第11話 眠れる無敗王
エレベーターが最上階に着くまでの数十秒、俺は胸ポケットの上から指名状を二度叩いた。無敗の王者・氷室玲王の名で届いた、天頂位決定戦への指名。三半荘制、二本先取。かませ犬が呼ばれる舞台としては、上等すぎるほど上等だった。
「いい? 陽。今日のあんたの敵は氷室じゃない。あんたの口よ!」
観戦席へ回る前に、ハルが俺の胸元へ指を突きつけてきた。分かってる。作戦はもう決めてある。一切喋らない。挑発しない。相手の弱さが見えても、見なかったことにする。小さな和了を淡々と積み上げて、王者に何ひとつ与えないまま点棒だけを削り取る。華のない、みみっちい、俺が一番苦手な麻雀だ。
「勝って帰ってきなさいよ。絶対!」
「おう」
それだけ言って、俺は対局室の扉をくぐった。
昨夜、ねむの木を出るとき、志乃はいつもの柔らかい声で「おかえりを言う準備だけは、してあるからね」とだけ言った。負けて帰っても、勝って帰っても、あの店の椅子はひとつ空いている。だから俺は、今日くらいは勝って座りたい。雛に散り、鴉山に散り、鵜飼にまで散った俺の、これが最後の卓かもしれないのだから。
毛足の長い絨毯が足音を吸い込む。照明を絞った部屋の中央に、緑の羅紗だけが光の中へ浮かんでいた。その向こうに、氷室玲王が座っていた。
初めて間近で見る無敗の王者は――退屈そうだった。
整った顔に表情らしい表情はなく、背筋は美しく伸びているのに、目だけがどこか遠い。立会人の口上も対局規定の読み上げも、氷室は聞いているのかいないのか、湯呑みの縁を指先でなぞっている。防衛十七期、公式戦無敗。頂点に立ったまま降りることを許されない男は、勝負が始まる前から勝負に飽きていた。
――ああ、見えちまった。
俺の悪い目は、卓に着いた瞬間から相手の一番柔らかい場所を探し始める。氷室玲王の急所は打ち筋じゃない。この退屈だ。こいつは麻雀に焦がれていない。喉の奥で言葉が疼いた。お前、そんな目で牌に触るな――。
言うな。俺は奥歯を噛みしめて、言葉ごと胃の底へ飲み下した。
第一半荘、東一局。
配牌を開いた瞬間、手が三色へ伸びる形をしているのが見えた。育てれば跳満まで届く。かつての俺なら真っ直ぐ打った。派手に、美しく、相手の血が沸き立つように。
崩した。
ドラを一巡目に切り飛ばし、最速最安の形へ組み替える。二巡、三巡。氷室の捨て牌は教科書のように正確で、そして何の熱もなかった。六巡目、俺は千点の手をあっさりツモった。
「三百、五百」
声に出すのは点数だけ。目は合わせない。牌を倒すときも静かに、事務的に。氷室は眉ひとつ動かさず点棒を寄越した。指先が触れ合いもしない距離を、点棒が羅紗の上を滑ってくる。その乾いた音が、妙に耳へ残った。
東二局は氷室が流れるように二千六百を和了った。手順に淀みひとつない、完璧な和了だった。だが牌を倒すその手つきは、伝票へ判を捺すのと同じ速さと温度しかなかった。観戦席のどこかから、押し殺したささやきが漏れる。覚醒屋だ。王者様の景気づけに呼ばれた咬ませ犬だとよ。相手を化け物にして散るのが芸なんだろ――。
聞こえてるぞ、と思った。ああ、その通りだよ。俺は雛を孵し、鴉山に翼を返し、散り続けてきた男だ。だがな、今日は違う。今日の俺は、意地でも勝つためだけにここへ来た!
次局も、その次も、俺は同じことをやった。大きく育つ手は全部その場で殺す。和了へ届く最短の道だけを拾う。リーチは打たない。打点は晒さない。読み筋の痕跡すら捨て牌に残さない。相手に情報を与えず、感情も揺らさせない麻雀。
地味だ。地味すぎて、途中から自分の心臓の音のほうがうるさくなった!
なぜなら俺の目は、拾い続けているからだ。氷室の指がふっと緩む瞬間を。ツモった牌を確かめもせずに切る、あの投げやりな手首の角度を。南場に入る頃には、氷室は明らかに集中を欠いていた。王者の麻雀は精密なまま、ただ精密なだけになっていく。
――こんなもんかよ、天頂位!
言いたい。違う、言いたいんじゃない。口が勝手に動こうとするんだ。お前の麻雀はそんなものか、目を覚ませ、本気の氷室玲王と打たせろ――そう叫んで、この眠った王様を叩き起こしたくてたまらない。だがそれをやった瞬間、俺は今日もかませ犬だ。雛を孵し、鴉山を蘇らせ、鵜飼にすら届かなかった、あの負け犬のままだ。
卓の下で、俺は左手の爪を掌へ食い込ませた。皮膚が裂けそうなほど握り込んで、ようやく喉元の言葉が引っ込む。息を吐く。牌を切る。また言葉がせり上がる。握り潰す。その繰り返しだった。ツモ山へ伸ばす右手は勝負をしているのに、卓の下の左手はずっと、俺自身と殴り合っていた。
喋らなければいい、なんて甘い話じゃないことは、雛との三日間で骨身に染みている。捨て牌ひとつ、間ひとつが相手の教材になる。だから今日は教材そのものを消す。俺の麻雀から、俺を全部消す。それは麻雀を覚えてから今日までで、一番苦しい打ち方だった。
南四局、オーラス。俺の持ち点は氷室のちょうど千五百点上。
配牌はまた育つ形をしていた。満貫が見える。ここで決めれば文句なしの完勝――と考えた刹那、決め手になる一枚が指の中でずしりと重くなった。来た。いつもの重さだ。勝ちが見えた瞬間、俺の体は勝ちから逃げようとする。鵜飼の療養所で敗れたあの日と、寸分違わない重さだった。
……逃がすかよ、今日だけは!
息を止めて、指先だけで牌の重さを殺す。心臓が肋骨の裏を叩いている。六年間、この重さに負けて散ってきた。決め手の一枚が鉛になるたび、俺は相手へ言葉を投げて、自分の勝ちを明け渡してきた。だが今日は投げない。誰も奮い立たせない。この重さごと、俺は勝つ!
俺は満貫への道を自分の手で潰した。派手な決着は要らない。二巡で組み上がる、形だけの安手に舵を切る。九巡目、氷室が何気なく河へ置いた一枚に、俺は静かに手牌を倒した。
「ロン。千点」
対局室が、しんと静まり返った。
千点。天頂位決定戦の第一半荘を締めくくるには、あまりに小さな、あまりに華のない和了。観戦席のざわめきが波のように広がっていくのが、背中で分かった。だが俺の耳には、崩れた牌の音だけが残っていた。
立会人が半荘の終了を告げる。第一半荘、東雲陽の先取。無敗の王者が、半荘とはいえ卓の上で初めて「負け」の側に座った瞬間だった。観戦席のほうから、ハルの押し殺した歓声が聞こえた気がした。
勝った。作戦通りに。完璧に。半荘ひとつとはいえ、無敗の王者から先取の一本をもぎ取った。三半荘のうち、あと一本。あと一本で、俺は生まれて初めて、誰かの引き立て役じゃない場所へ立つ。
なのに、掌にはじっとりと汗が浮いていた。千点を宣言したあの一瞬、喉の奥まで出かかっていたのだ。「お前はこんなもんじゃないだろ!!」という――俺を六年間かませ犬にし続けてきた、あの言葉が。
耳の奥で鵜飼の声が蘇る。楽に勝った自分を、お前自身が許せないだけだ。……うるせえ。今日の俺は許す。楽に勝つ。惨めでも退屈でも、勝ちは勝ちだ!!
「……ふ」
息のような音がした。顔を上げると、氷室玲王が笑っていた。
初めて見る表情だった。あれほど遠かった目に、ゆらりと火が入っている✨。氷室は崩れた点棒の山から一本を抜いて指先に立てると、俺を真っ直ぐに見据えた。
「退屈しなかったよ、久しぶりに。半荘をひとつ俺に捨てさせて、『負け』の味を思い出させる。……いい前菜だ」
「……買い被るなよ。俺はただ、勝ちに来ただけだ」
「嘘だね」
王者は即答した。静かな、しかし断ち切るような声だった。
「お前はさっきから、ずっと何かを言いたそうにしている。俺の麻雀が眠っていることに、この会場の誰よりも腹を立てている。……なあ、覚醒屋。もっと俺を本気にしろ。お前はそのために呼ばれたんだろ!?」
心臓を、素手で掴まれた気がした。
こいつは知っている。俺の体質も、俺の負け方も、雛戦も鴉山戦も、全部調べ尽くした上で――自分を叩き起こす道具として、俺をこの卓へ呼んだのだ。あの指名状は挑戦状じゃない。処方箋だ。眠れる王様の、退屈という病のための。
「……生憎だが」
俺は椅子を引いて立ち上がり、震えそうになる声を腹の底で押さえ込んだ。
「俺はお前の目覚まし時計じゃねえ。眠ったまま負けろ、氷室玲王。二本目も、俺が獲る!!」
言い切った口の端が、ひくりと歪んだのが自分で分かった。強がりじゃない。恐怖だ。第一半荘を取り切ったこの手の中で、決め手の牌はもう、あんなにも重かったのだから。
休憩を挟んで始まる第二半荘――卓の向こうで俺を待つ王の目は、もう完全に開いていた。




