第13話 王者、血を流す
第二半荘、南入り。決定戦の会場は静まり返っているのに、俺の耳の奥ではずっと嫌な音が鳴っていた。自動卓が牌を積む低い唸り。点棒の触れ合う乾いた音。その全部が、じわじわと氷室玲王の側へ流れていく音に聞こえる。実際、俺の手元は薄くなっていた。
原因は分かっている。俺の勝ち方そのものが、王者の教材になっているからだ。安く早く回す手順も、引き際の呼吸も、待ちの取り方さえも、氷室は一局ごとに吸い上げ、前の局より正確になって返してくる。挙げ句の果てに、俺とまったく同じ待ちで先にツモられた。自分の指紋のついた刃物で刺されるような感覚。背筋が凍るというのは、ああいう瞬間のことを言うんだろう。あのとき観戦席のハルが叫んだ言葉が、まだ耳に刺さっている——あんたが勝つたび、王者が強くなってる、と。
模倣なんて生易しいもんじゃない。あれは捕食だ。理屈ごと喰われている。黙って打っても、捨て牌が教材になる——雛との三日間で思い知らされた絶望の、これは最悪の再演だった。
なら、やることは一つだ。
——この卓から、正解そのものを消す!
次の配牌を開いた瞬間から、俺は自分の中のセオリーを一枚ずつ破り捨てた。手拍子で切るべき牌を残し、残すべき牌を叩き切る。三巡目、誰の目にも危険と分かる牌を、何の合図もなく卓の真ん中へ放った。
「は……!?」
観戦席のハルが素っ頓狂な声を上げるのが聞こえた。
「あんた、何切ってるの!? 死ぬ気!?」
死ぬ気だよ。半分はな。
正しい麻雀は、正しいがゆえに読める。手順には理由があり、理由には形がある。氷室はその形を喰って強くなる。だったら、理由のない牌を混ぜてやればいい。俺自身にも次の一打が読めない、確率と度胸をごちゃ混ぜにした乱戦へ、王者ごと引きずり込む!
鵜飼の教えとは真逆だ。雛に教えた「数字の外」とも違う。これはもう麻雀ですらないのかもしれない。それでも、指先は不思議なくらい軽かった。誰かを育てるための一打じゃない。ただ勝つためだけの、行儀の悪い一打。……悪くない感触だった。
氷室の視線が、初めて牌から俺の顔へ上がった。
「……手順が、読めない」
「読ませる手順なんか、最初からねえよ」
俺は笑ってやった。氷室の指が、ツモった牌の上で一瞬止まる。あの流れ作業のように完璧な所作に、初めてノイズが走った。
そこからは泥沼だった。俺は危険牌を切り続け、時に自分の手を半分壊してまで場を濁らせた。通るはずのない牌が通り、通るはずの牌が咎められる。卓の上から「正解」が消えていく。写し取った「俺の形」は、形のない場では機能しない。手本そのものが暴れているんだから、当然だ。
南一局、氷室は俺の捨て牌をなぞるように受けを固め、なぞった先で手詰まった。写す線が途切れたのだ。あの男がツモ切りを三巡続けた。たったそれだけのことに、会場の空気がざわりと揺れた。無敗の王者が、目の前の一枚に迷っている。誰も見たことのない光景だった。
「嘘でしょ……あの氷室が、止まってる」
ハルの呟きが、静かな会場ではっきり聞こえた。
心臓は破裂しそうだった。一打ごとに命綱なしで崖を渡る。指先は冷たいのに、腹の底だけが熱い。それでも口の端が上がるのを止められない。ああ、そうだ。俺はずっと、こういう勝負がしたかったんじゃないのか!
そして南二局。俺の捨てた無筋を氷室が信じ、次巡、あいつの切った牌に、俺の手が倒れた。
「ロン」
声は静かに出た。倒した手を見て、立会人が息を詰め、掠れた声で点数を告げる。倍満。氷室玲王、この決定戦で初めての、まともな失点だった。
観戦席がどよめいた。ハルが両手を突き上げて何か叫び、慌てて口を押さえるのが視界の端に見えた。
場が、しんと冷えた。
点棒を差し出す氷室の手が、卓の上で止まっている。長い指が白い束を掴んだまま、動かない。
「……おかしいな」
低い声だった。
「今、胸の奥が焼けた。点棒などただの棒だ。何百回も渡してきた。惜しいと思ったことなど、一度もなかった」
氷室は自分の手のひらを見下ろした。まるで他人の手を眺めるみたいに。
「なのに今、渡したくないと思った。……なんだ、これは」
「それはな——」
言いかけて、俺は奥歯を噛んだ。
だめだ。言うな!
それは悔しさって言うんだよ、王者さま。あんたが無敗の年月まるごと置き忘れてきた、麻雀の一番熱い部分だ——喉元まで駆け上がった言葉を、俺は力ずくで飲み下した。
言えば、氷室は完成する。名前を与えられた感情は武器になる。俺はそれを誰よりも知っている。柴崎にそうした。雛にそうした。鴉山にそうした。名前を与えて、覚醒させて、そして散った。六年間、ずっとだ。
口が勝手に動く。動こうとする。頬の内側の肉を、犬歯が突き破りそうなほど噛んだ。鉄の味が舌に広がる。
言いたい。教えてやりたい。おまえの麻雀は今この瞬間から始まるんだと、叫んでやりたい!——それが俺の病気だ。相手が立ち上がる瞬間にしか自分の値打ちを感じられない男の、六年物の病気。楽に勝った自分を、お前自身が許せないだけだ——山奥で鵜飼に看破された言葉が、噛み締めた歯の奥で軋んだ。
だが今日は。今日だけは。
「……っ」
噛み締めた唇の端から、血が一筋、顎を伝った。卓の縁に、赤い点がひとつ落ちる。
観戦席で、ハルが息を呑むのが分かった。あいつは気づいたはずだ。俺が今、生まれて初めて、自分の体質と正面から殴り合っていることに。
「言わないのか」
氷室が言った。
「おまえはそういう男だと聞いていた。相手に足りない最後の一枚を、わざわざ口で埋めてやる男だと。……覚醒屋。俺のこの感情にも、名前をつけてくれるんじゃなかったのか」
「……自分で、探せ」
声が掠れた。血の味と一緒に、俺はもう一度言葉を飲んだ。全身が、損をしていると喚いている。それでも飲んだ。
「そうか」
氷室は点棒を俺の前に置いた。そして、笑った。第一半荘の終わりに見せた、あの薄氷みたいな笑いじゃない。歯を剥き出した、獣の笑いだった。
「なら——奪って、思い出す」
次の局、王者は変貌した。
受けて往なして構える麻雀が、卓から消えた。先制、追っかけ、真っ向からの捲り合い。写し取った俺の形さえ脱ぎ捨てて、氷室玲王は剥き出しの牌を叩きつけてくる。一打ごとに卓が鳴った。あの端正な横顔が、今は前のめりに歪んでいる。額に、無敗の王者が一度も掻いたことのなかったはずの汗が光っていた。
「負けたくない」
リーチ棒を叩きつけながら、氷室は言った。小さく、自分に確かめるように。それから顔を上げ、今度は卓の全員に聞こえる声で。
「負けたくない!! なんだ、この感情は……最高じゃないか!!」
その一局、俺は削られた。次の局も削られた。氷室の攻めは荒く、粗く、そのくせ牙の一本一本がやたらと深い。整った麻雀なら乱戦に沈めればいい。だが剥き出しの麻雀は、乱戦の中でこそ暴れ回る。俺の作った泥沼で、王者は泳ぎ方を覚え始めていた。積み上げた倍満のリードが、目に見えて溶けていく。
ハルが頭を抱えるのが見えた。あんたまた、と唇が動いている。違う。今回は違うんだ。俺は何も言っていない。一言も言わずに、ここまで来た。血を流して、ここまで来たんだ!
だが、分かってもいる。まだ足りない。氷室の攻めには最後の一枚が欠けている。「負けたくない」の先にあるもの。勝ちたい、でもまだ足りない、もっと剥き出しの何か。それを言い当てる一言が、さっきから俺の喉の奥で疼き続けている。言えば、あいつは完成する。完成した王者は、多分、今の俺には止められない。
言わなければ、俺は未完成の王者を喰って、生まれて初めての勝利に手が届くかもしれない。
……それは、勝ったことになるのか?
鵜飼なら言うだろう。相手を最高にして、その上で勝て、と。だが俺は鵜飼じゃない。六年間、相手を最高にして、その下で散り続けてきた男だ。今さら綺麗な勝ち方を選ぶ資格なんて、俺のどこにある。それでも——それでもだ。目の前で牙を剥くこの男を、足りないまま倒して、俺は胸を張れるのか。雛の孵る瞬間を、鴉山の飛ぶ瞬間を、誰よりも近くで見てきたこの俺が!
卓の下で、拳を握った。爪が手のひらに食い込む。唇の血はもう乾き始めている。ツモった指先に、決め手になり得る牌の重い感触✨。牌が重い。いつもの、あの重さだ。
——言うのか、言わないのか。次にこの口が開く瞬間が、俺という男の答えになる。




