第3話 嫌いなにんじんと、好きな人の名前
十日で、お弁当は一日三十個になった。
市の販売許可も、継続して取れた。
ミラさんに手伝ってもらう日は、その分の賃金を払う。
台所の借り賃と、私が暮らすお金。
紙に書くと、楽しさだけではできない仕事だと分かる。
でも、私は帳面を閉じる時、毎回、少し笑った。
自分の明日を、数字で考えられるようになったからだ。
今日のおかずは、鶏肉の香草焼き。
骨を取って食べやすくし、焼いた根菜と、パンを添えた。
フィンは、にんじんに似た赤い根菜を最後まで残した。
「苦手ですか」
「嫌いじゃないです。後で食べるんです」
お弁当がなくなり、机を拭いている間も、残っていた。
私は、彼を見た。
彼も、私を見た。
「……苦手です」
素直でよろしい。
前世の子供たちと、似た顔だった。
でも、同じ扱いをしてはいけない。
彼は、私より二つ年上の大人だ。
「次は、別の付け合わせも選べるようにします」
「叱らないんですか」
「お昼ごはんを買いに来て、説教まで付いてきたら、嫌でしょう」
フィンが、ほっとした。
ノア様は、隣で、黙って食べていた。
お弁当は、いつもきれいになくなる。
「団長は、嫌いなものないんですか」
フィンに訊かれ、彼は、少し考えた。
「あるが、食べる」
「何です?」
「訊くな」
私は、急に気になった。
この十日、一度もそんな顔を見ていない。
食べやすいようにしたいという気持ちと、単に知りたいという気持ちが、混ざっていた。
「よかったら、紙に書いてください」
私は、明日の予約票を出した。
彼は戸惑った顔をした。
それから、私のペンを借りる。
酸っぱい果実の皮。
小さな字だった。
「香りが強いと、少し苦手だ」
「では、団長さんの分は、明日の焼き菓子に入れません」
彼が、顔を上げた。
「俺だけのために?」
「果実の皮を混ぜる前に、取り分けます。大きな手間ではありません」
子供の頃、酸っぱいものを残すと叱られたと、彼は後で言った。
味の話をするだけで、そんな記憶が出てくる人だった。
その日の帰り、雨が降った。
私は台車の上に布をかけ、宿へ戻ろうとした。
重い。
坂道が、少しきつい。
「片方を持つ」
ノア様が、横から現れた。
傘は、一本だった。
「お仕事は?」
「今日は終わった」
「では、休んでください」
「帰る方向が同じだ」
後で聞くと、同じではなかった。
でも、その時は信じた。
彼は、私と同じ歩幅で歩いた。
持ち手を半分ずつ握ると、身体が近い。
雨の匂いの中に、軍服の乾いた布の匂いがした。
「セレス」
呼ばれて、私は顔を上げた。
「明日は、晴れるそうだ」
「はい」
「外で、食べてもいいか」
「今も、外ですよ」
彼が、困った顔をした。
「店の前ではなく。お前と、一緒に」
私は台車を止めかけた。
止めると、彼も止まる。
それに気づいて、また歩いた。
「お客様が、いなくなったら」
「待つ」
ノア様は、すぐ答えた。
宿の屋根が見えた。
傘の端から、私の右肩へ水が落ちていた。
彼はそれを見て、傘を私へ寄せた。
今度は、自分の左肩が濡れる。
「少し、戻してください」
「濡れる」
「私より、大きく濡れています」
私は、傘の柄を一緒に持った。
二人とも、少しだけ濡れる位置にした。
この人は、分けるのが苦手なのだ。
包み焼きも、傘も。
けれど、独り占めしたくて苦手なのではない。
私が知ったのは、そのことだった。




