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第10話 呪いの正体

山道のバスを降りると、空気が街より二度は冷たかった。

 俺の手の中には、志乃さんが封印していた古い住所のメモがある。何度も開いて畳んだせいで、折り目がもう千切れかけていた。鴉山さんが卓を去り際に「生きている」と告げた男——鵜飼蓮司。六年前、全国青年戦の決勝で俺を完全に覚醒させ、不可解な一打だけを残して消えた師匠が、この山奥の療養施設にいる。

 バスの中で、俺はずっと考えていた。会って何を言う? 殴るのか、頭を下げるのか、それとも六年分の敗北を一つずつ数え上げて突きつけるのか。答えは出なかった。ただ、地下雀壇で柴崎に散った夜も、鳴神杯で雛に孵化の一打を切らせた日も、鴉山さんの倍満に沈んだあの瞬間も、俺の中では全部この男に繋がっている。それだけは確かだった。

「ちょっと、あんた歩くの速い!」

 後ろでハルが息を切らしていた。ついて来るなと言ったのに、始発のバスに先に乗っていたのはこいつの方だ。

「あんたが変なこと言われて暴れたら、止める係が要るでしょ」

「暴れねえよ」

「どうだか。六年分の文句、溜めてるくせに」

 図星だった。俺は答えず、白い建物の門をくぐった。

 面会室ではなく、日当たりのいい談話室に、その男はいた。

 痩せていた。記憶より頬がこけ、髪に白いものが混じっている。だが牌を摘まんで独りで山を崩している指先だけは、六年前のまま静かで、正確だった。

「……来たか、陽」

 顔も上げずに言いやがった。心臓がひとつ、大きく跳ねた。

「あんた、生きてたなら——」

「まず座れ。立ったままの弟子と話す趣味はない」

 俺は椅子を蹴りたい衝動を噛み殺して座った。ハルが壁際で息を呑むのが分かる。

「訊きたいことは一つだ」

 声が震えないように、腹に力を入れた。

「なんで俺をこんな体にした。決め手の局面で口が勝手に動く。相手を覚醒させて、俺は負ける。柴崎にも、雛にも、鴉山さんにも——全部あんたが仕込んだ技術のせいだ! あんたは俺に、呪いを植えて消えた!」

 言い切った瞬間、鵜飼はようやく顔を上げた。

 病人の目じゃなかった。卓の向こうから打ち手を射抜く、あの目のままだった。

「呪い?」

 鵜飼は笑いもせずに言った。

「呪いなんかじゃない。楽に勝った自分を、お前自身が許せないだけだ」

「……何だと」

「お前は十五の頃から、勝ち方に値段をつける男だった。弱った相手から拾う勝ちは安い。迷ったままの相手を沈めて得る勝ちは安い。だからお前の口は、卓の上で一番高い勝ちを買おうとする。相手を最高にしてから勝つという、儂の教えの一番高い部分だけをな」

「それが呪いじゃなくて何なんだ!?」

「癖だ」

 鵜飼は牌を一枚、卓に置いた。乾いた音が談話室に響く。

「呪いなら解く術を探せばいい。だが癖は違う。お前が選び続けてきた癖だ。……口で言っても分かるまい。打つぞ、陽」

「は?」

「勝つためだけの模擬戦だ。二人打ちの変則でいい。点も金も懸けん。懸けるのは一つ——お前が『楽な勝ち』を拾えるかどうかだ」

 療養施設の談話室で、伝説の打ち手が卓を整え始めた。ハルが「ちょっと、病人でしょ!?」と声を上げたが、鵜飼は「病人に負けたら余計に効くだろう」とだけ返した。性格の悪さも六年前のままだった。

 打ち始めて、すぐに分かった。

 鵜飼は弱っていた。腕がじゃない。読みの速度が、六年前の半分もない。長考が増え、指先が牌の上で一瞬迷う。療養中の体は、かつて雀壇を支配した男から、閃きの持久力を確実に奪っていた。

 だから俺は勝てる。淡々と、安く、静かに勝てる。

 俺は無言で手を進めた。挑発はしない。教えない。育てない。雛戦で学んだはずの沈黙を、今度こそ最後まで貫く。捨て牌さえ手掛かりにさせないよう、鋭すぎる一打はあえて濁す。黙っていても捨て牌が教材になる——ハルに看破されたあの絶望まで、今日は計算に入れてある。原因は分かったんだ。楽に勝つことへの罪悪感。なら罪悪感ごと呑み込んで、目の前の勝ちを拾えばいい。それだけのことだろうが!

 東場。俺は千点、二千点の安手を拾い続けた。牌を倒すたび、胸の奥で何かが軋む。安い。この勝ちは安い。うるせえ、黙ってろ。俺は軋みごと歯で噛み潰して、次の配牌に手を伸ばした。

 南場。鵜飼の長考がさらに深くなった。指先が牌の上で止まり、二秒、三秒。六年前なら〇秒だった場所で、この人は今、霧の中を手探りしている。見ているだけで、腹の底が冷たくなった。伝説ってのは、こんなふうに痩せるのか。

「陽くん、あと少しよ! そのまま、そのまま何も言わないで!」

 ハルが祈るように両手を組んでいた。こいつはもう何度も、俺が勝ち筋を自分の口で焼き払う場面を見てきた。柴崎戦も、雛戦も、鴉山戦も。だから応援の言葉まで「何も言うな」になる。情けなくて、笑いそうになった。

 いける。今日の俺は、誰も覚醒させていない。リードは着実に積み上がっている。心拍だけが、嫌な速さで俺を急かしていた。

 そしてオーラス。俺の手は二千点の安手で完成した。鵜飼の捨て牌が河に落ちる。当たり牌だ。ロンと言えば終わる。師匠に勝つ。六年間の答え合わせが、こんなに安く、静かに終わる——

 その瞬間、決め手の牌が、重くなった。

 卓に伸ばした指の先で、二千点が鉛に変わる。目の前には、読みの速度を失い、長考の海で溺れながら、それでも往年の型を探している男がいる。この人はまだ、本当の手を思い出していない。ここで終わらせたら、俺は何に勝ったことになる!?

 ——違う。それが癖だ。それが逃げだ。分かってる。分かってるのに!

「あんた——」

 口が、動いた。

「六年前の決勝で残した最後の一打、あれ、まだ説明してもらってねえぞ! 思い出せよ、全部!! あんたの麻雀はそんな長考の先にあるもんじゃねえだろうが!!」

 言ってしまった。ハルが両手で顔を覆った。

 鵜飼の目の奥で、何かが灯った。

 長考が、消えた。次の巡目から、鵜飼の指は迷わなかった。六年分の眠りを吹き飛ばすように、痩せた腕が牌を叩きつける。乾いた打牌音が、談話室の空気を一枚ずつ張り詰めさせていく。捨て牌の川が意思を持って流れを変え、俺の待ちは三巡で裸にされた。

「嘘でしょ……病み上がりよ!? なんで一言であそこまで戻るのよ!!」

 ハルの悲鳴が遠くに聞こえる。俺は答えられなかった。答えは俺の喉が一番よく知っている。この人を戻したのは、俺の口だ。十五の夜に俺を覚醒させた男を、二十一の俺が覚醒させ返している。師弟で呪いのキャッチボールをして、どうする!

 俺は必死に受けに回った。危険牌を抱え、安全牌を探し、鴉山戦で見逃したロンの記憶が指先にちらつく。だが遅い。目の前の男はもう、療養中の病人じゃなかった。全国青年戦の決勝で俺の前に立ちはだかった、あの伝説の打ち手だった。

 最後のツモ牌を、鵜飼は天井にかざした。窓から差した西日が、その一枚を白く光らせた✨。

「ツモ。……久しぶりに、脳が焼けたわ」

 倍満だった。積み上げたリードごと、俺はひっくり返されて散った。

 卓の下で、俺は拳を握り潰した。爪が掌に食い込む。悔しい。原因を全部理解した上で、一ミリも抗えなかった。理解と克服の間に、こんなに深い谷があるのか!

「な、分かったろう」

 鵜飼は牌を倒したまま、静かに言った。

「原因を知ることと、乗り越えることは別だ。お前は今日、それを体で確かめに来たんだ。……いい面構えになった。六年前より、ずっと負けず嫌いの顔をしている」

「慰めはいらねえ」

「慰めじゃない。診断だ」

 鵜飼は散らばった牌を一枚ずつ、山に戻し始めた。

「相手を最高にして、その上で勝て。儂の教えは今も変わらん。お前は前半分だけを極めて、後ろ半分から逃げ続けてきた。病み上がりの相手にすらこれだ。お前はこの癖を抱えたまま、いずれ本物と当たる。覚悟だけはしておけ」

「……あんたが決勝で消えた理由も、あの最後の一打の意味も、結局教えねえのかよ」

「教えん。それはお前が後ろ半分に辿り着いた日に、自分で分かる」

 どこまでも師匠だった。俺は文句を言う気力も残っていなくて、ただ深く息を吐いた。

 帰り支度をする俺に、施設の職員が一通の封筒を差し出したのは、その直後だった。宛名は東雲陽様。差出人の名を見て、ハルが悲鳴みたいな声を上げた。

 氷室玲王。無敗の王者。天頂位。

 中身は、天頂位決定戦への指名状だった。挑戦者を王者自らが選ぶ三半荘制の頂上決戦に、公式戦で一勝もしていない俺の名前が記されている。添えられた一文は、たった一行。

「退屈を殺せるのは、覚醒屋だけだと聞いた」

 鵜飼が封筒を一瞥して、初めて笑った。

「言った傍から、本物のお出ましだ」

 俺は指名状を握りしめた。第1話でハルの招待状を握り潰さなかった、あの時と同じ強さで。癖は治っていない。谷は越えていない。それでも——

 無敗の王者・氷室玲王。あんたの退屈、俺が意地でもぶっ壊してやるよ!!

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