを買えないことが、こんなに悔しいとは思わなかった。

 実家では、ドレスの値段を、自分で考えたことがなかったのに。


 その夕方、エドガー様が宿へ来た。


「いつまで、こんな暮らしをするつもりだ」

「自分で、決めます」

「強がるな。伯爵が心配している」


 出ていけと言った父が。

 私は、続きがあると思った。


「父上の客を招く会で、料理を出せる者を探している。君の店が騎士に評判だと聞いて」


 私ではない。

 私の評判を、心配したのだ。


「どれくらいの数ですか」

「百二十人。三日後だ」


 私は、首を振った。


「今の設備では、引き受けられません」

「厨房は貸す。料理人も付ける」

「その人たちと、一緒に作ったことがありません。段取りも決めずに、引き受けるとは言えません」


 彼は、苛立ったように椅子へ座った。


「礼を言うところだろう。戻る口実を作ってやっている」


 私は、冷めた茶を下げた。

 新しい茶は、淹れなかった。


「戻りたいとは、言っていません」

「君がそんな商売を続ければ、私の立場も」

「私の店は、あなたの立場を守るためのものではありません」


 ドーラさんの店を借りたい。

 そのためのお金は、欲しい。

 でも、それを、何にでもはいと言う理由にはしなかった。


 エドガー様は、扉のところで振り返った。


「騎士団長が、いつまでも面倒を見ると思うな」


 私は答えなかった。

 その言い方をされるのが、いちばん嫌だった。

 自分で稼いだ銅貨も、毎朝洗った鍋も、誰かの気まぐれにしてしまう。


 翌日、ノア様からも仕事の相談があった。

 今度は、詰所の担当者も一緒だった。

 六週間後の演習に、弁当を納入する店を選ぶ。

 条件は、味、予算、人数に応じた準備。

 実績の少ない店でも、試食と調理計画を出せば応募できる。


「俺は審査から外れる」


 ノア様は、最初にそう言った。


「毎日ここで買っている。公平な評価にならないから」


 私は、応募用紙を受け取った。

 特別な扱いは、なかった。

 それが、うれしかった。


 ただ、条件の一つに目が止まった。

 候補店は、演習当日の昼食をまとめて用意できる設備を持つこと。


「……広い台所が必要です」


 ミラさんが、横から紙を見た。


「ドーラの店ね」

「借りるお金が、まだ足りません」


 ミラさんは、少し考えた。


「店の半分、私が使えないか訊いてみな。宿の朝食用のパンを焼きたい。今の窯じゃ、足りなくてね」


 私は、彼女を見た。

 助けてもらう話が、初めて、別の形に見えた。

 私だけが受け取るのではない。

 借り賃を分け、使う時間を分ける。

 二人に、必要な店だった。


 その夜、三人で、パン屋の机に座った。

 ドーラさんも、帳面を出した。


「私の売店用の焼き菓子も、作ってもらえる?」


 私は、笑った。


「数と時間を、相談しましょう」


 店は、一人で持つものだと思っていた。

 そんな決まりも、なかったのだ。

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