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第12話 勝つほど育つ敵

第二半荘の開始を告げるブザーが、対局室の空気を薄く震わせた。

 天頂位決定戦、三半荘のうちの二本目。俺は一本を先取している。あと一本取れば、無敗の王者から玉座を引きずり下ろせる。数字の上では、俺が有利だ。

 会場は静かだった。地下雀壇の怒号もなければ、鳴神杯の拍手もない。中継カメラの赤いランプと、記者たちの抑えた息遣いと、磨き抜かれた牌の音だけがある。頂点の勝負というのは、こんなに音がしないものなのか。静けさが、逆に肌を刺した。

 なのに、卓に着いた瞬間から心拍が上がりっぱなしだった。

 卓の向こうで、氷室玲王が牌山に指を置く。第一半荘を落とした男の顔じゃない。点棒を失った悔しさも、王座を脅かされる焦りもない。むしろ楽しみで仕方ない、という目をしていた。

 ――もっと俺を本気にしろ。お前はそのために呼ばれたんだろ!?

 休憩の間じゅう、あの言葉が耳の奥で鳴り続けていた。冗談じゃない。俺はお前を本気にさせるために来たんじゃない。天頂位を獲りに来たんだ。誰かを主人公にするための出張サービスは、もう店じまいだ。

 だから、作戦は変えない。喋らない。煽らない。安い手を淡々と重ねて、情報を一枚も渡さない。俺の麻雀を、実務にする。夢も熱も控え室に置いてきた。持ち込むのは点棒の計算だけだ。

 東一局。配牌はまずまず。俺は最速で千点の手を組み、五巡目に静かに倒した。

「ロン。千点」

 声も最低限。目も合わせない。氷室は薄く笑って点棒を寄越した。指先が触れそうになる距離で、体温のない点棒だけが行き来する。それでいい。熱を渡すな。言葉を渡すな。渡していいのは、退屈だけだ。

 東二局も同じだ。二千点。派手さの欠片もない和了を、事務処理みたいに積む。観戦席のハルが身を乗り出しているのが視界の端に映る。いいぞ、この流れだ。第一半荘と同じ勝ち方で、同じように削り切る。

 ――そのはずだった。

 東三局、俺は違和感に気づいた。

 氷室の捨て牌が、変わっている。

 序盤に危険牌の芽を早々と処理する順序。中盤で手を曲げてでも安全を確保する呼吸。終盤、俺の待ちの色をわずかに避けて通る牌の並び。一枚一枚は地味だ。解説者も拾わないような、地味で、正確で、隙のない選択。それは、他の誰でもない――俺が第一半荘でやってみせた守り方だった。

 背筋に冷たいものが走る。

 まさか。

 東四局、確信に変わった。氷室の手が速くなっている。俺が徹底してきた「安くても最速」の速度を、王者は一局でなぞり、二局で追いつき、三局目には超えてきた。この局、俺はリーチまで漕ぎつけたのに、氷室は俺の危険牌を一枚も撃たずに千三百でかわし切った。逃げたんじゃない。俺の押し引きの基準を、そっくりそのまま俺に向けて使ったんだ。自分の打牌を鏡で見せられているような、胃の裏側を撫でられる不快感。昨日までの氷室は、退屈そうに大物手だけを狙う打ち手だった。今卓の向こうにいるのは、千点の価値を知った王者だ。

 誰が教えた?

 ……俺だ。

 俺の勝ち方そのものが、教材になっている。

「南場に入ります」

 立会人の声が遠い。俺は自分の指先を見た。震えてはいない。だが、覚えがある。この感覚には、嫌というほど覚えがある。

 鳴神杯の初戦。天城雛との二日目だ。俺は一言も喋らないと決めて卓に着いた。助言を殺し、声を殺し、それで勝てると思っていた。なのに、俺の捨て牌の鋭さそのものが、あの子の教材になった。雛は俺の切る一枚一枚から手順を逆算し、俺の思考をなぞって、俺の先へ行った。あの時ハルに言われたんだ。あんた、黙ってても相手を育ててるじゃない、と。

 あの時は捨て牌だった。切る一枚が語りすぎた。だから俺は、あれ以来ずっと考えてきたんだ。どこまで削れば、俺は誰も育てずに勝てるのか、と。言葉を削った。表情を削った。打点まで削った。その果てがこれか!?

 今度は、勝ち方の全部だ。

 最悪の再演だった。言葉を封じ、表情を消し、和了の声すら削った。それでも駄目なんだ。俺が勝つという行為それ自体が、強い奴にとっては最高の授業になる。まして相手は、無敗のまま頂点に居座り続けた化物だ。吸収の速さが、雛とは桁違いだった。覚醒屋は、口を縫い合わせても覚醒屋のままだった。

「……っ」

 どうすればいい。勝ち方を変えるか? 駄目だ、変えた瞬間、その新しい勝ち方がまた教材になるだけだ。わざと下手に打つか? 論外だ。手を抜いた麻雀で天頂位を獲って、それで俺は誰に胸を張れる。雛に「数字の外」を教えた俺が、鴉山に「そんな麻雀で負けを惜しむな」と吠えた俺が、手加減で拾った勝ちを勝ちと呼べるわけがない!!

 南一局、俺は親番で二千九百を和了った。勝っている。点差は開いている。なのに、勝つたびに胃の底が重くなる。この一勝が、次の局の氷室を強くする。俺は点棒と引き換えに、王者に麻雀を教えている。月謝の代わりに点棒を受け取る、世界一割に合わない家庭教師だ。

 観戦席で、ハルが立ち上がった。

「……嘘でしょ」

 声が震えている。あいつも気づいたんだ。

「あんたが勝つたび、王者が強くなってる!!」

 場内がざわめいた。記者の誰かがペンを落とし、慌てて拾う音がした。的確すぎる実況だった。そうだよハル、その通りだ。俺は今、世界で一番間抜けな貯金をしている。利息が全部、敵の血肉になる貯金だ。ハルは係員に注意されて唇を噛み、座り直した。あいつが本気で悔しがる顔を、俺は何度も見てきた。柴崎戦で、雛戦で、鴉山戦で。もう見せないと決めたはずの顔だった。悪いなハル。今日のところは、もう少しだけその顔をさせちまう。

 南二局。俺の手に、久しぶりに本物の手が入った。丁寧に育てれば満貫。ここで決定打を入れれば、第二半荘ごと押し切れる。

 俺は静かに手を進めた。ツモ切りの音だけが卓に落ちる。十一巡目、聴牌。待ちは悪くない。山にまだ生きている。あとは引くか、出るかだ。

 その時だった。口の奥が、疼いた。

 ――なあ氷室。お前、今めちゃくちゃ面白いだろ。退屈だった麻雀が、一局ごとに新しくなってるだろ。何年ぶりだ、その顔。だったらもっと――

 言うな!! 俺は奥歯を噛んで言葉を潰した。何を励まそうとしてるんだ。誰よりも覚醒させちゃいけない相手を前にして、俺の口はまだ相手の背中を押したがっている。楽に勝った自分を、お前自身が許せないだけだ――山奥の療養施設で鵜飼に看破された病巣が、今この瞬間も膿んでいる。負けず嫌いのくせに。意地でも勝ちたいくせに。卓の下で拳を握り潰し、俺は無言のまま次のツモに手を伸ばした。

 引かない。ならば出るのを待つだけ――。

「ツモ」

 声は、向かいから降ってきた。心臓が一拍、大きく跳ねて止まりかけた。

 氷室が牌を倒す。開かれた手を見て、俺は息を呑んだ。

 同じだった。

 待ちが、俺と同じだった。

 俺が十一巡かけて辿り着いた最終形に、王者は同じ巡目で、同じ待ちで、先に立っていた。残り一枚のその牌は✨、俺の掌ではなく、氷室の指先で光っていた。

「三千・六千」

 点棒を受け取りながら、氷室は初めて俺の目を真っ直ぐ見た。

「いい麻雀だ、東雲。お前の勝ち方は、教科書より分かりやすい」

 ぞっとするほど静かな声だった。嘲りじゃない。本物の賛辞だ。だからこそ致命的だった。俺の最善手は、もう俺だけのものじゃない。同じ正解に二人で辿り着くなら、地力で勝る王者が先に着く。それだけの話になってしまう。掌の中で、倒しそこねた聴牌の形がじっとりと汗を吸っていた。決め手の牌が重くなるのは、いつも和了る直前だった。今日は違う。手牌の全部が、最初から重い。

「面白くなってきた」

 氷室が牌を伏せ、口の端を上げる。

「次は何を見せてくれる? 覚醒屋」

 南三局の配牌が、鉛みたいに重かった。十三枚の一枚一枚が、切った瞬間に俺の内側を氷室へ運んでいく密偵に見える。正しく打てば打つほど、俺の正しさは吸われていく。教科書を書いた人間が、教科書通りに打って勝てるはずがない。

 なら答えは一つしかない。

 教科書を、この手で破り捨てることだ。正解の側で戦うから模倣される。だったら、正解が存在しない場所で殴り合えばいい。読みも、確率も、定石も溶けて流れる乱戦の泥の中でなら、模倣する手本そのものが消える。危険で、無様で、俺の命綱ごと焼き払う一手だ。それでも、指先はもう疼いていた。恐怖より先に、闘志が来ていた。

 ――正解のない場所まで、お前を引きずり込んでやるよ、氷室!!

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