第14話 覚醒させて、倒す
唇の内側で、まだ血の味がしていた。
昨夜、決定的な一言を噛み殺した痕だ。氷室玲王を完成させてしまう言葉を、俺は生まれて初めて呑み込んだ。呑み込めたことが、誇らしかった。ついに体質に抗えたのだと、そう思っていた。
――この局に入るまでは。
天頂位決定戦、第二半荘、オーラス。親番は俺。点棒はわずかに俺が上。この半荘を守り切れば二連取、三半荘制の決定戦はそこで終わる。無敗の王者から、咬ませ犬の俺が、頂点を奪い取って終わる。
黙って、逃げ切ればいい。それだけの話のはずだった。
「……ツモ」
氷室の声は低く、卓に置かれた牌は硬い音を立てた。第一半荘で退屈そうに点棒を投げていた男は、もうどこにもいない。乱戦に引きずり込まれ、初めての失点に怒り、負けたくないと叫んだ男は、一局ごとに打牌が重く、速くなっていた。無敗の仮面はほとんど剥がれ落ちている。
だが、俺には見えていた。
まだ一枚、最後の薄皮が残っている。
攻めに転じる直前、氷室の視線がほんの一瞬、俺の捨て牌の安全圏へ揺れるのだ。十年間負けなかった男の、負けたことがないゆえの、最後の鎖。危険牌を掴んだ指が、コンマ数秒だけ迷う。その迷いがある限り、氷室玲王は完全ではない。
そして俺は、その迷いの突き方を知り尽くしていた。
安全に見える流れを餌に撒き、王者の攻撃を半歩ずつ遅らせる。遅れた半歩の分だけ、俺の安手が先に間に合う。第二半荘に入ってから積み上げてきた、地味で、確実で、完璧な包囲網。あと二巡。あと二巡凌げば、俺は未完成の王者を倒し切る。
勝てる。今度こそ、本当に勝てる!!
卓上の空気は張り詰めて、誰かが牌を撫でる音さえ耳に刺さった。自摸るたびに指先が汗で滑りそうになる。俺は膝の上で一度だけ手を握り、開いた。心拍が速い。速いが、乱れてはいない。第一半荘を取り、第二半荘もここまで組み立ててきた。俺の読みは冴えている。この決定戦の俺は、間違いなく人生で最強の俺だ。
氷室が牌を曳く。指が止まる。コンマ数秒の、あの迷い。捨てられたのは、攻め筋を自ら殺す一枚だった。よし――鎖はまだ切れていない。あと二巡、王者は半歩遅れ続ける。
観戦席の最前で、ハルが祈るように両手を組んでいるのが見えた。声は出さない。出せば俺の集中が乱れると知っているから、あいつは唇だけで叫んでいる。勝って。今度こそ、勝って――!!
ツモった牌を見た瞬間、心臓が跳ねた。
揃った。あとはこの一枚を河へ置けば、俺の手は完成へ向かって静かに滑り込む。氷室の最後の迷いに付け込んだまま、何も起こさせずに終わらせる一枚。
そのとき、喉の奥で、あの言葉が起き上がった。
――その迷いを捨てろ、氷室。お前の麻雀は、守りを覚える前の方が強かった!!
言えば王者は完成する。完成した氷室に、この点差で勝てる保証はどこにもない。噛め。噛み殺せ。俺は奥歯を軋ませ、昨夜と同じ場所を噛んだ。鉄の味が広がる。これでいい。これで勝てる。これで――
これで?
ふいに、山奥の療養施設の白い部屋が蘇った。車椅子の上から俺を見据えた、師の目。
――呪いなんかじゃない。楽に勝った自分を、お前自身が許せないだけだ。
あのとき、意味は分かっても、腑には落ちなかった言葉。それが今、遅れて胸の底に着弾した。
……そうか。そういうことか、鵜飼さん。
六年間、俺は口が勝手に動くのだと思っていた。体質だと、呪いだと思っていた。違う。俺は相手を最高にして負けることで、「本気の相手には仕方ない」と自分を許してきたんだ。
走馬灯のように、散ってきた卓が巡った。数字の檻を破って恐怖ごと牌を切った雛の目。黒翼を取り戻し、渾身の倍満で儂はまだ飛べると吼えた鴉山の背中。あいつらを孵したのは俺の言葉で、俺はそのたびに、覚醒した相手の輝きの中へ気持ちよく散っていった。負けた瞬間の俺は、いつだって少しだけ安堵していたんだ。認めろ。認めちまえ。最高になった相手になら、負けても俺の格は落ちない――そういう保険を、俺はずっと掛け続けてきた!!
そして今、俺は言葉を噛み殺しながら、まったく同じことをしようとしている。迷いの残った王者を倒して、勝った後で一生こう言い訳するんだ。あれは本物の氷室じゃなかった、俺はまだ本当には勝っていない、と。
口を塞いだだけだ。逃げ道の形が変わっただけだ!!
冗談じゃねえ。
俺は、勝ちたいんじゃなかったのか。ガキの頃から、負けるたびに卓の下で拳を握り潰して、それでも意地でも勝ちたかったんじゃなかったのか!! だったら欲しいのは言い訳つきの勝利じゃない。誰にも、俺自身にも文句を言わせない、完全な勝利だ。
相手を最高にして、その上で勝て。それが本物の強者だ――師の教えの、後ろ半分。俺がずっと目を逸らしてきた、教えの本体。
覚醒させて、倒す。
口にすれば無謀としか聞こえない。相手は無敗の王者で、こっちは負け続けてきた咬ませ犬だ。完成した氷室玲王は、間違いなく俺が卓を挟んできた誰よりも強い。それでも、だ。それでもこの道しか、俺が本当に勝てる道はない。掛け続けてきた保険を全部焼き捨てて、退路を断って、最強になった敵の正面から奪い取る勝利以外、俺の六年間に釣り合う答えはないんだ!!
初めて、俺の体質と俺の意志が、同じ方向を向いた。腹の底で、何かががっちりと噛み合う音がした。
指先の牌が、ずしりと重くなる。いつもの重さだ。決め手の一枚は、いつだって鉛になる。だが今日はその重さの意味が違う。これは逃げる重さじゃない。背負う重さだ。
俺は牌を握り、卓の向こうを真っ直ぐに見た。
「氷室」
王者の目がこちらを向く。まだ一枚、薄皮の残った目。
「お前、まだ半分寝てるぞ。十年分の無敗が惜しいか。守りながら攻める器用な麻雀で、俺に勝ったことにするつもりか!!」
観戦席がどよめいた。ハルが立ち上がるのが視界の端に映る。あんた、また――そう叫びかけた口のまま、あいつは凍りついた。
「来い、氷室!! お前の全部を俺にぶつけろ――!?」
叫びながら、俺は鉛の一枚を振り抜いた。河の照明を受けて、牌が白く煌めく✨。氷室の待ちのど真ん中。最後の迷いごと王者を焼き切る、決着の一打。
沈黙は、一秒にも満たなかった。
氷室玲王が、笑った。仮面が砕ける音を、俺は確かに聞いた気がした。
「ロン」
静かな二文字が、爆音より深く会場を貫いた。倒された手牌を見て、立会人の声が裏返った。役満。手段を選ばず最短で頂点だけを狙い撃つ、剥き出しの構え。守りの色が一枚もない。安全圏へ揺れていたあの視線は、もうどこにも存在しなかった。これが、眠りから覚めた王者の本性か!!
観戦席が割れるように沸いた。悲鳴と歓声の区別がつかない。誰かが「覚醒屋がまたやった」と叫び、誰かが「違う、あれは自分から行ったんだ」と叫び返すのが聞こえた。そうだ。今回は、俺から行った。
点棒の山が、音を立てて崩れていく。俺の積み上げた包囲網ごと、第二半荘が氷室の側へひっくり返った。腸の底が焼けるように熱い。悔しい。役満の直撃なんて、悔しいに決まってる!! だが手は震えていなかった。俺は自分の点箱を開け、崩れた分を一本ずつ、まっすぐ王者の前へ押し出した。
「……ようやくだ」
氷室は肩で息をしていた。無敗の王者が、汗を落としながら俺を睨んでいた。
「ようやく分かった。負けたくないってのは、こんなに熱いのか。東雲陽、お前が呼び覚ましたんだ。最終半荘、逃げるなよ。俺はもう、一歩も引かない!!」
「上等だ」
言葉に、血の味はもうしなかった。
一勝一敗。俺は負けた。十四回目だか何回目だか、数えるのもやめた敗北だ。なのに、不思議だった。悔しさは過去最大で、腸が煮えくり返っているのに、恥だけがどこにもない。俺は初めて、一歩も逃げずに散った。
インターバルの空気がざわめく中、観戦席から駆け降りてきたハルが、目の縁を赤くしたまま、俺の前で仁王立ちした。泣くのを我慢している顔で、けれど口元だけは、どうしてか笑っていた。
「あんた、また育てた。……でも」
拳が、俺の胸を軽く叩いた。
「今のは、あんたの麻雀だった!! だから次は――絶対に、勝ちなさいよね!!」
ああ、と俺は頷いた。卓の上では、完全に覚醒した無敗の王者が、最終半荘の牌山を待っている。
逃げ場は、もう自分で焼き払った。最強になった氷室玲王から、俺は意地でも、生まれて初めての勝利をもぎ取る――!!




