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第9話 覚醒の継承者

六年前の記憶は、いつだって牌の音から始まる。


 鵜飼蓮司に叩き潰され、そのまま弟子になった十五歳の俺に、あの男が最初に命じたのは「打て」じゃなかった。「見ろ」。それだけだった。


 雀荘ねむの木の隅の席。俺は毎晩、他人の対局をひたすら見せられた。志乃さんが黙って置いていく烏龍茶だけを燃料に、何十半荘も、ただ見る。三日で音を上げた。「打たせろよ!! 見てるだけで強くなれるかよ!!」


 鵜飼は眉ひとつ動かさなかった。「なら訊く。さっきの東三局、下家の男はどの牌で勝負を捨てた? 何巡目から指が止まってた?」


 答えられなかった。悔しさで頭が沸いた。牌は見ていた。だが、人間を見ていなかった。その夜から、俺の目は作り替えられていった。


 捨て牌を置く速さ。指先の湿り。リーチ棒を出す寸前の、ほんの半瞬の躊躇。息を止める癖。視線が泳ぐ河の位置。見えてくると、卓はまるで別の景色になった。牌の並びの向こうで、人間が震えている。強気の鳴き声の下で、心臓が縮んでいる。麻雀は確率のゲームなんかじゃなかった。迷いのゲームだった。


 見る修行の次は、打たれる修行だった。毎晩、閉店後のねむの木で鵜飼と差し向かいの卓に着き、毎晩、骨の髄まで負かされた。ただ潰されるだけじゃない。あの男は俺が迷った巡目を全部言い当てた。「今、逃げたな」「今の一打は嘘だ」「その牌を握った三秒、お前は自分を疑ってた」。心臓の中に手を突っ込まれているようだった。悔しくて眠れない夜ほど、翌日の俺の目は鋭くなった。


 「見えてきたな」ある夜、鵜飼が初めて俺の隣に座った。「なら教えてやる。迷ってる奴は、まだ本気じゃねえ。本気じゃねえ相手に何度勝っても、そんなもんはただの数字だ。残らねえ」


 「勝ちは勝ちだろ!?」


 「違う」あの男は、そこだけ声を落とした。「相手を最高にして、その上で勝て。それが本物の強者だ!!」


 無茶苦茶を言う男だと思った。相手を弱いまま潰す方が、どう考えても楽に勝てる。だが俺は十五で、誰よりも負けず嫌いで、そして目の前のこの男に一度も勝てていなかった。だったら覚えるしかない。この男の麻雀を、丸ごと全部。


 半年後、俺は初めてそれをやった。相手は県外から流れてきた大学生。腕は本物だったが、オーラスの土壇場で手が縮んだ。安牌を撫でる指が見えた瞬間、考えるより先に、俺の口が勝手に動いた。


 「逃げるなよ。あんたの手、まだ死んでねえだろ!!」


 大学生の目の色が変わった。撫でていた安牌を手の中に戻し、真っ向から危険牌を叩きつけてきた。卓の空気が一気に沸騰した。——そして俺は、立ち上がったそいつの全力を正面から受け止めて、上から捩じ伏せた。


 勝った。師匠の教えの通りに。負け際、大学生は深々と頭を下げた。「あんたと打ててよかった。次は勝つ」。その目はもう縮んでいなかった。……だが、今でも忘れられないのは勝利の味じゃない。相手が立ち上がったあの瞬間、俺の胸の奥で何かが燃えた。点棒を受け取る瞬間よりも、ずっと熱く。ずっと深く。


 それから俺は、覚醒させ続けた。縮んだ相手を見つけるたび、一番痛いところへ言葉を撃ち込み、眠っている牙を引きずり出した。立ち上がった相手と全力で殴り合い、その上で勝つ。あの沸騰の中でだけ、俺は自分が生きている音を聞けた。逆に、迷ったままの相手から楽に上がった夜は、勝ったはずなのに胸の奥がすかすかした。点棒の山を前にして、なんでこんなに冷めてるんだと自分に苛立った。今なら分かる。あれが始まりだった。相手が立ち上がる瞬間にだけ、俺は自分の価値を感じるようになっていたんだ。地元の卓では、いつしか妙な噂が立った。あいつと打つと、なぜか自分が強くなる——と。


 ある夜、店じまいのねむの木で、鵜飼がぽつりと言った。「陽。お前、最近、勝った瞬間に笑ってねえな」


 「は? 勝ってるだろ、ちゃんと」


 「勝った瞬間じゃねえ。相手が立ち上がった瞬間にだけ、お前は笑ってる」


 背中に妙な汗が伝った。図星だったからだ。相手が覚醒する刹那の、あの空気が裂ける感触。俺はいつからか、あれを勝ち星よりも欲しがり始めていた。「……勝ってるんだからいいだろ」俺はそう返した。返してしまった。あのときあの男がその横顔で何を見抜き、何を恐れていたのか。それを知るのは、ずっと後のことになる。


 弟子入りから二年。十七の俺は全国青年戦を勝ち上がり、決勝の卓に着いた。対面に座っていたのは——鵜飼蓮司、その人だった。


 師弟対決なんて美談じゃなかった。あの男は初っ端から俺を潰しにきた。読みの網を二重三重に張り、俺の得意な形を根こそぎ塞ぎ、三局で点棒を半分まで削り取った。牌を切る音のひとつひとつが銃声みたいに響いて、会場の観客は水を打ったように静まり返った。誰もが決着を疑わなかった。実況席の解説者でさえ「これは公開処刑ですね」と苦笑いした。だが不思議と、怖さはなかった。むしろ心臓は、生まれてから一番いい音で鳴っていた。六年経った今でも思う。あの卓の上でだけは、俺は誰よりも自由だった。


 オーラス、俺の親番。鵜飼の手は、リーチこそかけないものの、河の圧だけで分かるほど育ち切っていた。俺の手は安く、遠く、絶望的だった。降りれば準優勝。十五の頃の俺なら卓を蹴っていた場面で、対面から声が飛んだ。


 「降りるのか、陽。お前の全部はそんなもんか。——俺を最高にしてみろ!!」


 頭の中で何かが弾けた。視界が澄み渡り、河に散った捨て牌が一本の道になって光った✨。あんな感覚は、後にも先にもあの一度きりだ。指先の震えが消え、卓の音が遠ざかり、世界に牌と俺しかいなくなる。俺は降りなかった。通らないはずの危険牌を一枚通すたび、会場がどよめき、二枚目で悲鳴が上がり、三枚目で静寂になった。絶望的だった手は、たった四巡で天まで届く形に組み替わっていた。完全覚醒。あの数分間、俺は間違いなく、人生で最強だった。


 そして——事件は、その直後に起きた。


 鵜飼が、手の内から一枚を抜いた。


 卓を囲む全員が凍った。俺の待ち牌。あらゆる読み筋のどこをどう通っても、あの局面で切る理由がひとつもない牌。和了目前の手をわざわざ壊し、俺の刃の真上に静かに首を差し出すような、そんな一打だった。


 「……ロン」


 自分の声が、他人のものみたいに聞こえた。倍満。逆転。優勝。会場が割れるほどの歓声。なのに、点棒を受け取る俺の指先は氷みたいに冷たかった。あれは打ち込みじゃない。差し出したんだ。なぜだ!? 相手を最高にして、その上で勝つ——自分の信条を、あの男は自分の卓で自分から破った。最高になった俺から、あんたは勝ちを奪わなかった。奪ってくれなかった!!


 「師匠、今のは……」


 顔を上げたとき、対面の椅子はもう空だった。表彰式にも、打ち上げにも、ねむの木にも、鵜飼蓮司は二度と現れなかった。優勝カップは氷みたいに冷たくて、俺は一度もそれを棚に飾らなかった。


 変わったのは、それからだ。決定局になるたび、俺の口が勝手に動くようになった。相手を立ち上がらせ、最高にして——そして最後の一打だけが、鉛みたいに重くなる。楽に転がり込んでくる勝ちを、俺の指が勝手に拒む。まるで、あの日の一打の答え合わせを恐れるみたいに。勝ちたい。誰よりも勝ちたいのに!!


 ——回想が、志乃さんの置いた烏龍茶の湯気の向こうで途切れた。


 現在。ねむの木のカウンターで、俺は受け取った古い紙片を握り直した。山奥の療養施設の住所。六年間、行方知れずだった男が、そこにいる。


 「行くのね、陽くん」志乃さんは静かに笑った。「あの人の弟子は、あなただけよ。引き留めないわ。でも、帰ってきたら必ず言わせてね。おかえり、陽くん、って」


 カウンターの端で、ハルが腕を組んで身を乗り出した。「あんたを咬ませ犬にした張本人なんでしょ!? 六年分、全部問い詰めてきなさいよ!!」


 ああ、そうだ。なぜあの牌を差し出した。なぜ消えた。なぜ俺は、勝てなくなった。訊きたいことは六年分ある。雛のこと、鴉山のこと、覚醒させては散り続けたこの六年の全部を、卓の上で叩きつけてやる。だが、本当に訊きたいことは、たぶんたったひとつだ。——師匠。あんたはあの日、俺に勝ちたくなかったのか!?


 住所の紙を潰れるほど強く握りしめた俺の手の中で、六年前のあの不可解な一打が、答えを抱えたまま山の上の卓で俺を待っている。

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